化け猫伝説にゆかりがあり、「猫寺」の名で知られる熊本県水上(みずかみ)村の生善院(しょうぜんいん)で21日、怨霊となって飼い主の恨みを晴らした猫「玉垂(たまたれ)」の石像が除幕された。
一帯を治めた相良氏への謀反の疑いで息子を殺された玖月善女(くげつぜんにょ)の愛猫。自殺した善女の道連れとなった後、夜叉(やしゃ)や美女に化けて藩主を苦しめたという。
生善院は、その霊を鎮めるために藩主が創建したとされる。「願い事は石像をなでながら」と千葉弘実住職(45)。猫の力も借りて「一念が通じます」。
相良藩化け猫騒動 (猫寺の由来)
水上村の生善院(しょうぜんいん)は、普段は「猫寺」と呼ばれ、狛犬ならぬこま猫が山門の両脇に建ち、訪れる人を見守っています。
このお寺は、今から350年以上も前、まだ相良氏が人吉・球磨地方を統治していた頃、その相良藩にかかわる「ある霊」を鎮めるために建てられたといわれています。
それは、天正9年(1581年)のことでした。
当時、相良藩は鹿児島の島津義久(薩摩藩)と戦っておりました。その戦いの中、第18代藩主相良義陽(よしひ)が戦死したため、当時わずか10歳の忠房を第19代藩主とし、次男長毎(ながつね)を島津氏に人質として出し和睦を結びました。
しかし、島津氏は八代も自領であるといって攻略を始めたのです。このような薩摩藩の勢いに「やがてこの球磨、人吉の地にも再び進行してくるのでは」と言う噂が流れ始めたため、人々は安心できませんでした。
同年12月、先代藩主義陽とは仲が悪かった腹違いの弟頼貞(現在の鹿児島県湧水町栗野付近に住んでいたと伝えられている。)が多良木の地を訪れた時、相良藩の出城である湯山城主湯山佐渡守宗昌(ゆやまさどのかみむねまさ)は、その弟普門寺住職盛誉法印(せいよほういん)と一緒に頼貞に会いに行き、戦死した先代義陽の悔やみを申し上げ、世間話程度をして帰りました。
この会談を知った宗昌をよく思わない他の武士達は、先代義陽と頼貞が不仲であったのを利用し、「湯山佐渡守と盛誉法印は、頼貞とともに薩摩藩に協力して人吉球磨に攻め入ってくる。早く征伐しなければ危ない。」と嘘の密告をしたのです。
それを耳にした藩主忠房の姉は、重臣たちと協議して、米良の黒木千衛門を総大将として、米良・須木の武士に天正10年(1582年)3月16日に普門寺に攻め入るよう命じました。
一方、密告した武士達は、自分たちの策略が藩主忠房にばれてしまった場合、早がけの犬童九介(いんどうくすけ)が攻撃中止の使いに出るだろうと予想し、「人吉から馬で来る者は無類の酒(焼酎)好きであるので、水を求められたら酒を出すように。」と行く先々におふれを出しておきました。
普門寺攻略の前日、家老の深水宗方(ふかみむねかた)は、湯山佐渡守は俗人だから何を考えているか分からないが、盛誉法印は仏に仕える身、これを殺してしまっては取り返しがつかないことになると判断し、普門寺攻めは中止と決断、犬童九介を普門寺に走らせました。
ところが、九介が途中免田の築地でのどが渇いたため、水をもらいに茶屋に入ったところ、住人は「この人がふれてあった酒好きの人だろう」と思い、大きな湯飲みで焼酎を何杯も飲ませてしまいました。酔っ払い、ふらふらになった九介は、なんとか多良木までは来たのですが、とうとう馬に乗ることも歩くことも出来なくなり道に寝込んでしまったのです。
宗昌と盛誉法印は、自分たちに反逆のための追い討ちの命令が出たのを知ると、二人とも逃亡すれば本当に反逆したと疑われると思い、宗昌は日向(宮崎県)へ逃げたものの、盛誉法印は普門寺に残りました。
