人気のない廊下を半ば駆け抜ける。痛いくらいに掴まれた右手首は、反して脱力していた。司書の出払っている時間を見計らって、職員室からも私達の教室からも遠く離れた図書室に逃げこむように入り、鍵を占めてしまい、奥へと連れて行かれる。本棚に勢いよく押さえつけられ、痛みを感じるとともに二三冊本が落ちた。肩を掴み噛み付くように口付けられ、互いの歯がぶつかり合い、鉄の味が口内に広がる前に厚肉がねじ込まれる。それは歯列をなぞり、上顎を撫で、やがて私のそれと絡み合った。隙間から甘い嬌声と引き換えに酸素を求める。一枚の薄い隔たりは、いとも簡単に侵された。禁欲が腕をすり抜ける。透き通るような白が眩しい。ようやく離れていく口唇と繋がる銀はねっとりと糸を引き、そうしてぷつりと途切れた。はあはあと息が乱れる。彼の瞳に、胡乱げな自身の目が映る。そこにいるのはもう、獰猛な獣だけだ。晒された首筋に噛み付かれ、思わず顔をそらし目を強く瞑った。ぎりぎりと歯が食い込み、鋭い痛みを突きつけながら薄い皮膚を破り、つぷりと血が溢れる。痛みに思わず見開いた視界にじわりと水の膜が薄く波紋する。歯型をなぞる厚肉は互いの温度に融けている。
好きだ、と彼が嘯く。耳に吐息が触れて、腰が甘く痺れて、もう一度唇を掠める熱に、そっと目を瞑る。好きだ、何度目かもわからない嘘をつく。見え透いた偽りなどいらない。彼はきっと、私のものになど、なってくれるわけがないのに。その言葉の虚空が何になるというの。
真綿で首を絞められる心地がする。
じわじわと嬲り殺される心地がする。
私はこんなにあなたが好きなのに、あなたは私を見てくれない。そのくせ私の体を支配して、心を縛りつける。私の心を利用して、あの子を思うその心を隠したまま。誰かが背徳だと、この歪んだ関係を諌める。心の伴わない睦言は、ただ虚空を生むだけだ。肌を撫でる掌の熱は確かだと言うのに。この関係がいつまでも続くわけじゃない、変わるわけでもないけれど。あなたがあの子を手に入れたのなら、私はちり紙のように捨てられるだけ。それだけ。それだけよ。
それでもいいの、心をくれないのなら体は頂戴、そんなこと、思えるわけないじゃない。知らないうちに、心はひび割れていく。崩壊の足音が近づいてきている。ひたひたと、ゆっくりと、しかしすぐうしろに。
熱に浮かされて、緩んだ涙腺では、溢れる涙は止められない。鎖骨を噛む頭を掻き抱いて、気付かれないように髪に口付ける。手に入らないなら、これくらいは許して。
いつか、男は断罪の夢を見るか。
もうどこにも行けないなと、熱い息だけどこかへ消えた。
夕焼けのグラウンドから声が聞こえる。野球部の走ったあとに砂埃が舞っているのを、私はじっと見ていた。冷たい風が吹いて震え上がる。もう秋だ。そのうち冬が来るだろう。
寒いね、後ろから声がして、私は耳を塞ぎたくなった。一番聞きたくなかった声だ。少しずつ足音が近づいてきて、すぐ後ろで止まる。私は彼女のそんなところが嫌いだった。人の顔色を窺うようなその態度も、空気が読めないところも。放っておいてくれたらいいのに、わざわざ土足で心に踏み込んでくるんだ。
悪態を喉元に抑えこむ。無理やり笑みを作る。彼女を前にすると、憎しみで顔が歪みそうになる。今、私はちゃんと笑えているだろうか。
「ちゃんと言っておこうと思って」
私の遥か頭上にいる彼女は、私を友達だと信じている。私の気持ちなんて、知らないくせに。ああ心が泣き叫んでいる。形の良い唇が、ナイフを突き立てようとしている。
「付き合うことになったよ」
はにかむように笑うあなた。そのふわりとした桃色の頬を、思い切り張り飛ばしたくなった。うるさい、うるさい。
ああ、吐き気がする。
そのまま放っておいてくれたらどれほど楽だったろう。今泣きたくなるくらい苦しいのに、気づけ、気づけ。
彼との距離は、いつまで経っても開けたままだった。唇を掠める吐息は溶けそうなほど熱いのに、私の心を支配するその目は、冷たい空恐ろしさを感じる。私の心を踏みにじるばかりか、私の目の前にいるこの女を想っていた。私はまっすぐ彼を見つめているのに。
「相談に乗ってくれたおかげだって言ってた、ありがとね」
うるさい、黙れ、もう私を見るな。私の中を覗きこまないで。酷い嫉妬で狂いそうだ。
やめて、もう疲れた。そう言ってしまいそうになるのを、ぐっと歯を食いしばって耐える。悪態が喉元に詰まっていく。うまく息ができない。きらいだ、わたしはあなたがきらいだ。
嫌な女だ、私は。なんて歪んでいるんだろう。彼女を傷つけたいけれどそれもできない。だって彼に嫌われてしまう。それが唯一怖くて、私は彼女を傷つけられないのだ。お願いやめて、疲れた、もう黙って。私の中にいる、憎しみを喰って育つ猛獣が、腹の奥底で暗く笑っているんだ。このままじゃ、わたし、
ああ、でも、
もしその首を
いまここで、しめたなら
「…おめでとう」
踊るピエロの、なんと滑稽なことか。
こんにちは雑種です。
以前の記事『愛し愛され、憎み憎まれ生きている』のリメイク版です。調子こいてたらとても長くなりました。雰囲気エロを目指してみました(笑)
