太吉が二十歳を迎えた八月のある日の夕方。ランニングシャツにパンツ一丁で離れの八畳間に横になっていた太吉は、開け放した窓の外から山風に運ばれてくる聞きなれない男たちの声を聞いた。砂利を蹴散らし足早に歩いているらしい。道の小石がずれ、きしむように鳴る。太吉は壁際まで体を一回転させ聞き耳を立てた。
「杉の大木は、ここから一山越えて谷に下りた所ですけん」
「その根元に埋めたってことか」
この地方の方言でへりくだった物言いをする男に続き、ずいぶん辺ぴなところに隠したものだと言わんばかりに別の男が言った。男たちが話している谷へ何度も行ったことのある太吉は、根元に大きな樹洞をもつその杉の大木を知っていた。二人が山へ登っていくのであろう。コツコツと短い木橋を渡っていく靴音が止むと、今度は細い尾根道沿いの藪をかき分ける音がした。
「大木の根元に埋まっているのは一体何か」
湧き上がる好奇心を抱いた太吉は、急いでズボンをはき裸足で玄関から隣の納屋へ急いだ。納屋に入り探した地下足袋は土間の隅に寄せてあった。片方ずつ足を上げ足裏についた砂を払って地下足袋をはいた。麦わら帽子は目前の壁に吊るしてある。太吉は釘に引っ掛けてある紐がちぎれんばかりに帽子をわしづかみにして山の方へ駆け出した。幅の狭い砂利道を横切り木橋を抜けると地獄谷に向かう登山口である。そこからは人ひとりがやっと通れる尾根道が続く。
道は昨日の雨で少しぬかるんでいた。太吉は泥を跳ね上げ、ぐんぐん登っていく。尾根道だと峠までは一時間ほど。太吉は近道するため途中で道からそれ、背丈ほどもある熊笹が生い茂る斜面を斜めに登っていった。しばらくして熊笹の斜面を抜け、足を乗せるとぼろぼろ崩れ落ちる、頭ほどの大きさの軟弱な花崗岩が露出した岩場に出た。そこから急斜面の獣道を登り切ると、すぐ峠に出る。男たちがたどっている尾根道は緩い上り坂がつづら折りになり、だらだらと峠につながっていた。
岩場から続く獣道は腰の高さまである茎の太い雑草が群生し、所々に見え隠れする石を避けて狐や狸が通れる幅で、わずかな蛇行を繰り返している。太吉は両手で束ねた雑草の根元をつかみ、行く手から押し寄せてくる葉っぱの波に顔面をたたかれながらあえいだ。汗だくで峠にたどり着くと湿った地面に両ひざをつき、シャツにしがみついている雑草の種子を何度も払い落とした。
十人ほどが座って休める広さのある峠は、周囲を雑木に囲まれほとんど見通しがきかず、頭上の楕円形に見える空以外は、ふもとの村と地獄谷へ下りる道の幅だけが見渡せた。峠の片隅に一軒茶屋跡と書かれた古ぼけた案内板が立っている。そばには松の木が二本、接するように並んでいた。太吉は、この松の後ろに隠れて男たちが来るのを待った。
やがて二人の男がやって来た。四十がらみの長身で色白の男が、後ろから来る小太りの男にしきりに何かを言っている。後ろの男は手ぬぐいで首筋をふきながら、呼び掛けにただうなずいているだけであった。かなり年配らしい。先に峠に着いた長身の男が、ふーっと大きな息を吐き、休むことなくそのまま谷の方へ踏み出していった。一息入れたそうにしている小太りの男も、しぶしぶついて下りて行く。太吉は注意深く二人の背中を見送った。
“地獄谷に行く道に迷い込んだな”
太吉は男たちが予想通り五㍍ほど下った分岐で左に曲がるべきところを、そのまま下りていくのを見て安堵した。大木への道に不慣れな者は夏場に繁茂する藪で目隠しされたその道に気づかず、道なりにまっすぐ進み一つ隣筋の地獄谷へ誘い込まれてしまうのが常だった。その谷に道をとってしまった二人の男が再び戻ってくるころには、とっぷりと日が暮れているはずである。