摘み草は「春の野に出て草を摘む」ことで、
『万葉集』にも「春日野に煙立つ見ゆをとめらし春野のうはぎ
摘みて煮らしも」とあるように、よめな(うはぎ)などを摘む摘み草は、
古代から春の行事として親しまれてきました。
蝶の舞う梅の木の前に立つ女性の抱えた籠の中には、 摘みとった草が沢山入っています。江戸時代の人々にとって 摘み草は、風流な遊びというよりも、食料としての野 草を採取する意味が大きかったようです。 しかも、素足のようです。 |
江戸時代には野菜は青物と呼ばれていましたが、 『料理物語』(1643)の青物の部には、現在では野草の、 たんぽぽ・よめがはぎ(よめな)・よもぎ・はこべ・なづな・ せり・つくつくし(つくし)・わらび・すべりひゆ・あかざなども入っています。 それぞれに適した料理法も記されていて、たとえばよもぎ汁の作り方は、 よもぎをざくざくに切って塩を少し入れてもみ洗いするか、 またはゆでてもよく、豆腐のさいの目切りなどを加えてみそ汁にするとあります。 |
享和3年(1803)の「江戸年中行事」では桜に続いて
「野がけ摘草」を3月の行楽に挙げ、名所として三囲堤や
道灌山など墨田堤から日暮里にかけて8か所を挙げてる。
ここは、現代でいうと都立広尾病院辺りであるが、
当時は、「広尾の原」とか「土筆の原」と呼ばれて、
江戸人の格好の行楽地だった。
野花の名所として、隅田川堤、豊島、代々木野と
並んで知られていた。
又、3代家光や8代吉宗、10代家治が鷹狩や鶉狩を
行ったという記録もある。(渋谷区区史)
広尾原
臼杵藩士の日記でもここ広尾に摘草に来てる
家族で摘み草をするのが好きであったようですが、
江戸に来ても摘み草をしてます
臼杵藩士の江戸勤番である定府衆の家族の女性や
子供も同伴し、弁当を16人前調えて仲良く行った。
弁当は稲荷寿司であったようで、ヨモギを一杯摘んだと記されてる
近くには「やぶのうち煎餅」を売ってる店や茶屋が1軒と書いてある。
若菜摘みは、「一日の遊びは百年の寿命を延ばす」といわれ、
春になると野遊びに出かけ、芽生えたばかりの青草の上を歩き、
春の精気を取り込んだ。
これを「踏青」といった。
「更けぬるか 月もさやかに てりそひて
広尾の原に すだく虫の音」
土筆を始めとして蕨、ゼンマイ、筍、代用茶にも使うウコギ、
枸杞、忍冬、秋には1日に何升もとれた栗、初茸など
六義園は自然の宝庫だった。
そしてこうした園の収穫物は先祖の霊に供えられた
大体が初穂であるようだが供えられた。