何度もネタにしていますが、
1868年10月11日(慶応4年8/26)は、
山川大蔵の彼岸獅子入城の日。
簡単にルートなどをおさらいします。

通ったのは、會津西街道の宿場。
wiki調べですが、ルートは以下
(逆並びですが)

鶴ヶ城下→福永宿→関山宿→氷玉峠→大内峠
大内宿→中山峠→倉谷宿→八幡峠→楢原宿
田島宿→川島宿→糸沢宿→山王峠→横川宿
中三依宿→五十里宿→高原新田宿→藤原宿
大原宿→高徳宿→大桑宿→今市宿


次に日程。
 
21日ー母成峠陥落。
日が落ちたのを見計らい、
丹羽五郎を使者に日光口へ。
ちなみに、日光から若松は150km。

22日
深夜、山川隊が急報を受ける。


23日(五十里宿から田島宿)

籠城開始。白虎隊の日。

早朝、先鋒を出発。

凌霜隊ら他の日光口守備隊本隊

らに後衛を託し、

五十里(標高550m)の本陣を撤退。

山王峠(日光と南會津の境。標高1000m)

田島(標高550m)を経て山王茶屋へ 。



24日(田島宿から本郷宿)

長野の渡しで阿賀川を渡河・有。

(増水中のために縄伝い)


・楢原宿

八幡峠(標高640m)

・倉谷宿

中山峠(標高700m)

・大内宿

・大内峠(標高900m)

氷玉峠(標高860m) 

・関山宿(ここを越えると會津盆地)

・福永宿

・本郷宿(標高250m)


25日

小松村。

村長・大竹重左衛門や斎藤孫左衛門を呼び、
協力を依頼。
※小松村は、現・會津若松市北會津町小松

26日
彼岸獅子で西大手門から無血入城。
※西軍は一説に3万程


ルートの様子
23日の五十里は、
現在はダムがあり、(そうなんですか?)
鶴ヶ城までは車で約二時間半くらいらしい。
当時は、細かい道らしきものしかなく、
標高150mから最高1000mの
登り下り続きの坂道と峠、
ここ数日の台風で泥水だらけの山道、
フル装備。
會津藩士ハンパねぇ…


今日は白虎隊の日。

慶応四年8月23日の旧暦だから、

現在の暦では、1868年10月8日。


飯盛山で白虎士中二番隊、約20名が、

お城が燃えている、自身の戦闘力、

そうした様々な事を検討、議論の末に、

戦闘困難として自刃しました。

(後に飯沼貞吉は蘇生)


城が落城したから自刃したのは、 

まったくのデタラメ!!

また、20名が全員自刃したのも、

疑わしいとされています。

ようは、自刃するまでもなく亡くなった、

という事でしょうか?


それにしても、

台風も接近して雨天だし、

育ち盛りに空腹だし、

さぞや心細かったでしょう…


そして、

篠田儀三郎(自刃した白虎隊士の一)

と同い年ですが、

家長であるために入隊出来なかった、

丹羽五郎という人物がいます。


前日の22日夜半から、

母成峠陥落(21日)の報せを、

片道約150kgの山道を走り、

日光口まで知らせました。

それが彼岸獅子入城に繋がります。


白虎隊だけでなく、丹羽五郎のことも、

時々思い出してあげて下さい。