東京の街もいよいよ本格的な梅雨に入った。
薄暗い空の雲は低く立ち込めている。
高層ビルの最上階にある真澄の執務室は、もはや雲の中だ。
大都の北米支社の責任者とのリモートでの打合せを終えて窓を見れば、雲の中とは言え、夜が明けた事はわかる。
ニューヨークとの時差は14時間。
いつもなら北米支社長がこちらに合わせてくれるのだが、今回はどうしても調整がつかなかった。
原因は真澄の方にある。
6月末の日曜日に、真澄は人生最大のイベントを控えているのだ。
長年思い続けた最愛の女性、北島マヤとの結婚披露宴だ。
通常、結婚といえば、女が主役で、男は添え物といったきらいがあるが、振興とはいえ旧財閥の御曹司で、日本屈指のグループ企業のCEOを務める速水真澄の結婚となれば、新郎側といえど何かと多忙になるのは仕方がない。
とはいえ、会場の手配から招待客のケアまで、当事者はほとんど何もしていないのが実情だ。
何故なら、結婚披露宴はもはや個人のイベントというよりは、大都のイベントといっても差し支えないレベルのものであるからだ。
故に、大都の本社にある事業企画室秘書課をあげての一大プロジェクトとして、CEO筆頭秘書兼事業企画室長の水城を中心に滞りなく準備が勧められていた。
それでもやはり、真澄のスケジュールはいつにも増してタイトなものになっていた。
その理由には大きく二つあった。
まずひとつめは、披露宴のあとにハネムーンを予定している事だ。
CEOが三週間も休暇を取ることは、簡単なことではない。
だが、真澄はどうしてもマヤとハネムーンに行きたいと思った。
今後、海外旅行は何度でも機会はあるだろうが、ハネムーンは一度きり。
このチャンスを逃してなるものかという真澄の乙女心にも勝る意気込みに、水城は根負けした。
だが、転んでもタダでは起きない、強かな女傑水城である。
ハネムーンには欧州の主要ブランチの視察と欧州における主要取引企業とのトップミーティングとビジネスディナーがセッティングされた。
当初真澄は仕事兼用旅行に難色を示すも、欧米では公式な場に伴侶を伴うのは当然で、マヤをお披露目する絶好の機会ではないかと水城に言われれば返す言葉もない。
おまけに、紅天女の欧州ツアーを実現するための布石を打ってこいと、マヤをダシに使われた宿題まで出される始末である。
もうこうなると、どっちが上司だかわかったものではないと、嫌味の一つもこぼしそうになる真澄だったが、水城とて鬼ではない。
ハネムーンとして十分なお楽しみは用意されている。
水城は口にこそ出さないが、マヤを相当に溺愛しており、真澄のそれとは異なるものだが、実の妹のように可愛がっているのだ。
超一流の五つ星ホテルのスイートに、オペラやバレエ、クラシックコンサートの観劇三昧。
美術館や博物館も選り取り見取りであり、マヤの歓喜は必至である。
真澄としては妥協せざるを得ない。
マヤはとにかく、「速水さんとなら、どこで何をしていても幸せなの。速水さんの他には何も要らないの。」の一点張りで、無欲の極みを地で行く人間であった。
だが、真澄がそれでは嫌なのだ。
自分がやれる事はなんでもしてやりたい。
マヤを喜ばせたくてたまらない。
そして実のところ、いくら無欲なマヤとはいえ、芸術鑑賞だけは事の他喜ぶのを知っている。
その喜んだマヤの笑顔がとにかく見たい真澄であった。
そして二つめの理由が、そのマヤだ。
己の一世一代の結婚式だというのに、とにかく無欲で、我儘どころか、要望のひとつも言わない。
かといって、結婚式を蔑ろにしている訳ではなくて、このイベントが自分のためというよりは、真澄のひいては大都のために大切な場であるという自覚が強くて、周囲の意見やリコメンドを素直に受け入れ、逆にあれやこれやと頑張りすぎていた。
それが真澄にはどうにも不憫に見えてしまうらしい。
そのため、真澄はドレスの打合せ、ヘアスタイルの打合せ、果てはブライダルエステまで、送迎という形で自分も付き合うと言い出したから大変だ。
まあ、詰まるところ隙あらばマヤと一緒にいたいという真澄のわがままである事は水城にはわかっていたが、あえてそこには目を瞑り、黙々とスケジュールの調整に心を砕いた。
ここに至るまでの二人の苦難を思えば、それも仕方ないと、半ば諦めの境地だ。
とはいえ人間、時間だけは平等で一日24時間しかない。
なので必然的に、真澄は睡眠時間を削って、仕事をこなすことになった。
未明の打合せを終えれば、待ちに待った土曜日。
結婚式が一週間後に迫ったマヤには予定が満載であり、その全てに立ち会おうと思っている。
