46.実録 江戸事件簿㉑ ≪仇討ち≫ | 仮分数の引き出し

もう一つのケースは、当時の法に則り妻敵討ちになった事件です。

不逞の輩は成敗してもよいという御定書の決まりです。

宝暦3年(1753)4月

舞台は陸奥二本松藩丹羽家、藩士の妻が足軽と密通し

7歳の息子を連れて逐電した。

妻は27歳、姦夫も同じ年齢でした。

因みに夫は42歳。厄年です

愛があれば年の差なんて、とは行かなかったようです

金があればどうであったかは知りません。

 

逃げられた夫は直ぐ追跡開始。

いわゆる妻敵討ちと言われるもので、

町奉行と目付に妻敵討ちの届をしました。

そして1か月後江戸の芝で見事討ち果たした。

2人の死骸は晒しものになり、3日後に取り捨て、捨てられたのです。

このケースと比べるとその前のケースなど温情に溢れたというべき

なのでしょうか?

 

岡場所

岡場所にあった女郎屋では“相部屋”が常識だった! | 江戸の男の ...

次は遊女に狂ってしまった話。

岡場所というのは、吉原などは公認の遊里でした。

それとは別に黙認された遊里であり、深川八幡、根津権現、

芝神明などの寺社の門前に在り、従って、町奉行ではなく寺社の

管轄の為に、規制は緩やかで有り繁栄した。

客主は、職人や商家の使用人が多く、その為、時間を決めての

遊びが主であった。

蠟燭が消えるまでとかですね。

 

随筆によると、天明年間1790年頃の根津辺りでは、

2朱(500文)と記されている。

弁慶の三日壱分は根津に咲き

弁慶とは大工が7つ道具を背負っていることからいわれた。

大工が3日で稼ぐ金・1分を根津で使うという意味です。

この当時、下女の年収は1両2分ですから、3日で1分は好い稼ぎです。

4分の1両です。2,3万円くらい。

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水路沿いには妓楼が軒を並べている。

深川岡場所で格式の高いのは、

何故か吉原と同じ名で仲町であった。

 

次に、大新地があり、そして、裾を継いでいることから裾継、

火の見櫓の下にあるから櫓下などが有った。

遊女について「守貞漫稿」では、「江戸は吉原のみ、歯を染めるを良とす。

歯を染め妓は、万事自費をもってす。」

吉原は歯を染めるが、岡場所の女達は歯を染めなかった。

仲町に芸者77人、女郎68人、櫓下には芸者31人、女郎88人

 

裾継には芸者11人、女郎36人居たという。

深川は独特の隠語が有り、伏玉とかある。

これは妓楼で待っていて遊ぶもので、伏玉以外には、

吉原と同じく呼出がある。

これは文字通り、茶屋に呼んで遊ぶもので、

格式としては同じく呼出が高い。

 

伏玉とは、妓楼や茶屋に抱えられていて。

呼出というのは通いであり

通いは更に自前と子供屋というものに抱えられていた。

 

この以下に最低のクラスが有った。

「四六見世」とも呼ばれた長屋作りのものであった。

1昼夜1貫文、昼600文、夜400文であった。