自分達は、今日より明日が良い日だと信じて生きている。今よりも少しでも豊かになる事が
Quality of lifeの向上だと信じている。
今回被災地から遠いところにいる自分達に何が出来るかというのを色々な人が色々なレベルで考えて実践している。節電もその一つだ。街は大分暗くなった。デパートもいつもより早く終わる。電車も間引き運転が殆どだ。ところが不自由さに少しずつだが慣れている自分がいる。今まで電気の総供給量がどの位かなど考えた事もなかった。今日より明日が良い日になるための全てのインフラは当然増加を続けるのだと思っていた。
オール電化の家電、看板を広告に使うデジタルサイネージ、24時間営業、眠らない繁華街のネオン…
そういう世界が当たり前だと思っていた。それが駄目だという事では無い。今より良くなるための進歩は絶対に重要だし止めてはいけないと思う。今日より明るい日が明日だし、それを求める事が希望だからだ。
でも今こういう時だからこそ新しいということはどういう事か考えるのも良いかもしれない。
古くても良いものもたくさんある。どうしても人は新しいもの=良いものと考えてしまいがちだ。その時点で新しかった物を手にすると、その良さをとことん吟味する事なく、次の新しいものを買ってしまう。ちょっと前までの「最新」の商品はもう使われる事は無い。そういう無駄な部分を許容しながら発展している側面がある気がしてならない。
昭和の歌やその頃の町並みをテレビで見かけると凄く懐かしくなる。古き良き時代を思い出す。
サッカーボールを近所の家に蹴り込んでしまいその家のオヤジさんに殴られそうになった事。
練習さぼって殴られた事。どう見ても子供だと分かる見かけなのに私服に着替えてディスコに潜り込んだ事、おばあちゃん子だったのでいつもおばあちゃん孝行を考えていた事…
今ほど物資が豊かではない昔を懐かしむということは物資が満たされていても今の日常にがっかりしている部分があるからだ。
避難所の風景をテレビで見た。1日一つしか食べられないおにぎりを半分にして余ったおにぎりを育ち盛りの子供たちに分けようとするお年寄り。そんなお年寄りに何か出来る事はないかと考える子供たち。それは掃除であったり、楽器一つの演奏会だったり。
お年寄りを大事に思い、子供たちに希望を託す姿がそこにはあった。
宮城の避難所で手伝いをしている英語教師がインタビューを受けていた。
「日本は復興できると思いますか?」
「もちろんです!」
「何故そう思うのですか?」
「う~ん…それは日本だからです。」
誰もが心の奥に持っている日本の部分をもう一度考えながら一日でも早い明るい日を迎えることを切に願う。