鍼と言っても子供向けの鍼所で大阪に有りました

看板に兎の絵が描いてあり、これも古きものであると

紹介されてる

 

鍼が日本に伝わったのは562年の事と言いますから

今から1500年前になる

その後、日本には刺鍼を中国で会得した吉田流の開祖

吉田意休がいたり、江戸初期にも金鍼や銀鍼を創始した

御園意斎などもいた。

 

鍼灸按摩といえば、5代将軍綱吉の頃現れた杉山検校が

有名です。

菅鍼を創始し杉山流の創始者です

杉山が江戸に出て京橋辺に住んでた頃、

近くの青物問屋の娘・せいが大奥に奉公に上がり、

中臈にまで出世し、宿下がりをした時、

癪の傷みに困ってる時、杉山が鍼治療をして治癒した。

その後、将軍が疝痛を起こし苦しんでた。

それの功で禄800石を得て、関東総検校となり

鍼業を束ねた

 

艾見世

上の絵は神田にあった釜屋という見せ

釜屋という艾商がいて、ここの灸をすえると効が有るとも云われた。

痔の灸に 釜屋艾は いっち効き」と評判だった。

痔に効いたようです

寺に入るまで治らない病気を「痔」という?

日本人が昔から生活様式の為なのか悩まされてきた病気である。

恐らく、江戸時代は現代よりも生活様式から見て多かったでしょう。

 

場所が場所だけに見せるのを恥ずかしがり、

医者よりもむしろ寺社の売薬や民間療法に頼った。

 

本によると、芝の増上寺で売っている青い油薬が効いたとか、

青海苔を火で焙って鉄漿に混ぜたのを肛門に塗ると痛みが

消えたなどといった話がある。

 

按摩鍼灸といえば、

幕末に知られた医者では、原南陽がいる。

水戸徳川家に500石という破格の待遇を受けた医師である。

通常、医師であれば100石嘉200石が普通であるから異常といっても

いいくらいである。

 

彼の家は代々医師であった。

亰で医学を学び江戸で修業をし、江戸小石川の裏店にて医者をした。

しかし、全く流行らず開店休業で、按摩鍼灸によって生活をしていた。

大の酒好きであったという。

 水戸徳川家上屋敷

 

しかし、或る日運命の日を迎えます。

同じ小石川には水戸徳川家の上屋敷が有りました。

殿様が食あたりになって苦しみ、あらゆる医師を呼んで手当をさせたが

全く病状は好転せず、人事不省に陥ってしまった。

 

家中は大変困りましたが、その時、家中の一人が、実はこういう腕の良い

医師がいます。一度見て貰ったらと進言します。

藁をもつかみたい水戸家は早速呼んでみました。

それが原南陽です。

 

彼は患者を診断して、或る薬を服用させます。

そして、彼は1時間後には殿様が吐瀉するので、それまで台所で

好きな酒を頂きたいと希望し、薬が効いてくる間酒を飲んでた。

やがて、薬が効いて吐瀉し、そして、体が回復したのです。

 

実は、この薬は劇薬であったのです。

本人は自信が有っての事だったのでしょう。

回復した殿様、原を抱えよ、と自分の侍医に抜擢し、500石を与えた。

 

その薬代は9文でした。

掛かった費用9文で500石を手に入れたと世間は注目し、名医と

評判を取ったのである。