大奥で暮らす奥女中の「身分」と「役職」 | 歴史人

「諸家奥女中袖鏡」には、

親の家貧しくて養育もなり難く、是非なく奉公するなり。

これは親の為、我らが為の奉公なれば、

よくよく物事に堪へ忍びて辛抱し、

後々親を養うふに至らば、子たるの道にあらず。

親親に苦労を掛けぬよう勤め申すべく候は、のちのちは

天道の加護あるべし」とある。

 

これは尾張・徳川家の話であるが、今の埼玉県の庄屋の娘が

縁を辿って徳川家の女中に採用されたという。

すると、親は出世させたかったのでしょう。

決まった諸向きへの付け届けの他に、年に150両送って応援し、

御使番になったという。

お使番の給与は、年に切米4石、合力金5両である。

奥勤めの名誉が欲しいのでしょう。

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更にお上(安祥院)からの拝領品もありました

将軍の側室で現在は隠居生活を送ってます。

表では幕臣は将軍をお上と呼びますが、大奥では

自分が使える主人をお上と呼んでます。

 

鏡餅、茶、饅頭、ウズラ焼、八代蜜柑、吉野葛、その他に稀にだが

「吸い物の雁肉少し」などといった物もあった。

家に送って一番喜ばれたのは、お上の実子の

清水家の領地である甲州から献上された葡萄でした。

葡萄の甘酸っぱい味が口の中に広がるのです。

「勝沼や 馬子も葡萄を食ひながら」芭蕉

 

良い事づくめの様ですが実は御殿勤めは大変な苦労をします。

先ず上司・同僚との交際です。

娘の同僚は12名くらいで、部屋はその内の2名と同居、

明り障子で区切り、それぞれ下女と一緒に暮らします

 

女の園は大変難しい世界なためか色々な慣習がありました。

大体が厄介なものですが無視できるものではなかった。

 

夏はそれぞれに実家から同僚全員に土用見舞い(暑中見舞い)、

冬には相部屋の下女にまで白粉や伽羅油などを贈る。

もし、相部屋の人に不幸があった場合は悔やみの品を届けるのは勿論、

初めて正月のお裁ち初めをした時には、

同僚とその下女、相部屋の人に漏れなく食事を振舞うのが

しきたりとあって、慌てて実家に頼んで

魚のホウボウと酒5合を取り寄せた。

 

又、母が泊まりに来るときはお土産が必要で母が2泊した時は

饅頭と美作餅130個を竹の重箱に詰め、酒5合、鰹の煮付けを

お土産として振舞った

母が家に帰る日は同僚から食事を御馳走になり、

更に帰宅後も菓子屋から同僚一同による贈り物が届けられた。

 

宿下がりは諸大名の奥向きは有りますが、

江戸城の上級の大奥女中は一生奉公なのでありません。

後に変更され,出来るようになりました。

ただ同時に手厚い福利制度も変更され以前より薄くなり

一生奉公のメリットも無くなり退職も多くなったようです。

確かに年間20万両を超える金を使ってたのですから、

幕府財政を圧迫してたのは間違いない。

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御目見え以上では、親の病気は認められますが、

御手付上臈は無理です。

身分の低い女中ですと、奉公に上がって3年目に1回、

それからまた3年目に12日、3度目が16日と、3年目ごとに

許されるくらいだった。

 

自由に宿下がりが出来るのは、部屋方と呼ばれる、

直の奉公をしている女中たちの奉公人である。又者です。

彼女たちは、嫁入準備の為に行儀見習いという事で

上がった奉公人ですから、春秋二季には宿下がりが出来たし、

色々な口実を設けて帰ることができた。

そして、帰ると、さも直の奉公人のような感じを与え、

御屋敷や大奥の様子を吹聴した。

その結果、大奥での行事等が民間に広まったともいえる。

 

大掃除など良い例で、12月13日は江戸城では煤払いであり、

これがそのまま伝わってる。

 

特に三月が宿下がりの月であったので、

芝居業界は特に力を入れて、

江戸の三座は華やかな狂言を出した。

演目では、奥女中を主役にした「鏡山」は、そうであった。

鏡山は、加賀藩騒動を元にしたものである。

鏡山旧錦絵 - Wikipedia

しかし、女中になる時に「女中誓詞」に書いてあるように、

好色がましき事や、芝居小屋への出入りを禁じられている。

 

そこで、川柳では、「宿下がり 仕舞の指は 墓参り

親類知人を廻り、芝居見物をし、やっと最後の日に墓参りができた。