おニャン子クラブの一番長い日 | 翡翠の風(ひすいのかぜ)

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おニャン子クラブ会員番号18番永田ルリ子さんをメインに語ってます

◆ルリ子さん、今もお元気でお過ごしですか?
◆ルリ子さん、今どこでどんな景色を見ていますか?

【瑠璃色がゆれる ひすいの風がふき ”今” 瑠璃色がゆれる】
by永田ルリ子さん

 

    

38年前の1985/6/13(木

  • ドラマ『のぶ子マイウェイ』放映。福永のセリフは1言「社長!」だけ。
 
37年前の1986/6/13(金)
  • 生稲晃子が合格。

『おニャン子白書』夕やけニャンニャン完全年表より

 

今週実はずっと、しんみりしていると昨日書かせて頂きました。

まだ週明けて2日目ですけど💦

 

でも、もう心の中では週末くらいからね、【始まって】いたんですよ・・・

心から大好きで大切なルリ子さんが行われた、おニャン子クラブの解散宣言が。

そしてまたここから始まる、ラスト9月20日までの切ないカウントダウンが・・・

 

ここ最近私、よく「一年って、本当につくづく早い」と言う主旨の表現をしていたのですが。

これが念頭にあったと言うことになります。

 

ルリ子さんが輝いておられた2年半が、どれ程あっという間で、どれ程瞬く間に過ぎ去ったのかが、身に沁みてきます。

 

そして、ルリ子さんがはたちのお誕生日の時に残された【一瞬一瞬を大切に】【今の一瞬は取り戻せない】と言うメッセージが、こんなにも意味を持つものだなんて。

心に響きまくってきます。

 

さらに、そこから今に至るまでの長い長い年月は。

時間どころか時代さえもどんどん移り変わっていて。

信じられないですね。

時間と言う概念が、私にはよく分からなくなるくらい、混乱してしまいそうです。

 

私がこんなテンパっているのですから。

おニャン子クラブメンバーだったお1人お1人と、そして応援されていたこニャン子の皆様におかれては、一体どれ程の切ないものなのだろうと、やっぱりずっと考えてしまいます💧

 

今宵は、いよいよまたあさってに迎えるその日を前に。

久々に、『おニャン子白書』の中に掲載されていたものから、少しだけご紹介させて頂ければと思います😢

初めて触れる内容ですが、だいぶ切ないモードです💧

 

解散を知らされた時期

 

実は私、まだ知らないことがあります。

そして、実は知りたいことです。

 

それは。。。

  • おニャン子が解散を知らされたのはいつ頃なのか?
と言うことなんです。
私は、この件についての正確な情報をまだ知りません。
自分で何となくこの頃なのかなぁと、推測しているだけです。
 

そして実は、『おニャン子白書』にもその点細かくは載せられていません。

とは言え、幾ら何でも、解散宣言が出された6月15日の一日前とかそんなはずはないだろうと、思っているんですけど。

 

そんな点が少しだけ垣間見れる本文もありますので、早速画像をご紹介いたします。

 

 

このページは、もう私何度も読み返していますけど、やっぱり凄く切なくなります💦

 

この関連している訳ではないおニャン子の写真も、多分一番手前におられるのはルリ子さんだと思うのですが、何せ内容が内容だけに、デレっとして見る気持ちにはなれず😢

 

むしろこんな陽気な水着の画像でさえ、おニャン子クラブの歴史を感じずにはいられなくなるのです・・・

 

では改めて、本文をご紹介いたします。

 

最後に、解散を知らされた日の話をします。

もともと、みんな「おニャン子クラブ」は 解散するらしい、ということは知ってたのね。それは別に知らされていたわけじゃなくて、なんとなく、そういう日がくるだろうな、ということだったんだけど......。

だから、笠井さんが、1人1人個別に呼び出しをかけた時には、"ああ、解散の話だな" というのはわりとすぐわかったの。だけど、やっぱり直接いわれた時はもうビ ックリしちゃって....。すっごく淋しくなって、不安になっちゃって....。

 

静香なんか、それから1週間ぐらいしてから、「解散するのはわかってたけど、これからは自分の力だけで頑張らなきゃいけないから、大変だよね。すっごい不安だわ」なんていってた。みんな、すっごくさみしくて、哀しかった。 

 

だけど、いつまでもメソメソなんかしてられないからね。みんなそれぞれ自分の道を行くことになるけれど、ゼッタイあたしたちガンバルから。おニャン子クラブは解散しても、おニャン子魂(?)は不滅だもんね。そうだよね、みんな!

