1939sのブログ

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春とは言え、まだ寒さが残る317日、私は東京千代田区の神保町に出かけた。「山本宣治記念プレート」の除幕式のお知らせを東京山宣会から受けたからである。

 「山宣」と愛称で呼ばれる山本宣治は、1928年(昭和3年)の第1回普通選挙で代議士となる。

 そして、悪名高い治安維持法にただ一人、反対する。

 翌年の1929年の35日、神田尋常小学校で演説後、定宿にしていた神保町の光栄館で右翼の男に殺害された。

 山宣、その時、36歳。

犯人は元警察官で、事件後、満州の特務機関に勤めたということである。

その旅館・光栄館の跡地は、現在 マンションの敷地内になっているが、マンション前の歩道に山本宣治の記念プレートが建立された。

 山本宣治、没後90周年、生誕130年である。

 

 除幕式には、100名を超える参加者で、用意した白菊が足りなくなるほど。式典には、山宣の二女、井出美代他、孫の山本勇治、ひ孫の永島梓の方たちも参加。

トランペットの吹奏と共に、山宣哀悼歌が歌われた。

90年を経た現在、治安維持法以上の「共謀罪」も2017年に誕生している。

山宣は、今日の状況をどう見ているのだろうか。

 

式典の後、東京堂書店ホールへ移動。

東京山宣会から、記念プレート建立までの報告がされた。

千代田区では、区内で誕生・居住した歴史に残る人たちを記念するプレート建立が進められているが、「殺害」された場所に!という設置申し込みは、本当に大変だったと話された。

 

続いて小樽商科大学名誉教授の荻野富士夫さんから「治安維持法と山本宣治」と題する記念講演が行われた。

その中でも、山宣が「治安維持法反対」だけではなく、神田錦町の正則英語学校で学んだ後、カナダに留学。帰国後は、東京大学動物学科・京大大学院医学部を卒業。生科学者としての教育活動のかたわら、産児調節運動のサンガー女史をアメリカから日本に呼び、通訳をしている。「産めよ、増やせよ」の戦時下で、母体保護を山宣は訴えている。

また、反戦平和のアインシュタ、インとも交流。

反面、家庭想いで、友人たちとは話好きで、話し相手が「もう帰るから」と言わないとかぎり話を止めない一面もあった。

 

「共謀罪」が存在する現在、もの言えぬ社会がひたひたと進みつつある社会を、山宣はどう見ているのだろうか。

 

その後、同ホールで、交流懇親会が開かれた。

そこでは、山宣の孫にあたる山本勇治氏(京都民医連九条診療所所長)からの謝辞に始まって、山宣の二女の井出美代さん、曽孫の永島梓さんが話された。

その中でも、京都九条の在日が多い地域で働いておられる山本氏から、

「実は、私の娘が在日の男性と結婚したいからと言われた時、思わず反対!という言葉が出てしまった。娘から『言っていることと、やっていることが違うじゃないの』と言われてしまった。その後、その彼に会ったら、とてもいい青年でね。いまでは、娘夫婦ともいい関係です」と話された。60歳代の歯科医である。

 二女の美代さんは、90歳代とは思えぬおしゃれな品のある女性で、「父の事をいつまでも思って下さることに感謝です」としっかり話された。女性の先輩として、私は見習いたいと思った。

 曽孫の永島梓さんは、神奈川の高校で現代史を教えておられるが、「教科書に出ている山本宣治との関係を生徒に話すと、生徒から『先生は、有名人の曽孫なんだねと』言われる」と話された。

 三人の遺族の方は、山宣に似ているのか、どなたも庶民的ながら、品格が感じられて、素敵な方たちだった。

 

 帰り道、山宣を描いた映画「武器なき斗い」の監督・故山本薩夫夫人の山本洋子さんと地下鉄の神保町駅までご一緒したが、私にとっては何よりの貴重な半日だった。

 これも、私が2018年に出した私家版「78歳 ひとりから」に山本宣治のことを書かせていただいた縁からと、嬉しかった。

 

 神保町の山宣の記念プレートは、地下鉄神保町駅9番出口を出て、左に曲がり、マンションの側面を右に曲がった植え込みの中に建っている。

  千代田区神保町1-103

 

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