奥村助右衛門の妹。

おてんばで男勝りな性格で、

その人柄は加賀では女傾奇者と

呼ばれるまでに知れ渡り家臣たちを弱らせている。

本作では富田流小太刀免許皆伝の腕前だが、

原作では助右衛門があえて皆伝を受けさせず、目録 に留まっている。

慶次の弁では幼い頃は垢抜けない雰囲気の少女だったようだが、

美しく健康的な女性へと成長し慶次を驚かせた。

幼い頃から慶次に密かな想いを寄せており、

これが騒動の引き金になってしまう。

なお、原作小説では、男に目もくれないのは兄の

助右衛門に抱く想いの影響で、慶次のことは全く意識していない。

これについては本作で、慶次が助右衛門に対して

「お前が側に居たら他の男は皆カボチャに見えるだろう」と


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言うシーンに名残を留めるのみである。

慶次の行く先にたびたび姿を現す忍び。

非常に小柄で名の通り骸骨 のような容姿だが、

変装の達人であり体格さえ変化させることが出来る。

彼に狙われて生き延びた者はいないとすら評される凄腕の暗殺者

慶次を殺す機会を何より楽しみにしているが、

同時に彼が持つ魅力に心底惚れ込んでいる。

慶次とは酒を酌み交わすほど気が合う仲になるものの、

捨丸や岩兵衛からは化け物と呼ばれ恐れられていた。

古屋七郎兵衛、佐々成政 、まつと誰彼構わず通じており、

特定の主を持たない。

これについては骨本人が

「忍びも主持ちになると腑抜けになる」と語るシーンがあり、

主従関係を持たないのは彼が持つ気概からくるもののようである。


元武家の出で、幼少の頃に親が戦で敗れ磔の刑に処されたことがある。

しかし事前に親が手配した偽の助命の使者によって救われ、

そのまま忍びとなった。

原作では深草重太夫の弟に慶次への刺客として雇われて登場し、

尾行中に風呂屋で慶次の「悪戯」に引っ掛けられたりするが、

本作では先行の読切版や序盤の金沢編で既に登場ずみであったため、

この役は岩兵衛に置き換えられている。

最初はやや抜けたところもあり、

慶次に気配を悟られたり変装を見破られたりもしていたが、

中盤で再登場後は原作通りの化け物じみた存在として描かれている。

捨丸や岩兵衛にも全く気配を悟られず、

さらに岩兵衛に心を読ませない(岩兵衛の弁では


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「真っ暗で心がない」とのこと)など格の違いを見せ付けた。

風魔一党は相模 足柄郡に拠点を持つ忍者集団で、伊勢盛時(北条早雲 )の時代から諜報 ・後方攪乱などで活躍した。本姓は風間であったが、やがて風魔と称されるようになった。

北条家に仕えること100年の間で、最も有名なのは北条氏政氏直 父子に仕えた五代目風魔小太郎(? - 慶長 8年〔1603年 〕)であり、「身の丈七尺二寸(2m16cm)、筋骨荒々しくむらこぶあり、眼口ひろく逆け黒ひげ、牙四つ外に現れ、頭は福禄寿に似て鼻高し」という異様な姿だったという伝説も残っている。特に1580年武田勝頼 との黄瀬川の戦い では、闇夜に紛れた攪乱作戦で目覚しい戦果を挙げている。著名な忍者の一人、二曲輪猪助 も風魔忍者である。

北条家が滅亡すると、小太郎と風魔一党は江戸 近辺を荒らし回る盗賊 に成り下がり、1603年 に盗賊・高坂甚内甲斐 武田家 に仕えた忍者)の密告により徳川家 に捕縛され処刑されたと言われている。

なお、『北条五代記 』にしかその名前は見えないことが武江年表に記載されており、軍記の著者の創作の可能性もある。



小太郎と同一人物であるかは不明だが、「風間(ふうま)出羽守」なる人物が度々北条氏の文書に登場し、警備担当や諜報任務に当たったことが記録されている。下山治久 『後北条氏家臣団人名辞典』では、風間出羽守を忍者と解説している。

文書によると、元亀 3年(1572年5月7日 付けで、岩井弥右衛門尉に対して風間某が7月まで6ヶ村に逗留するので宿以下の用意を命じ、不法があれば小田原城 に訴えるように命じた。元亀4年(1573年 )には、百姓からの苦情で、風間某は武蔵国 すな原(現在の埼玉県 鴻巣市 )での在宿を禁じられた。

この他、岩付城 の夜間警備を命じられたり、天正 10年(1582年9月13日 付けの北条氏政 書状では、風間出羽守に信濃国遠江国 の戦況を知らせた上で、示し合わせて出陣するよう命じられている。

また、風間出羽守の嫡子 に雨宮主水正という者がおり、岩付城下の妙円寺 (埼玉県さいたま市 岩槻区 黒谷)を開基したという。


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本間(羽茂)高茂;