土曜日の午前、マヤをマンションまで迎えに行き、美容室へ。
当日のヘアスタイルのため、カラーとカットの事前準備だ。
サロンに到着すれば、何も言わなくとも、スタッフに奥の個室に案内される。
〜真澄様のスタイリングもついでに頼んでおきましたわ。〜
とは、前日の水城の言葉。
“ついで”ってなんだよ、、、と思いながらも、己の事は後回しにしている自覚もあったので、正直水城の気遣いはありがたかった。
VIPルームでマヤがカラーやカットをされている間は、同じ部屋のソファーでお茶を飲んで、マヤを待っているだけだ。
カラーの待ち時間の間に、このサロンのオーナーであり、マヤ専属のスタイリストがサクッと真澄のカットも済ませてくれた。
当日の二人の婚礼衣装のイメージを完全に把握している彼女に任せておけば間違いはない。
「当日はスタイリング剤でサイドを押さえて後ろに流しますので、全体を整える程度にしました。」
シャンプー&ブローまで終えて、クロスを外されれば、再びマヤ待ちとなる。
入れ違いでシャンプーをしてもらったマヤが鏡の前に戻ってきた時、真澄の姿を見て嬉しそうに、そして少し照れたように笑った。
「惚れ直しちゃったかな、マヤちゃん。」
スタイリストがちょっと悪戯っぽく耳元で囁くのが真澄にもしっかり聞こえた。
鏡越しに目を合わせてきたマヤが、ニコッと笑って真澄にウィンクした。
どうやら合格をいただけたらしい。
マヤは簡単なブロー仕上げでとどめられていた。
この後、軽くランチをとって、休息した後はエステの予約がしてあったからだ。
最終の施術は前日になるが、今日もどうしてもやっておかなければならない。
何故なら明日、衣装の最終チェックとヘアメイクのリハーサルをしながら、婚礼写真の前撮りを予定しているからだ。
もう二人にとっては結婚式が始まっていると言っても過言ではない。
ヘアサロンを出て、二人は結婚式の会場となるホテルに向かった。
そこで軽めのランチを済ませて、マヤはホテル内にあるサロンでブライダルエステを受けた。
やはりここでも真澄はマヤの戻りをサロンの応接室で待つだけの時間と、のほほんとマヤの様子を眺めているつもりの真澄であったが、当日の披露宴の司会者の最終打ち合わせがちゃっかりブッキングされていた。
どこまでも卒のない己が秘書に、真澄は感嘆と諦観が混ざり合った溜息を溢した。
賓客の席次や祝辞の順序などは既に水城達の手で完璧なリストが用意されていたから、マヤや真澄との関係性および個人的なエピソードなどのヒアリングが中心であった。
今回、司会を頼んだのは、某テレビ局のアナウンサーである三宅真一氏だ。
人好きのするぽっちゃり体型で、軽妙な語り口が人気のベタランアナウンサーで、同局では既に上席幹部であり、学年は離れており学生時代の接点はなかったものの、同じ大学の先輩だ。
彼は、クラシックやオペラ、演劇エンタメに精通しており、長年マヤの信奉者でもある。
まだマヤが無名の頃から、当時大都芸能の社長だった真澄に「あの娘は日本の演劇界に革命を起こす金の卵だ」と言って憚ることなかった。
そして彼の真贋は確かであったことをマヤが証明するのに大した時間はかからなかった。
そして、真澄とマヤが紆余曲折を経て婚約を発表するとすぐに、彼から真澄に連絡が入ったのだ。
「君達の華燭の典は是非僕に仕切らせて欲しい。」と。
いったんエステサロンを出た真澄は、ラウンジへ向かい、あらかじめリザーブされていたボックス席で三宅と対面した。
「お久しぶり。忙しい所申し訳ない。」
「いえいえ、三宅さんこそお忙しい中、御足労願いまして、ありがとうございます。」
親しき仲にも礼儀あり。まずは社交辞令に近い挨拶が交わされるが、普段の真澄からしたら、気を許した相手にだけ見せるフランクな空気感を漂わせていた。
それを具に感じ取った三宅がニヤッと笑った。
「忙しくても、幸せそうだよねぇ、、、」
「えっ? ま、まあ、、、、」
「経済界では若き獅子と呼ばれた男なのに、マヤちゃんのことになると、別人だもんね。
あ、それは今に始まった事じゃぁないな。
昔から貴方の眼は、彼女を見る時だけ違ってた。
スタジオや舞台の場では、誰よりも厳しい眼で彼女の仕事を見ていたね。
かと思えば、一旦仕事を離れたら、もうこっちが恥ずかしくなるくらい情熱的な視線を送ってた。
悲しみや、やるせなさを湛えてた時期もあったね、、、見てるこっちも切なくなったもんだよ。」
真澄はまいったなぁと自嘲気味に笑った。
そしてちょっと皮肉混じりに問いかける。
「今の私はどんなですか?」
「ん?それを僕に言わせるのかい?