3月16日未明、中止の連絡が届かず何も知らない黒木千衛門は、球磨川を渡り普門寺に攻撃を始めてしまいました。止める弟子たちを切り倒し、千衛門はとうとう勤行中の法印を声もかけず後ろから首を切り落とし寺に火を放ったのです。
ちょうど燃え上がったところへ、やっとの思いでたどり着いた九介でしたが、自分のせいで法印を死なせてしまったと思い込み、ことの次第を藩主へ報告し切腹してしまいました。
無実の罪を着せられて殺された盛誉法印の母玖月善女(くげつぜんにょ)は、その恨みをはらすため、愛猫「玉垂(たまたれ)」を連れて市房山神宮にこもり、自分の指を噛み切って神像に塗りつけ、またその血を玉垂にもなめさせ、自分と一緒に怨霊となって黒木千衛門を始め相良藩にたたるよう言い含め、21日間の断食の後、「茂間が淵(もまがふち)」に猫を抱いて身を投じました。
すると間もなく相良藩では、毎夜、猫の玉垂が忠房を苦しめ、また盛誉法印を討った黒木千衛門は狂い死にし、次々に奇怪なことが起こり始めたのです。
そこで相良藩ではたたりの恐ろしさから逃れるため、盛誉法印とその母玖月善女、愛猫玉垂の霊を鎮めるため、普門寺跡に新しく生善院を建て、寛永2年(1625年)には別に観音堂を建て、法印の影仏として阿弥陀如来を、母の影仏として千手観音像を祀り、藩民には毎年3月16日には、15日の市房山神宮参詣(さんけい)とともに猫寺参詣を行うよう命じ、藩主自らもこれを実行したため、ようやく霊も静まったそうです。
この参詣は昭和30年代頃までは大変にぎやかに行われ、その後市房山神宮は縁結びの神様「おたけさん」として、また、玖月善女が身を投じた茂間が淵の神社は、子どもの護り神「ごしんさん」として今でも厚く信仰されています。
一帯を治めた相良氏への謀反の疑いで息子を殺された玖月善女(くげつぜんにょ)の愛猫。自殺した善女の道連れとなった後、夜叉(やしゃ)や美女に化けて藩主を苦しめたという。
生善院は、その霊を鎮めるために藩主が創建したとされる。「願い事は石像をなでながら」と千葉弘実住職(45)。猫の力も借りて「一念が通じます」。
相良藩化け猫騒動 (猫寺の由来)
水上村の生善院(しょうぜんいん)は、普段は「猫寺」と呼ばれ、狛犬ならぬこま猫が山門の両脇に建ち、訪れる人を見守っています。
このお寺は、今から350年以上も前、まだ相良氏が人吉・球磨地方を統治していた頃、その相良藩にかかわる「ある霊」を鎮めるために建てられたといわれています。
それは、天正9年(1581年)のことでした。
当時、相良藩は鹿児島の島津義久(薩摩藩)と戦っておりました。その戦いの中、第18代藩主相良義陽(よしひ)が戦死したため、当時わずか10歳の忠房を第19代藩主とし、次男長毎(ながつね)を島津氏に人質として出し和睦を結びました。
しかし、島津氏は八代も自領であるといって攻略を始めたのです。このような薩摩藩の勢いに「やがてこの球磨、人吉の地にも再び進行してくるのでは」と言う噂が流れ始めたため、人々は安心できませんでした。
同年12月、先代藩主義陽とは仲が悪かった腹違いの弟頼貞(現在の鹿児島県湧水町栗野付近に住んでいたと伝えられている。)が多良木の地を訪れた時、相良藩の出城である湯山城主湯山佐渡守宗昌(ゆやまさどのかみむねまさ)は、その弟普門寺住職盛誉法印(せいよほういん)と一緒に頼貞に会いに行き、戦死した先代義陽の悔やみを申し上げ、世間話程度をして帰りました。
