息子を産んでもうすぐ22回目の誕生日がやってきます。

長かったような早かったような…そんな気持ちです。


息子を産んだ日の光景は今でも鮮明に覚えていて、真っ赤な顔をして手足をピンピン伸ばしてホゲホゲしてた息子が『あぁ…もう22かぁ』なんて感じているわけで。


そして、今の私は息子がいなかったら存在していなかったでしょう。

息子がいなかったら私は何をしてたかな?
デザインの仕事をしていたのかな?

きっと介護福祉士にもなってなかったと思います。

そもそも『夜勤をする』仕事を選ばなかったと思います。


それは私が子どもの頃、母は看護師で
どれだけ私が高熱を出しても仕事に行かなきゃいけない母を見ていたから。

『お母さんに側にいて欲しいな…』って頭の中では思っていても、働く姿を見ていた私はそんなこと口に出せなかった。

本当はいて欲しいけど、白衣を着て働く母は私の誇りだったから。
ナースキャップつけて笑顔で病院内を歩き回ってササッと仕事をこなす母は、仕事が終わると熱がある私を病院に連れて行ってくれました。

絵を書くのが好きな私は、小児科の点滴に絵を書いてあげてよ!と言われ休みの日に病院に行ってペンでイラストを描いたりもしていました。

カッコイイ母。誇りだった母。

それでも一緒にいて欲しかった母。


自分も母になり、息子と過ごし
まさか母と同じように夜勤をこなす仕事につくとは。


巡り合わせと言うべきなのか、なんなのか…。


介護福祉士と言う仕事を選ぶにはいろんな出来事がありました。

まずは祖母の認知症。

祖母の認知機能の衰えを間近で見ていた私は、まだ若すぎて上手に対応が出来ませんでした。
と言うか、しっかりと理解してあげること、受け入れることが出来なかったんですよね。

それでも何かしてあげたくて汚れ物の洗濯(祖母の生きていた頃はまだ老人ホームがメジャーではなく、病院に入院していました)を回収し洗濯してあげたり、マメに面会に行ったりしていました。

祖母はだんだんと現実の世界には戻れなくなってきて
息子のことを見ても孫だと認識できず自分の弟だと思って接していました。

『ブーブいいね。』とニコニコしながら息子の車のおもちゃを眺めていた面会室の中の祖母。

その頃幻視もあったのかベッドの下に潜っては頭をぶつけることもあったそうで、内出血のあとも見られていました。

最期は嚥下がうまくいかなくなり窒息。

祖母は幸せだったのか…

私はもっともっと祖母の気持ちを理解してあげたかった…

そんな気持ちが胸にしこりのように残りました。



その頃息子の育児でも悩んでいました。

母子手帳や育児書のように進まない発達。

将来への不安…。


息子を直視し過ぎて不安になり落ち込む私はだんだんと旦那とも溝が生まれ離婚。

ますます逃げ場がなくなる私と息子。


そんな時にうちのポストに入っていたヘルパー2級養成講座のダイレクトメール。

なんだか運命を感じました。


子どもと一緒に居られなくなるかもしれないけど
もしかしたら育児の手掛かりになるかもしれない…

祖母にやり残したことを見つけられるかもしれない

母のように強く自分を持てるようになるかもしれない…

最初は介護に興味を持ったと言うより、まずは息子や祖母の今の気持ちを理解出来る人間になりたかったんだと思うのです。


休みの日にスクーリングに通い、最後は実習。
初めての施設体験で私は利用者さんにおでこを引っかかれて流血したっけな。

その時はびっくりしたけど、そんなの考えてる暇なんて無くて『次は何をするをするんだろう、どうしたら上手にコミュニケーション図れるんだろう』って。
相手のことを理解するための術を必死に探していました。


資格を取りその後すぐに介護の仕事に就こうかどうしようか悩みました。
それはやはり息子のことがあったから。

言葉の教室への送り迎えや何かあった時の対応は全て私の役目…と言うか私しか居ないわけで。


平日休みが取れて息子のこともやってあげられるところ…。
初めての介護の現場はデイサービスでした。

いまだに仕事の話をするミキティーとはここで出会いました。もう10年以上のお付き合いなんだねー😊

しかしここでの仕事はたった2ヶ月で終わりました。

とは言え稼がない訳には行かずすぐに派遣会社に登録。2日後には介護に全く関係の無い仕事についていました。

職場のみなさん優しくて、悩むことも無くて…



でも何か引っかかる。
日に日にまた介護の仕事をしてみたい…そう思いました。

3Kって言われる仕事。
実際、1つ目の職場は私には合いませんでした。

休みの日、たまたまハローワークで見つけた施設へ面接に行ってみることにしました。

その前に実は二件面接をして落とされていました。
理由は1つ目の施設の勤務期間。

たった2ヶ月で辞めてしまうことはマイナスでしかなかったんですよね。


次、もしダメならもう辞めよう…
そんな気持ちで行った面接はまさかのあっさり合格。


『うちの主任厳しいけど大丈夫?』って言葉にドキドキしたのを覚えていますが、諦めきれないならやろう!ダメならダメで次を考えよう!

そして働き始めた私。


確かに厳しかった!!
主任だけじゃなくて先輩も厳しかったー!!

でも頑張れた。それは利用者さん第一に考える施設だったから。出来なくて苦しくなったり冷たい目線でイラつかれた態度を先輩にとられても利用者さん第一主義はとても勉強になったし『あ!私、ここ上手になったらもっといい介護できるんだ。』って納得が出来た。


3ヶ月、6ヶ月、1年…
今度は自分が先輩の立場になれるまで辞めることなく働くことがてきたんです。

そして2年、3年…
とことん言われてきた『自立支援』という言葉の通り、私は利用者さんだけでなく息子さえも待つことの出来るお母さんへと成長しました。

そのままを受け入れる、相手のペースを見て必要な支援だけをする。

介護の仕事に子育ての術さえ教えていただいたわけです。


目からウロコでした。

なんだ。今まで私は周りに合わせてばっかりで
それを息子にもさせていたんじゃないか。

息子は息子、私は私、人は人。

比較したって唯一無二の存在にそんなこと無意味なんだって思わせてくれました。



息子も介護の仕事をしようとしたけど途中でドロップアウトしてしまいましたが

先日話したら『今でも好きだよ!』と言ってました。

その言葉が嬉しかった。



もうすぐ息子は22歳。

母さんは夏になったら40歳。


君をお腹に授かってもう23年経っちゃうんだよ!
早いてー!!!

お母さんはそんな40になる歳に実は実は
教える立場の人になろうとしているよ。


介護の楽しさや必要性、そしてこの仕事をしているたくさんの方々にお会いしたい!興味を持っていただきたい!

お母さんの無謀な野望はまだまだ続いています。