それは、本番にとっておこう、、、楽しみに待っていてくれ。」
「お手柔らかに頼みますよ、先輩」
そして翌日の最終衣装合わせと前撮りは、真澄にとってこれまで頑張ったご褒美デーとなった。
式の当日はおそらくゆっくりマヤを愛でる余裕などないだろうから、今日のうちにマヤをお腹いっぱい堪能しておけという、水城の声が聞こえてくるようだ。
紅天女の後継者らしく、文金高島田に白無垢。
金銀の錦糸で刺繍を施された白い打掛姿のマヤ。
真澄は黒の紋付き袴姿だ。
式は古式ゆかしく、明治神宮で神前式をする。
そして夜の披露宴は、マヤは純白のウェディングドレスに、真澄は黒燕尾。
お色直しはマヤのみで、薄紫のチュールレースを何層にもあしらったプリンセスラインのカラードレスである。
いくつものデザイン画の中から二人で選んだものだ。
ブーケはもちろん紫色の薔薇のラウンドブーケだ。
全ての衣装と小物、そして各スタッフが披露宴を執り行うホテルのインペリアルスイートに本番と同じく一同に会した。
そして、和装から順にリハーサルを行っていく。
衣装を着るたびに、スイートの一室に設られた簡易スタジオでスチール撮影が行われ、その後ホテル内の各所で、様々な写真が撮られた。
撮影をするのは、もう何年もマヤを撮り続けてきた仁科甘雨だ。
運良く梅雨の晴れ間となった今日は、ホテル内の日本庭園での和装の写真、ガーデンチャペルでの洋装写真など、数十パターンの撮影となった。
「まるで写真集の撮影ですね、、、」
撮影の合間にマヤが真澄に囁いた。
「なんだ、今頃気づいたのか。」
真澄がニヤリと笑った。
「俺だけのマヤの写真集を作ってくれと、仁科さんに頼んだんだ。」
「速水さん、、、なんか性格変わりました?」
「いや、今まで我慢していただけだ。
マヤに関してだけは、俺は執着・溺愛系の男になるんだ。」
後ろに控えていた水城が思わず顔に手を当てて俯いた。
〜とうとうご自分で言ってしまわれたわ。自覚はおありだったのね、、、安心すべきか、憂うべきか、もはやわからないわ。〜
仁科のファインダーは、そんな真澄達の何気ないオフショットもしっかりと捉えていた。
髪やドレスを直して貰っているマヤを愛しそうに見つめる真澄の横顔。
ホテル内の移動中、常にマヤの手を引き甲斐がいしくエスコートをする真澄の後姿。
これらの写真は、真澄本人さえ知らないところで一冊の写真集としてまとめられ、マヤの手に渡ることになる。
そう、マヤもまた仁科に内緒でお願いをしていたのだった。
仁科はそれを自分からマヤへの結婚のお祝いとして贈ることを約束してくれた。
一日がかりのリハーサルと撮影を終えた二人は、挙式までの一週間を恋人同士として最後の時間として、楽しんだ。
そして迎えた6月の最後の日曜日、ギリギリのJune bride。
昨夜降った雨で湿り気を帯びた神宮の杜の木々の香りが真澄とマヤを神聖な気持ちにさせてくれる。
荘厳な雅楽の音に耳を澄ませ、神主の祝詞に、神様に玉串を捧げ、三三九度の盃を交わせば、真澄とマヤは晴れてこれから人生を共に歩む夫婦となった。
長い月日を超えて、分かち難い絆で結ばれた二人は清々しい気持ちで神域を後にした。
後日談
結婚式当日は予想通り怒涛のスケジュールで、正直真澄もマヤもあまり記憶が定かではなかった。
だが、一ヶ月後に届いたビデオとアルバムを二人で観て、ようやく実感が湧いた。
「ちょっとしたドキュメンタリー映画だな、、、」
Blu-rayレコーダーで再生された動画を見ながら、真澄が呟く。
「速水さん、ちょっと緊張してる、、、」
神前式中に抜かれた真澄の横顔を見て、マヤがしみじみと言った。
「ああ、いよいよマヤとって思ったら、柄にもなく緊張した。」
真澄は何冊かに分けられたアルバムをゆっくりと捲る。
たくさんの幸せな笑顔がそこにはあった。
自分達だけでなく、自分達をここまで見守り支えてくれた人々の笑顔も。
彼らの幸せな笑顔に、これからもっと恩返しをしたいと思う。
そして、このアルバムには終わりなく、更なる幸せなページを増やしていきたいと、改めて心に誓う真澄とマヤであった。
Fin