 

となっています。

はたと、「これは誰目線の文章なのかな」と思ったりはするのですが。。。

まぁ、誰と言うよりはおニャン子クラブ全員の感じ方、と言う捉え方でいいのかなぁと。

 

何か、色々と深い事情と言いますか、当時どんな感じで知らされたのかが見えて来るような来ないような、そんな不思議な本文となっています。

 

ここから読み取れること:1つ目

 

まず、ひとまず分かることは。

  1. おニャン子メンバーは、解散があるだろうとどこかで認識はしていた
  2. 実際の解散は個別で知らされた
ことかと、思います。
 
まず1つ目です。
 
この辺りは、当のご本人たちやスタッフでなければ、その時の生の空気感と言うのは分からないことですので。
きっと、誰もが公に口にはしない(できない)けれど、どことなくそんな雰囲気漂う時間がいつしか流れていたのかもしれませんね💦
 
では一体、いつ頃から?
  • 1987年に入ってから?
  • それとも、第5回卒業式(樹原さん国生さん内海さん立見さん高井さん卒業)が発表された頃から?
私にはよく分かりません😥
 
ただ、私が以前に聞かせて頂いたこニャン子先輩の1つのお話しがとても説得力があり、さすが長年応援されて来た先輩ファンならではの情報だなと感心したことがあります。
 
それは、お話しによりますと(なすびさん、感謝です🙇‍♀)、夕ニャンの生放送が行われていたフジテレビの第3スタジオのセットが変わった1987/4/6(月)を境に、何となくこれまでの雰囲気ではない変化を感じた、と言われていたものです。
 
セットが変われば雰囲気も変わる、と言うそんな自然なもののことではなく、多分明らかに全体の空気のことなのではないかなと思います。
これぞまさにファンの嗅覚
敏感に”何か空気感が変わった”のを察知されたんだなって思って、凄いなと唸っておりました。
 
だから、きっとおニャン子クラブ最終分岐点は恐らくこの頃で間違いないと、私は勝手に思っています。
そう、1987年の恐らく早春にはもう、どことなく誰もが身体に覚える”終わり”を感じていたのでは、ないでしょうか。
 
この、1987/4/6(月)にセットが変わったのは、『おニャン子白書』にも載っています。
つまりは、おニャン子クラブの年表に載せる程の出来事だったと言うことです。
 
一気にブームが加速すれば、下降を実感するのは余計に早かったのかもしれません。
1985年がスタートで、1986年に人気が大爆発して最高潮。
1987年は3年目。
この3年目と言うのは、何事も真価が問われ出す頃として認知されていますよね。
 
おニャン子クラブももしかしたら、これからどう進んで行けばよいのかに関してはっきりとした路線が、気付かない内に見えなくなってしまったのかもしれません💦
ソロもユニットも乱立し、収拾がつかなくなったと言う表現が合っているかは分かりませんが。
 
だから、これまで慣れ親しんだセットを変えるのは、ある意味でスタッフの賭けでもあったのかなって思いました。
いわゆる”風の入れ替え”です。
これまでのものを打破して、少し雰囲気を変えて行こうとでも言いましょうか。
 
でも結果それでも、おニャン子クラブが向かっていた「グループ全体」としての終わりへの流れを止めることには繋がらなかったのかなぁと思うと、切ないですね😢

 

ここから読み取れること:2つ目

 

そして先程も触れましたが、実際の解散通達はメンバー全員が同時に聞いた訳ではないようです。
1人1人個別に呼び出され、通達されたと。
 
これも。。。
なぜ、全員揃った状態での通達ではなかったのでしょうか。
これも本当のところは私にはよく分かりません💦
 
でも考えられる点を挙げるとすれば・・・
やっぱりそれは、【おニャン子クラブと言えども全員の状況が余りに異なって来ていた】からだったのではないかなって思います。
 
ソロとして、ユニットとしてデビューしている人、いない人。
芸能事務所に所属している人、いない人。
高校生、大学生、社会人。
 
当初は高校生の集団としてスタートしたグループが、いつしか3年目を迎えて、大きく大きく全員の状況が変化している。
(元々始めから加入の経緯は様々だった事実はあるにせよ)
 
それぞれ置かれた背景や状況が違うので、全員揃った状態で解散を通達するのは混乱を招くとの判断だったのでしょうか。
 
ソロやユニットでデビューしていた人たちは、その後も芸能事務所を通して芸能活動を続ける道はあります。
だけど、所属していない人たちは、そこで進路が閉ざされてしまう訳ですから。
個別面談でなければ、じっくり話し合うことは難しかったでしょうね。
互いが互いに配慮をしなければいけない状況だったんだと思います。
 
