義父が亡くなって、もう20年になるだろうか。
その義父が現役の時、長く町内会長をやっていた。
町内会には老人も多く、葬儀もやたら多かった。
今のように、葬儀会社が葬儀委員長までやる時代じゃなくて、町内会長は葬儀委員長の為にあるんだと勘違いできるほどだった。
そんなせいもあり、義父と義母が共に何日も家を開けることはなかった。
実家の整理をしていた時に、義父が国勢調査員をした時の鉛筆や鉛筆研ぎや、クリップが出てきた。それらは綺麗に整えられれ、袋におさめられていた。
これを見れば、相方の几帳面さは義父譲りなんだなと一目瞭然だった。
袋の中身を取り出して、整理しなおした相方が
「うちの学習机の引き出しを整理したら、結構な文具があるんじゃない?」
「あるよ。もう、何にも買わなくてもいいいだけあるんじゃないかな」
一時期「探すより買った方が早い」と、こまごまと買いに走っていた。
だから、同じようなものがいくつもあったりする。
その反面、「もったいない」「ものを大切に」と言う“ではならない”にも支配されている私は、断捨離が大の苦手だ。
私にはおまじないの言葉がいくつかある。
その一つに
「私はなんでも持っている」
と言うのがあって、そのおまじないを最大限に使いまくろうと決めた。
あるものを使い切る。使い切れば捨てられる。
断食ならぬ、断物だ。
とにかく入れない。
あるものを消費する。
だから、最近は食料品と消耗品と本ぐらいしか購入しない。