本間氏の一族で佐渡羽茂城 城主。

三河守。

反上杉の急先鋒。

左馬助と通じており、河原田城に籠城 して上杉軍を苦しませる。

血々丸という犬を可愛がっているが、

その犬とじゃれている人質の子供を張り倒したり、

自分に都合の悪い報告をした部下を刺し殺すほどに

残虐な性格である。

額に三日月の傷がある。

落城後、逃亡したが妻子と共に捕らえられ磔にされ、

妻子らが先に殺されるのを見せられて泣き叫びながら処刑された。

自害していれば妻子は助かったとして、

高茂が小人物であることにされており、

処刑を命じた上杉景勝・直江兼続を擁護する描写になっている。


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本間左馬助


 佐渡羽茂本間氏。河原田本間氏と長年に渡り対立。
沢根城主。
天正十七年六月十二日、景勝は千余艘の船を率い、
佐渡に上陸。左馬助はこれにい、河原田城を攻撃。
本間佐渡守高統は自刃。すると景勝は、
六月十六日に羽茂城を攻撃。
わずか一日で落城し、城主本間高茂、
弟の赤泊城本間三河守高頼は逃亡。
しかし、捕らえられ、国府川原で斬首。
こうして佐渡は景勝の領地になった。
本間左馬助、潟上城主本間秀高、
雑太城主本間憲泰、久和城主本間泰時らは所領を没収。

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越後に移された。のちに景勝に従い会津へ。
 
蛮頭大虎

単身河原田城に攻め入ろうとして

制止した者を殺害してしまい牢で頭以外地中に

埋められていた男。

作中ではもっとも巨体で、その人並み外れた怪力ゆえに、

なでたつもりでも人を殴り殺してしまうほどである。

顔に似合わず頭がよく、本間左馬助が裏切っていることを

見抜いていた。

慕っていた兄の信忠は兼続を庇って討死。

額に「丸に千鳥紋」の刺青 をしているが、

慶次は「おでこにヒヨコ」と言っている。

戦の最中致命傷を負わされてしまうが「蓮に髑髏」の

旗印を倒さないために、


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槍を自らの足に突き刺し不動の体勢で絶命する


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坂田雪之丞


朱槍を許された同僚に嫉妬して半殺しにしてしまい、

牢に入れられていた男。

慶次の計らいで上杉軍に復帰、慶次の朱槍を任される。

粗野で乱暴なところがあるが、心優しく人情味のある青年。

「いつか大手柄を立てて立派な大名になる」という夢を持つ。

実は茂兵という百姓侍で、

功名心の強さから名を詐称していたことを治作に明かした。

佐渡の本間軍との戦闘では先陣に立ち奮戦するが、

本間軍兵士の狙撃から子供をかばい銃弾を受け死亡。


村井陽水

若水の息子。

末森城救援が初陣。

生意気なだけの未熟者と父親を嘆かせていたが、

慶次らと共に戦う中で人間的に成長し武士としての

生き方を真剣に考えるようになる。

父親に似て非常に酒が強い。

若水が利家の面目を保つため切腹を命じられた際、

父のやりたいようにやらせてくれと

涙ながらに訴え、慶次と酒比べをした。


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利家配下の隻眼で小柄な老将。

利家が秀吉から拝領した信長の遺品の甲冑に

傷をつけたため、切腹 となるところを慶次の機転で救われる。

その後、利家が兵力の不足から見捨てようとした末森城 への

援軍をただ一人断固として主張するが

認められず、息子とわずかな手勢を率いて勝手に救援に向かう。

そして慶次の助勢で見事功名を挙げ、

出来の悪い息子の陽水に武士の、漢の何たるかを教える。

通称や諱は異なるが藩主・前田利家の甲冑を

下賜された忠臣村井長頼 をモチーフにしているようだ。

息子が陽水であることから、

諱は井上陽水 の父親の名から引用したものとみられる。


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小柄な体格に似合わず、慶次と対等に酒を酌み交わすほどの酒豪。


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義姫
(よしひめ、天文 17年(1548年1547年 とも) - 元和 9年7月17日1623年 8月13日 ))は戦国時代 の人物で出羽国戦国大名最上義守 の娘、最上義光 の二歳下の妹にあたる。伊達輝宗 の正室、伊達政宗 の母。米沢城の東館に住んだ事から「お東の方」とも呼ばれた。出家後は保春院。


出羽山形城 にて最上義守 の娘として生まれる。義姫は兄の義光 とは仲が良く、両者の間で遣り取りした手紙が多数残されている。


永禄 7年(1564年 )頃、最上氏 と対立していた伊達輝宗 に嫁ぎ、永禄10年8月3日(1567年 9月5日)、19歳で政宗 を産み、その後小次郎 、二女(ともに夭折 )を産む。


