週明けから、急に冷え込み

そうか。

 

本日のクラブ活動ー16879歩 13キロ

   ⇊

8時 安山バスタ 発

10時30分 提川バスタ 着

  ➡余談ですが、前日、

   てくてくー10数年ぶりに

   安山駅に。すっかり、様子が

   変わっていました。

   雰囲気は、烏山ーオサンや

   水原ースオンと同様、

   外国人の街ですな〜。

   でも、中国銀行ー安山支店

   は、今も存在していたか。

   10年以上前に、ここ安山で

   購入した半袖のシャツも

   さすがに、10年以上

   使用していたら、ボロボロに

   なったので、そろそろ、

   捨てますかね。

   (しかし、あの時、

    購入した店が、

    まだ、あったのには、驚き)

   さすがに、多文化の街と

   言っても、日本人はいないので、

   もしも、見に行く場合は、

   中央駅(4号線)周辺同様、

   気を付けましょう。

   (まあ、中央駅近辺は、

    名古屋の錦3や東京の

    歌舞伎かな?

    日本語は、目立ちます、

    何故、中央は、cyuouと  

    発音しないのかな?)

 

  「中央」は韓国語で「중앙」という。

  「真ん中、中央」は、韓国語で

  중안(チュンアン)。

  중안を漢字で表すと「中央」。

 

話しを戻して、

 

11時35分 提川バスタ 発

12時10分頃  寧越バスタ 着

 

  バスの本数が、少ないので、

  注意。(1日ー1本、これだけ、

  1度逃したら、翌日まで、ない)

 

寧越バスタの前にある市場は、

放浪市場と言う様ですが、

多分、金笠(キムサッカ)関係

で命名された市場か?

 

13時過ぎから、

パラパラと一雨あり。

寧越府の官衛までで、ストップ。

郷校までは行かない。

ここには、子規楼(竹梅閣だったか

梅竹閣だったか?)及び

薬師楼(閣?)があり。

端宗が最後に住んでいた場所

だったらしい。

 

朝鮮朝第6代国王・端宗(1441~57年)

が最後に居住した寧越府官衙

(江原道寧越郡)を、文化財庁は8日、

文化財史跡第534号に指定した。

 

(日本なら、室町ー応仁の乱勃発の

 10年位前)

 

 

子規楼は配流地にあった楼閣で、

端宗がここに登って子規の声を

聞いていたということから

こう呼ばれるようになった。

韓国の詩 「子規詞」_c0077412_11132594.jpgところで、端宗が胸を痛めながら

その声を聞いたという

ソチョクセは、実は子規(ホトトギス)

ではなく木の葉木菟(コノハズク)

だった。ホトトギスは澄み切った

明るい声で、コノハズクは

湿った暗い声で鳴く。

 

 

 

彰節祠も観光。

ここは、端宗王陵がある所で、

それに関係した祠らしい。

(との説明あり)

 

日本の保元の乱にて、流刑となった

崇徳上皇の如きか。

(こりゃ、恐い、祟り?)

 

1455年に皇甫仁や金宗瑞の権力拡大に

批判的であった成三問ら集賢殿の学者

たちは端宗の復位を計画して失敗し、

1456年に処刑される。

 

明において、1457年1月16日 (旧暦)に

当時上皇であった英宗が景泰帝から帝位を奪還して重祚した奪門の変が起こる。

 

同年6月(旧暦)に上王を廃位となり、

魯山君(ノサングン、ろさんくん)に、

後に庶人に降格される。

 

参考ー日本では、1457年6月、

   本願寺ー蓮如、混乱に乗じて、

   8代目法主に就任、

   表舞台に登場した頃、

   (この時、蓮如、42歳)

 

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以後、江原道寧越へ追放される。

錦城大君が賜死となった翌月の同年10月(旧暦)に王命によりその地

で薬殺刑(賜薬)に処され、

遺体は川に投げ込まれた。享年16。

陵は江原道寧越にある荘陵。

 

 

 

15時30分 寧越バスタ 発

18時30分 ソウル高速バスタ 着

 

本日も、なかなか興味深い

クラブ活動でした。

 

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