クロード・モネ
昨年、東京都美術館で大々的な展示会が開催され、再度注目を浴びていたモネ。
光の画家、白内障、印象派の巨匠。
画家の中でもこれほど知名度の高い人も世界的に珍しいと思います。
今回は数々の名作の中でも、日本でも展示されていた『印象 日の出』について書きたいと思います。
さぁ、まずはモネという人間は若い時はどんな人柄だったかというとこから紐解いていきましょう。
こちらが、若き日のモネ。
髭がないだけで、ずいぶんと印象が違いますね。
生まれはパリ。父親のクロード=アドルフ・モネは食品雑貨商を営み、母親は歌手でした。
経済的な理由から、一度はパリを離れますが…どうても画家として成功したかったモネは19歳の頃に再び戻ります。
そしてシャルル・グレールの画塾でルノアール、バジール、シスレーらバティニョール派(後の印象派)と呼ばれる画家たちと知り合い、同年代ということもあって意気投合しました。
その中でも特にバジールとは深い友情で結ばれます。
バジールは、家が裕福だったこともあり医者になる事を目指していましたが「解剖が苦手…」という理由から画家に転身して、モネと共同でアトリエを使ったりと良き同士でした。
モネの為に献身的に、画材を提供したり、作品を高値で購入したりします。
実際にモネはバジールに甘えきっていると手紙に記し、バジールはすごい才能の画家がいると両親への手紙に綴っています。
モネの感性を最初に信じて、世に広める為に奮闘したバジール。
画家仲間をまとめるリーダーであり、バジール自身の作品も洗練された構図で突出した存在。
しかし、彼は責任感の強さからか、普仏戦争が始まると志願して従軍し、29歳という若さでこの世を去ります。
家族や仲間はこの知らせを聞いて、涙し
モネはというと、部屋に閉じこもり悲しみのあまり叫び続けたといわれています…
そして、この3年後に開催された「第一回印象派展」にモネは『印象 日の出』を展示します。
この絵はあいまいな色の配色や日の出の発色が目に毒なのではないか?と言われる程、人々から顰蹙を買うことになります…
しかし、ここから印象派というものが徐々に人々に知れ渡り、以降の西洋美術の分岐点となっていきます。
ここからは僕の解釈ですが、
きっとモネは大切な親友を失った喪失感のまま、
どう生きていこう?と自問自答を繰り返し闇の中をさまよっていたと思います。
そしてある日、
何も変わらずあがる日の出に希望を見出してモチーフにしたのではないでしょうか。
花が咲くこと、太陽があがること、水が流れること
自然界で繰り返される当たり前のこと
街がどんなに混沌としていても、
明日も太陽はあがり、明後日も暖かな光はこの街を照らす、
そんた普遍的な変化に救われることがある。
大切な作品だからこそ、ここぞという勝負の時に披露した作品
評価とかそういうものではなく、
バジールの為に。
そしてバジールは誰よりも、この日を待ち望んでいたことでしょう。
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