印象
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 年が明ける。元日は、例によって、鎌倉の祖父の家に行く。正午ごろ、ほとんど霰に近い雪が降ってくるのが、道中の車からうかがえた。助手席で母親は、帰りはチェーンをつけなくちゃならないかもネと危惧していたが、三時すぎに雪は降りやむ。寒いので、とうとう今年は八幡宮へ詣でず、暖房のよく効いた室内で、ひたすら蜜柑を食う。蜜柑を、蜜柑を、食う。蜜柑を食いすぎると手が黄いろくなるという俗説がある。子どものころ、自分の手が、他人とくらべてやや黄味がかっていたのを、蜜柑の食いすぎだと恥じていたのを思いだす。今見ても、自分のてのひらは、少し黄いろいようでもあり、ごく普通のようでもある。色のことよりも、今は、これが人間をはじめて今年で二十五年になる人間のてのひらかと、しみじみ思う。右手の手相は生まれたときの状態を、左手の手相は未来をあらわすと言うけれど、くらべてみて、この二十数年でいったい何が変化し、そして今後どう変わっていくのか、皆目わからない。いや、わからないほうがいい気がする。

二日は、根津神社に初詣に行く。おみくじを引く。小吉。他人にあやかれば吉、というようなことが書いてあったので、今年は積極的に人の厄介になろうと決意をあらたにする。一日一厄介。その日も、他人の金で色々飲み食いした。賭け事なので、感謝はしない。一日一厄介。

 三日、四日、寝正月。本屋とレンタルCDショップに行く以外は、自宅に籠る。積極的に、籠る。本を読み、音楽を聴きラジオを聴きテレビを観、それで日が暮れる。久しぶりにのうのうと引きこもってみて、それでも、案外一日が早く過ぎてしまうのを感じる。生き急いでいる人間にものんきな人間にも、時間の流れは等しく冷やかだ。ならば、できることなら、このままずっと自宅に引きこもっていたい。これは悪しき願望だろうか。おそらくまったくそうではない。むしろ、引きこもりこそが古往今来、重要な様々な文化生活を形成してきた。人間が動物であるかぎり、帰巣本能というものにはあらがえない。家でぬくぬくしたいのだ。ことさらに外に出て活動することを誇示する人間(周知のように、こういう鼻持ちならない人間がごまんといる)は、アクティビティという亡霊に憑かれた能無し天気野郎か(こういうヤツらはのんきに天気予報でもしてればよい)、あるいは、おめでたい原始人ないし類人猿のたぐいである。勘ちがいしてはならない。現代において、人が外に出なくてはならないのは、「必要」のためである。ひと口に言えば、生活のための金を得る必要、からである。それだけだ。

 と言って、何んのためかもよくわからない「必要」に迫られて、今日はプールに行く。初泳ぎ。年末年始は、どこのプールも閉まっていたので、約十日ぶりだ。なまっている可能性があったので、体と対話しながら、徐々に距離をかせいでゆく。ドーム状の天井のガラスを透かして、息つぎのたびに外の様子がうかがえる。しだいに日が暮れてゆき、青みを濃くした空の低いところに、白い月が昇りはじめたのがみえた。ほどなく一時間が経つ。一九〇〇メートルを泳ぎきる。昨年末とまったく同じコンディション。なんだかんだ、まだ肉体が老いていない(若い、とはあえて言わないけれど)ことを感じる。悪くない一年の始まりだ。

 昨年末は、バタバタして、一年を振りかえるということをしなかった。今更、去年を振りかえるということもしない。今年は、就活と、修論がある。いずれも不安だが、割と、楽しみにしている自分がいる。

平成二十七年一月五日(月)