生育歴【タタカえる糧編】 | 義家の人たちとアタシ

義家の人たちとアタシ

長男の嫁として義家に馴染もうと歩み寄りましたが、義弟が結婚してからは、
義弟嫁を「長男の嫁と違って、いいお嫁さんだ」と、べた褒めする義家の人々。

歩み寄りをやめて9年後アタシの『大!?逆転』が待ち受けていようとは!?

そのいきさつを綴ります。


《ご覧いただいておられます皆サマ方へ》

昨日記事にも記しましたが、記事内容に、ご批判をしたくなられる思いも出てくるでしょうが、どうぞ、「うさのことやし、しゃあー、ないな」で、受け取っていただければ、と存じます。
_(._.)_

小学生の頃、母ちゃんが土木作業員の仕事で骨折をし、3ヵ月間の入院をした。

その間、父親と2人きりの生活。

酒を飲んでは、アタシに「病院に電話ば、かけて、(母に)帰ってくるごと言え」と、毎日のように言って、アタシが嫌がると、叩く、蹴る。

一度、蹴られている時に、蹴り上げられた弾みで家の縁から土間に落ちて、眼瞼がおいわさんのように腫れ上がった。

同級生のおばさんが、見かねて、母の実家に言いに言ってくれたのを切っ掛けに、親戚をたらい回しのように預けられた。

子どもながらに、預けられた家に遠慮しながら、気を使いながら、そうしないと、居れませんでしたからねー。

父方・母方の祖父母は、亡くなって居りませんでしたし。

当時、母ちゃんの一番上の姉が、隣村で独り暮らしをしていたので、最終的にはその伯母の家で、母ちゃんが退院するまで、面倒をみてもらった。

(伯母は晩年、大阪に在住)

いつものように、「ばあちゃん(伯母)が、お父さんの悪口ば、言うけん、ばあちゃんば、嫌いになろう、あんなお父さんばってん、実の親やけんが、聞きとうもなかろう、なぁ、うさ。すまんな」言うて、アタシを膝に抱っこして抱きしめてくれていた。

アタシの安全基地は、この伯母で、伯母の孫たちよりも、見守ってもらっていた。

だから、高校時代は住み込みで働きながら、だったが、やんちゃな時期もあり、他高生のオンナたちと、取っ組み合いの喧嘩もしたが、大きく人の道を逸れずにこれたと思う。

この執念深いアタシが(笑)母ちゃんに抱かれた記憶を思いだそうとしても思い出せないでいる。
(^_^;)

母ちゃんも虫の居所が悪いと、アタシが言うことを聞かなかったり、些細なわがままを言うと、箒の柄で叩いていた。

靴の足底でほっぺたを叩かれたこともある。

今になって思うと、母ちゃんも自分の思いをぶつける場所・人が居なくて表出の仕方が分からなかったんだと思う。

こんな、自分の思いを制御する子ども時代で、叔母から優しさを学び、母ちゃんから、強さを学んだ感があるが、“我慢”“甘える”が、どの様なものなのか、は学べていない。

口では「我慢してんのに~」と、言うこともあるが。あっはは。

こんな家庭環境だったから、子どもが親の顔色を観ない、自分の思いを言葉で表出できる、その子どもの思いを受け止めれる(親)、健全な普通の家庭の幻想にしがみついてきたんだろうなぁ、と、思える。

話の脈絡がないが、

こんなアタシの生育歴だから、義家の長男嫁、いのぶの妻で、現在も“タタカう”で、居れている。ヽ(^^)

YELLを皆サマ方からも、いただいておりますしね。
有り難うございます。
m(_ _)m

そうそう、学生の指導にも『うさ生育歴』は、一役買ってくれていますよ。あっはは。(^_^;)


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