私はどういうわけか、書店へ行くと必ず本を買う。
書店へ行くのだから当たり前と思われるかもしれない。
だけれども頻度が問題である。
ほぼ毎日お百度参りかというほど書店へ行くのだ。
それだけではなく、Amazonやブックオフでも頼んでしまう。もう病気ではないかと思う。
はっきり言って私は高給取りでもなく、本の仕事をしているわけでもない。一月の本代をエンゲル係数で表すならその割合は異常だ。
ちなみに紙の本を買うのでスペースを圧迫してくるので、一月に一回はブックオフさんへ送っている。
もちろん積読の山になる。
敷布団のすぐ横に本が積まれているので幸せなような罪深いような厳粛な気持ちになる。
何故、一冊を読み終わったタイミングで次の本を買うということをしないのだろう。
素朴な疑問である。
そこは私の本の読み方が影響している。
私は何冊か併読し乱読もする。小説同士だと喧嘩するので、ジャンルの違うものを読んでいる。
このスタイルに落ち着いたのは、誰の本だったか忘れてしまったが「人間は35歳までに手に入れたスキルでその後を生きていく」という一文を読んだからである。
私はその頃、病気が治らず仕事も辞めていたため、未来がとても怖かった。本は好きで読んでいてけれど、主に小説で現実的なものは全く未知だった。
時間がない。
そう思い私はいつもの猪突猛進を発揮して怒涛のごとく本を読み始めるようになったのだ。
あれから何年たったのか、結局仕事をできるようにはなれなかった。読書の習慣が強烈に残ってくれたからそれだけでも良かったとは思う。
しかし。
書店へ行く=本を買う
という、行動はパブロフの犬のように条件反射になってしまった。毎日行く理由はないのだけれど、毎日、隅から隅まで書店をうろついていると気分がとても晴れるのだ。刺激を受けて動き出すものが内部にできるのだ。
気が塞いでしまう私の病気に書店は欠かせないものになっている。
ただ、頻度が問題だ。眺めるだけで済むのならばいいけれど、何かしら買ってしまう。買い物依存ではないだろうか?
ちなみに家族で本を読むのは私だけなので、書店のときめきや効用、必要度、満足感をわかってもらうのが難しい。
なんだかんだ、理由をつけてバスに乗り、駅につけばそこが私の庭、大遊戯場書店である。思いっきりぐるぐるマグロのように書棚をぬうのがとても幸せである。
そして、ざっくり言うと本は一つの世界だと思う。
私は子供の頃から本の中で生きていた。
いろんな世界が本ごとにある。
一人でも、会話をしているようでもあり、もしくは、考えに沈むこともできる。その時、こころはのびのびして自分は自分であると、ぴったりあつらえた服を着ているかのようなうっとりした気持ちになる。
だから、本を求めてしまうんだろう。
ブレブレでしか生きれない自分を支えるために私は毎日書店へ行って、本を選び買うことを楽しみ以上に大切に思うのだろう。
