今日、学校では様々な問題が起きている。
いじめとそれに伴う自殺、外国にルーツを持つ子弟への差別、過酷すぎる教員の職場環境…。
●『いじめは、なぜ学校で次々に起きるのか』
https://ironna.jp/article/5047 (2018/11/16閲覧)
●『「日本人」になれない外国ルーツの子供たち』
https://newspicks.com/news/3383267/ (2018/11/16閲覧)
●『忙しすぎる先生、長時間労働は「残業代なし」も一因か』https://www.asahi.com/articles/ASL6F663WL6FUTIL05D.html (2018/11/16閲覧)
このような状況が続くと、「先生に問題がある」や「生徒の生育環境に問題がある」といった以上に、根本的に今の教育システム自体に何らかの問題があるのではないかと考えてしまう。
そもそも今の教育システムは近代の西欧で登場し、その後世界に広まったものである。
それは「義務教育」の名で子弟を強制的に教室に押し込めて、国家が定めたカリキュラムに従って、生徒の様々な特性(性格、民族出自、宗教など)を一般的には無視したうえで画一的なコンテンツを頭の中に叩き込ませる。その目的は「国民」という国家に忠実な者を作り出すためである。
イスラームでは、国家が教育に干渉することを禁じている。教育は社会や地域、家庭に任せられるのである。
かつて、カリフやスルタン(王)は教育機関を設立することがあったが、それは個人での設立であって、国家による「公的な」設立ではなかった。また近代以前の日本は寺小屋や私塾、郷学や藩学という教育機関が各地にあった。私塾として有名なものには鳴滝塾(シーボルト)や適塾(緒方洪庵)などがある。このようにそれぞれの地域で独自のカリキュラムが組まれていたのである。
現代はグローバル化が進み、ハーフやクォーターの人も増え、出自背景が極めて多様化している。
このような状況で国家の定めた画一的なカリキュラムを子弟に強制し、「日本人はこうだ」といった考えを押し付けることは、その者たちを悩ますことになるのである。大切なことは、子弟の一人一人に合った教育を行うことである。それを実践するには、国家の定めたカリキュラムに沿って大きい教室に押し込めて一斉に授業をする、といった形式は明らかな不都合である。少人数制で教えるといったことが重要になるのであるが、それを実現できるのは寺小屋や私塾などのように少人数で独自にカリキュラムを定めて、教えるしかない。地域や社会が自分たちで子弟に教えるべきことを決めて、自分たちが子弟を教える。
近代教育システムはもう時代遅れといえるのであり、解体すべきである。国家の利益のための「教育」ではなく、一人一人が世界で生きるための教育へ。イスラームにおいて上帝(アッラー)はまさにそれを望んでいるのである。