パキシル断薬記録

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パキシルの断薬について記録します

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夢中な人がいた。歌を歌うのが好きで好きでしょうがないという女性だった。家の中でもいつも歌っていて、大金を費やして音楽の専門学校にも通い、何年もプロの歌手を目指して頑張っていたのだが、結局その夢は叶うことはなく、今は歌の歌い方を子供達に教えているらしい。一番の理想は叶わなかったけれど、好きな歌を歌いながら、彼女なりに自分の人生を幸せに生きている。

己の夢を叶えたくてそれを行うのか、それともそれをするのが好きだから夢を描くのか。両方を一色単に分けられるものでもないけれど、バランスはあると思う。何かに夢中になっている人を見て、努力を重視する人は”努力して素晴らしい”と評価するかもしれない。努力なのか夢中なのかは本人の主観に基づくのだ。同様に外から見て、その人の主観でどちらかを判断するということである。

努力の人というのは、ある種の取引をしているようなものだと思う。自分の夢を叶える為に努力する。もし実際に夢が叶えば、努力が報われた事となる。逆に、もしも夢が叶わなかったら、努力は報われなかった事になる。つまり、プロセスは「結果」によって評価されるということだ。自分だって、もしこの先何かの分野で著しい成功を収めれば、そのプロセスは評価される。現時点では只の不遇な人生に過ぎないが、もし今後何かで成功すれば「あんなに過酷な試練を乗り越えたスゴい人」という評価になるかもしれない。そのプロセスがストーリーになるからだ。だから、未来志向で、いつも意識は先にある。最後まで頑張りきれればもちろんそれは素晴らしいのだけれども、もしどんなに必死に頑張っても頑張っても自分の夢が叶わなかった時に、「あれだけやったのになんで僕(私)は報われないんだ」という、どこにもぶつけよようのない、やり場のない、言いようの無い思いが残る。

一方で、夢中には先は無いと思う。とにかく今この瞬間だけがあるからだ。自分は、夢中という観点においては、究極的にはそれが報われなくても構わないと思っている。なぜなら、今、夢中でそれが行えている、その瞬間が既に幸せとしてリターンを産んでいると感じられていればそれだけで十分だと思うからだ。「本当の信仰は報われなくても構わないという事です。」とどこかの寺院の坊主が言っていたが、幸せになる為に何かを信じる人は、どこかでやはり計算しているのではないかと感じてしまう。

最近、自分の幼少期の写真を見ていたのだが、笑顔で夢中になって遊んでいる自分の姿を見て、ふと我に帰った事がある。子供はいつも元気で楽しそうなのだ。だから、仮に結果が出なくても、好きな事をやれている、楽しめている、目指すものがあり毎日が生き生きと輝いている、という時点で既に報われているのかもしれないと思った。

自分も、断薬の禁断症状を克服して、7割でも身体を回復させられたら、そのスタンスで生きていこうと思う。そして、真の自立を成し遂げ、死ぬ時に「自分の人生は良かった。やりきった。もう悔いはない。」と嘘偽りなく心から言い切れるように、自分のエネルギーを完全燃焼させたい。

今この瞬間を、精一杯全力で生き抜いている人の力は強い。