

稲田氏は代々鎧・刀・画などの寄進をたびたび行っていますが、当神社玄関にある「白人大明神」と刻まれた額も稲田主税助植春の奉納したもので、彗雲鉄啀の書になるものです。そのほか同神社に保存されている箙(えびら)は木製で、蜻蛉の形の彫り物を施し、全国的にも類例が少ないといわれています。
宮人の祖が忌部一族であるとすると、古代イスラエルの礼拝所を模した磐境を築いたのは忌部一族ということになるが・・・。まさかね~と思って、ネットで調べていると、織田信長と武田勝頼との長篠合戦図にとんでもないものが描かれていることがわかった。織田本陣の織田信長のすぐそばに、甲冑もつけず武器も持たない3人の白装束の男が描かれており、その背には六芒星が見えるのである。六芒星は現在のイスラエルの国旗にも記されている紋章である。織田信長の祖先は、織田剣神社の神官で、その神官を務めていたのが忌部氏であるというのだ。推測するに、忌部氏はブレーンとして織田信長を陰で支える存在であったのだろう。問題は、その忌部氏とみられる白装束の集団が六芒星を背に抱いているということだ。忌部氏と古代イスラエルはつながっている。忌部氏が古代イスラエルの礼拝所を模した磐境を築いたのである。インベという音もなんだかヘブライ語っぽく思えてきた。忌部氏が神官を務めていたのが「織田剣神社」で剣山を想起させるのも興味深い。
(※1)和様建築で,梁や頭貫 (かしらぬき) 上にあって上の荷重を支える材。
この場所にはもう一つ、こんな伝説があります。
保元の乱の後、讃岐に流されてしまった崇徳上皇をたずねた源為朝が、阿讃と讃岐の国境の相栗峠(あいぐりとうげ)で弓を引いたところ、うなりをたてた矢は、毘沙門獄に当たり、はねかえって白人神社におちました。
その後、源為朝によって現在の場所に神社が建立され、弓矢が奉納されました。
それ以来弓矢は宝物となり、毎年旧暦の正月十四日に御的射祭りが行われています。
この白人神社の奥社とされる神社が、神社より約100m西南にあります。
『磐境神明神社』。ここに不思議な遺跡があります。
神社の社地は、椎(しい)・松・樫(かし)の木などが密集している、『神明の森』。
遺跡へは、この階段を上ります。
階段を上ると磐境(いわさか)(※2)と呼ばれるとても不思議な形をした、石囲の祠(ほこら)があり、五社三門(※3)の社(やしろ)があります。
(※2)神様を降臨させる対象物のこと。
(※3)石で囲まれ、三つの入口(門)、内側に五つの社がある形のこと。
古代ユダヤの祭祀場と形式が似ていると言われる謎の遺跡。
ちょっと怖いような、不思議な感じがします。
でも、とても神秘的な所です。石垣で囲まれた日本では特異な形態の神社です。 ユダヤの祭祀場とそっくりとの事で、イスラエルの元駐日大使が2回も調査に来ています。この剣山系一帯は古代ソロモンアーク伝説があり、第二次世界大戦後には アメリカのGHQが剣山の大がかりな調査をしたと言われています。
祭神は、国常立神、伊弉冉神、天照大神、豊秋津姫神、瓊瓊杵尊となっている。いずれも皇孫ゆかりの神であるが、伊弉諾神ではなく妻の伊弉冉神、天忍穂耳命ではなく妻の豊秋津姫神と女神が祀られているのは何か意味があるのだろうか?穴吹町史には、「古代忌部の一族がこの村に住みつき、麻や穀物を作るようになった。豊作を願い神明山に集って祀りを行った。やがて聖域を区別するために石を積んで磐境が築かれた。この一族が宮人(みやうど)の先祖である。」とある。神明神社のある神明山は、100mほど東にある白人神社がもともとあった場所とされている。
剣山から天の岩戸神社がナビで行けず、次に向かった所です。
凄い神秘的でした
最後迄読んで頂きありがとうございます~


