- 前ページ
- 次ページ
戦後、食べ物がなく、みな飢えていた
私の同級生も何人か栄養失調で亡くなった
小学低学年だった
親も食べるものを探し求めてうろうろしていた
虚ろな目でもみな生きようと必死だった
闇市には血眼な人が溢れ、生きるための戦が日常だった
ほんとに、ほんとに、みなひもじかった
路地裏で私たちは空き缶に菜っ葉やいろんなものを入れ、煮て食べた
八歳か九歳ぐらいだったか……
明日は終戦記念日だ この時期になると否応なく思い出す
ひもじさの思い 最後に痛ましい心に残った写真を……
↑ 長く見れない ね
明日は我が故郷、長崎に原子爆弾が落ちた日だ。
そして、必ずこの写真を思い出す。
「弟の亡骸を背に焼き場で順番を待つ子」の写真だ。
直立した姿勢に胸が塞がる

その目の先は 何が見えていたのだろうか

くいしばる口元を見てると、悲しくて悲しくてたまらない
むくんで見える足先は素足
ほんとに、ほんとに、この写真は悲しい
今、ウクライナもミャンマーも戦争という名の大量〇人が行われている
人間は、何一つ幸せをもたらさず、必ず悲惨で残酷な状況になるとわかっていながら、戦をおこしている
何故だろう 戦の起源を紐解く人もいるが、
なんにもならない
先の戦争を実体験した人も少なくなった
私は長崎で育ち、原爆投下の日は疎開先だった
4,5歳の時、空襲警報発令のサイレンが鳴ると家の裏崖に掘ってあった防空壕へ逃げた 戦後、待ちゆく人の髪の毛が日ごと少なくなってゆくのも見た 闇市を虚ろな目をした人々が彷徨っていた
しかし、その中人々は必死に生きていた
もしかしたら、 つづく かな?
おまさんが逝っちゃった……3月8日没 (鈴木勲)
我輩の師匠だ。
自由が丘のジャズ評論家の「いそのてるお」さんがオーナーだった、「ファイブスポット」で使ってもらった。一緒に演奏した。
その頃は大正琴も弾いていた。
このあと、アートブレーキーのバンドに所属……。
貞夫さんと同期だな…89歳まで現役で……
大切で貴重な過去が、また一つ消えた。
おまさん ありがとうございました。 やすらかに……
最近、ご高齢になった我輩の楽しみのひとつは一歳から二歳ぐらいの子を
観察することである。 我が家の前にある公園での場面だ。
なんかいいど~、手のひらに乗りそうなヨチヨチ歩きの子、思わず手を差し伸べ、補助してあげたくなるのだ。
飽きない、30分は楽に眺められる。 でもね、そばにお母さんがいると、
そんなに長く眺められない。
土いじりが好きな子は、小さな石を集めたり、小さな指先で穴を掘り始めたりする。 砂場だといいけど、硬めの土を掘るのは大変なんだけど、一心不乱に集中して掘る、掘る… 集めた小石を穴の中へ入れるのかと思ったが、入れない…そのまんまの状態で、ピンと立ち上がり、ぴょこぴょこ歩き出す。
どこへ、……お~、水飲み場だ、蛇口に手を置き、さてと思ったが、
置いたままだ、何にもしない、そのまんま、じっとしてた。
じっとしてる格好もまた素晴らしく可愛い…
それから、きりっとした表情で地面に散らばる葉っぱを集めだした。
集めた葉っぱが手に余ると、コートの小さなポケットに入れた。
その時、お母さんが来て葉っぱを……最初はいやいやしてたが、
最後は、あげるって動作をした。
このような、何気ない動きを見てると何にも考えなくて、気持ちがいい。
若いころ、意味を求めて生きてきた。
しかし、いつのころか、どこぞの先人がいった言葉が刺さった。
「意味を求めるな 云々 云々」
幼子たちの所作を眺めながら……
ふと、この文言を思い出した。
さて、 云々?