この会談を知った宗昌をよく思わない他の武士達は、先代義陽と頼貞が不仲であったのを利用し、「湯山佐渡守と盛誉法印は、頼貞とともに薩摩藩に協力して人吉球磨に攻め入ってくる。早く征伐しなければ危ない。」と嘘の密告をしたのです。
それを耳にした藩主忠房の姉は、重臣たちと協議して、米良の黒木千衛門を総大将として、米良・須木の武士に天正10年(1582年)3月16日に普門寺に攻め入るよう命じました。
一方、密告した武士達は、自分たちの策略が藩主忠房にばれてしまった場合、早がけの犬童九介(いんどうくすけ)が攻撃中止の使いに出るだろうと予想し、「人吉から馬で来る者は無類の酒(焼酎)好きであるので、水を求められたら酒を出すように。」と行く先々におふれを出しておきました。
普門寺攻略の前日、家老の深水宗方(ふかみむねかた)は、湯山佐渡守は俗人だから何を考えているか分からないが、盛誉法印は仏に仕える身、これを殺してしまっては取り返しがつかないことになると判断し、普門寺攻めは中止と決断、犬童九介を普門寺に走らせました。
ところが、九介が途中免田の築地でのどが渇いたため、水をもらいに茶屋に入ったところ、住人は「この人がふれてあった酒好きの人だろう」と思い、大きな湯飲みで焼酎を何杯も飲ませてしまいました。酔っ払い、ふらふらになった九介は、なんとか多良木までは来たのですが、とうとう馬に乗ることも歩くことも出来なくなり道に寝込んでしまったのです。
宗昌と盛誉法印は、自分たちに反逆のための追い討ちの命令が出たのを知ると、二人とも逃亡すれば本当に反逆したと疑われると思い、宗昌は日向(宮崎県)へ逃げたものの、盛誉法印は普門寺に残りました。
3月16日未明、中止の連絡が届かず何も知らない黒木千衛門は、球磨川を渡り普門寺に攻撃を始めてしまいました。止める弟子たちを切り倒し、千衛門はとうとう勤行中の法印を声もかけず後ろから首を切り落とし寺に火を放ったのです。
ちょうど燃え上がったところへ、やっとの思いでたどり着いた九介でしたが、自分のせいで法印を死なせてしまったと思い込み、ことの次第を藩主へ報告し切腹してしまいました。
無実の罪を着せられて殺された盛誉法印の母玖月善女(くげつぜんにょ)は、その恨みをはらすため、愛猫「玉垂(たまたれ)」を連れて市房山神宮にこもり、自分の指を噛み切って神像に塗りつけ、またその血を玉垂にもなめさせ、自分と一緒に怨霊となって黒木千衛門を始め相良藩にたたるよう言い含め、21日間の断食の後、「茂間が淵(もまがふち)」に猫を抱いて身を投じました。
すると間もなく相良藩では、毎夜、猫の玉垂が忠房を苦しめ、また盛誉法印を討った黒木千衛門は狂い死にし、次々に奇怪なことが起こり始めたのです。
そこで相良藩ではたたりの恐ろしさから逃れるため、盛誉法印とその母玖月善女、愛猫玉垂の霊を鎮めるため、普門寺跡に新しく生善院を建て、寛永2年(1625年)には別に観音堂を建て、法印の影仏として阿弥陀如来を、母の影仏として千手観音像を祀り、藩民には毎年3月16日には、15日の市房山神宮参詣(さんけい)とともに猫寺参詣を行うよう命じ、藩主自らもこれを実行したため、ようやく霊も静まったそうです。
この参詣は昭和30年代頃までは大変にぎやかに行われ、その後市房山神宮は縁結びの神様「おたけさん」として、また、玖月善女が身を投じた茂間が淵の神社は、子どもの護り神「ごしんさん」として今でも厚く信仰されています。