天正 6年(1578年 )、上山城 主・上山満兼 が彼女の夫・輝宗と連合し兄・義光を攻め、義光は圧倒的不利な状況に陥った。兄の危険を察した義姫は、駕籠で陣中を突っ切り夫の元へ馳せ参じ、「何故このように情けない兄弟喧嘩をなさるのか」と輝宗に訴え撤兵させた。


天正12年(1584年 )、政宗が伊達家の家督を継ぐ。1585年 には輝宗が畠山義継 に殺され未亡人となった。彼女は、隠居したといえど影響力のある輝宗を疎んじた政宗が、謀殺したのではないかと疑い、政宗に関して不信感を抱いたとされる。さらに政宗が奥羽(東北地方 )の覇者たるべく各地に進撃する中、最上家 とは遠縁にあたる塩松氏 に攻め込んだり、最上家の本家にあたる大崎氏 に攻め込んだことが、彼女にますます不快感を抱かせた。

一方、彼女の兄・義光政宗 に警戒を強め、自らも庄内侵攻を開始し、伊達・最上間の対立もより深刻化していった。このことが、彼女の伊達家中での立場を悪化させていった。

天正16年(1588年 )の大崎合戦 では、政宗が義光によって包囲され危機的な状況に陥った。このような状況において、義姫が戦場に輿で乗り込み、両軍の停戦を促した。義光は諸大名の手前、和睦は屈辱であることこの上ないと感じたが、妹の頼みを断ることができなかった。このため、80日ほど休戦の後に両者は和睦している。この後、義光は伊達・大崎間の調停に努めるが、伊達側は最上側に不信を抱きなかなかうまくいかなかった。この時、義光が義姫に間を取り持つよう哀願した書状が残されており、義姫が兄から深く信頼され、かつ伊達家において発言権を持っていたことが分かる。



政宗が豊臣秀吉小田原征伐 に参陣しようとしていた天正18年(1590年 )、義姫自身が毒入りの膳を政宗に差し出す事件が起こったとされてきた。政宗は毒を口にしたが、解毒剤のおかげで難を逃れたという。

この件により母子の対立は頂点に達し、政宗は弟・小次郎を自ら斬殺したと伝わる。ただし、この毒殺未遂の根本史料は伝わっておらず、話が詳細に伝わるのは江戸時代の記録「治家記録」などによるもので、治家記録では食事をする前に御膳番衆が企みを見抜き、政宗はそのまま帰宅したとされているが、これについても否定的な見解があり[1] 、この混乱期の政情については諸説あるのが現状である。

政宗の小次郎斬殺後も、義姫は伊達家に留まり母子は親しく文の遣り取りをしていた。彼女は文禄2年(1593年 )には、朝鮮で従軍中の政宗へ、現金三両と和歌(あきかぜの たつ唐舟に 帆をあげて 君かえりこん 日のもとの空)を添付した手紙を届ける。政宗はこの書状に感激、母への進物を探し回り、ようやく朝鮮木綿を入手すると「ひとたび拝み申したく念望にて候」としたためた書状を送った。


母子で手紙のやりとりのあった翌年の文3年(1594年 )、政宗の師である虎哉宗乙 から京都にいる政宗の大叔父にあてた手紙によると、11月4日に義姫が岩出山から出奔して山形に戻ったとある。出奔の理由や経緯は不明だが、政宗の留守中に不快な出来事があったのかもしれない。

慶長5年(1600年 )、奥羽では慶長出羽合戦 が勃発する。この際、政宗は最上義光より援軍を請われ、義姫も政宗に援軍を急かす書状を送っている。

片倉景綱 は政宗に、最上勢と敵軍が疲弊するのを傍観して待つよう進言したが、母の安否を気遣った彼はその言を退け援軍を派遣したと言われている(ただし伊達勢は戦況を静観し積極的に動くことはなかった)。戦後、義姫は政宗と援軍の留守政景に対して感謝の書状を送った。

慶長19年(1614年 )に義光が没した。義姫は兄の死後、最上家中がすっかり様変わりしたと嘆いていたという。その後の内紛によって元和8年(1622年 )に最上氏が改易 されると、義姫は行き場を失った。そのため政宗を頼り、元和9年(1623年 )その居城・仙台城 に入り落飾した。この頃の保春院は目と脚が悪くなっていたようだが、江戸にいる政宗の正室・愛姫 に手製の下げ袋を贈り感激させている。この年7月17日、同地にて死去。享年76。政宗は寛永 12年(1635年)、母の十三回忌にあたり菩提を弔うため仙台市 若林区 に保春院を建立し、翌年の2日前の4月18日に落成を祝った。保春院は、宝暦 2年(1757年)に火事で焼けてしまったが、政宗自ら作った母の位牌が残されている。

手紙のやり取りや仙台城に迎え入れられた際、二人が交わした和歌の内容や、政宗の発言からして、晩年には義姫・政宗母子は完全に和解していたとみられる。