さらに、状況だけでなくおニャン子1人1人の目指すものも。
元々芸能界で活動したかった人。
おニャン子の活動だけで終わるつもりだった人。
目指すところがかなり差があったのも、ありそうですよね。
 
そして、おニャン子メンバーもスタッフもどこかで感じていた、人気の持続の難しさ=ブームが終わることへの懸念も、あったのではないかなと。
 
表現は悪いですが、スタッフもここまでおニャン子クラブが大きくなるとは当初思ってなかったのかもしれませんね。
ちまっとコアなファンとでやっていければいいかくらいのものが、気付けば昭和のアイドル史に残るグループになったことは、嬉しい想定外だったのかなと。
 

どれもこれも憶測の域を出ないことですが💦

 

よって、私が知りたいと思う点は2つです。

  1. おニャン子メンバーが解散を意識し始めた時期
  2. 実際に個別で通達された時期

ここをご覧の皆様で、「この辺りなんじゃないかな」と思うものがあれば、ぜひ教えて頂きたいです🙇‍♀

 

ルリ子さんの一番長い日だから

 

こんな後追いの私のような新米ファンが。

おニャン子クラブが解散を通達された時期をなぜ知りたいと思うのでしょうか。

 

それは、冒頭でも述べましたように、それがルリ子さんの辿ったすべてだから、です。

 

6月15日を迎えるに辺り、ルリ子さんはどれくらい前から、何となく肌で解散を感じ取っておられたのでしょうか。

メンバーの何人かで、そうした類のことをお話しされることもあったのでしょうか。

それとも、誰もその件は触れることのないまま、過ぎていたのでしょうか。

そしてルリ子さんは、お1人で悩まれていた日々だったのでしょうか。

 

考え出せば幾つも幾つも、出てきます。

とは言え、これらの疑問の答えを知ることは、ファンの範囲でないのかもしれません。

そして知ったところで、私に何ができると言うことでもありません。

 

当たり前です。

36年も前のことなのです。

 

だけど。

こんな大事な日の宣言を、ルリ子さんが代表としてされたことを考えるとね。

その前後の出来事も、知りたいと言う願いが出てくるのです。

 

知りたいって言うと好奇心みたく感じるのでそうじゃなくて・・・

刻んで行きたいと言う方が正しい表現、かなぁ。

ルリ子さんの思いと、おニャン子クラブで全うされた軌跡、です。

 

6月15日に解散宣言であれば、既にご自身がこの先どうなるかはもっと前に決まっていたはず。

きっと何度も、話し合いのようなものがあったのではないかと想像します。

それまでの胸中を思うと、もう言葉になりません。

 

36年前の今日はもう、当然ですがおニャン子クラブ解散は、既にご存知だったでしょう。

時系列で言えばあさってが、その宣言の日ですから。

よって、この数日間もしくは数週間のルリ子さんの心の動きを考え出すと、胸がチクチクとして来ます。

 

私のようなド新米ですらこれだけ胸が痛いのですから。

実際リアルタイムで応援されて来たこニャン子先輩がたの衝撃はいかばかりかと😣

 

でも、それでも私はルリ子さんご本人のことを何より一番に知りたい

何ができる訳でもないです、時間を戻すことも、出来事を変えることも、できる訳がない。

 

でもだからこそ、なんです。

何もできないからこそ、ルリ子さんが辿ったすべてのことを、自分でしっかり感じて刻みたいのです。

 

それには、楽しさや嬉しさや喜びはもちろんのこと。

どんな悲しさや苦しさや辛さも、含まれています。

自分の心できっちり感じたい。

 

大変だったねって、何か他人事のような感覚や同情のような気持ちで感じたいのではありません。

 

今となっては、私の憧れのお姉さん的存在であり、大切なお友達のような存在でもあり、妹のような存在でもあり、可愛い娘のような存在でもある等身大のルリ子さん。

 

すぐ近くにおられるような存在になっているルリ子さんを、すべての感情を使って全身で感じたいです。

それで消耗したとしても、それはルリ子さんが味わっておられたそれのミクロにも及ばないものです。。。

 

この時期になると、この優しいルリ子さんを思い出します

 

どれだけ負荷がかかる状況だったとしても、最後の最後まで逃げ出すことも諦めることも辞めてしまうこともせず、踏ん張り抜いたルリ子さんです。

 

そんなルリ子さんのことを、今年も私なりにしっかり、意識して過ごしたいと思います。

 

おニャン子クラブの一番長い日は。
ルリ子さんの一番長い日でもあるのです。。。
 
 
 

 

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