江戸の風習1-3
オランダ国旗の配色と同じです。勿論、鎖国時代の出島の影響でしょう長崎人は「長崎ハタ」というそうです。「ハタ揚げ」は、江戸時代から「長崎くんち」「精霊流し」とともに長崎三大行事のひとつとして親しまれている伝統行事。ハタ揚げは、揚げる高さを競うのではなく、ビードロヨマというガラス粉を塗りつけた特別な糸(方言でヨマ)を使って切り合うのが特徴で、そのため「喧嘩バタ」とも呼ばれている。長崎のハタ合戦は一対一の果たし合い。切るか切られるかの勝負であったようです。凧は国字で「風にあがる巾(布きれ)」の意味。発祥地とされる中国から伝わったのは平安時代といわれ、当初は中国での表記そのままに紙の鳶(トビ)と書いて「紙鳶(シエン)、紙老鳶(シラウシ)」などと呼ばれた。狼煙(のろし)代わりや、敵陣に火を放つ道具にもなったという。その形状から江戸方面でタコ、京阪ではイカやイカノボリ、ほかにタカやタツ、テングなどと地域によって呼ばれるようになった。長崎での呼称はイカノボリが主流だったようだ。殿様も凧あげが好きであったそうです安永9年10月6日堺町に行く途中「昌平場外にて小凧3繋が上る」のを見て買うように命じてる。正月でなくとも凧あげをしてる人がいた。因みに大凧は幕府は禁止してます更に安永10年2月26日浅草と回向院参詣のみぎり又しても凧を見て「蝶小凧買わせ」とあり、帰宅の途中でも追分にて四谷鳶鳳巾買い」1日に2軒も立ち寄ってるほどです。特に江戸の元日はとても静かで、外にいるのは,羽根つきや凧上げをする遊んでる子供たちと、大晦日も夜更かしできずに、朝早くから扇子を持って年始回りにあちこち挨拶回りする武士くらいのもので非常に静かです。 諸侯登城年頭の御祝儀です。初登城は武家の年始にあたり、元日から3日まで身分格式によって行われた。屠蘇が振る舞われた。徳川家の祖先が兎の吸物を供せられ、その後武運が開けたという故事。老中・若年寄・大目付が相伴した。「名残の夢」でも主人公の父である将軍家御殿医が早朝、長袴を穿いて裾捌きも素晴らしく歩いて行く姿を、主人公が絶賛していました。登城して、将軍夫妻に御挨拶、将軍が「めでとう」と答礼しました。その時の御台所の佩いている緋袴が、どうしても緋に見えなかったという父の感想が有りました。何度も染めると、黒っぽく見えるのだという。扇は、末広がりなので縁起が良いとされて、慶事や挨拶ごとに必須で大店でも挨拶用に必ず常備されていました。御庭番の川村家も正月御三卿など重要なところを挨拶回りをしています。武士の場合は、正月には年始回りと云い、自分の名の右の肩に「恭賀新年」と書いた名刺を持って上司・同僚等の屋敷を挨拶に回りました。勿論、同じように年始回りで留守の時が多いので玄関に置いて帰る。商人は、扇子や手拭を置いて回った。立派なものではなくて、表面には松竹梅や鶴亀が描いてあるが、粗末なものであった。只儀礼的に桐の箱に入っていたのです、相手先は、その箱を玄関わきに井桁の様に積み上げていたそうです。玄関先で、大体が用人が出てきて挨拶、居ない時は台の上に置いて行くのです。正月記帳江戸時代は、紙扇が主流で公卿は白骨、武士は黒骨を使った小物を貰う時や渡すときにも白扇を開いて物を載せた遣い方も決まっていて、身分の高い人の前では、扇子を3分の1位に開け、開いてる掌に静かに扇いで涼をとる或いは、子供を手習い所に通う時に最初に師匠に挨拶に行き、束脩を収めるがその時にも白扇を2本贈るのが習わしだった。 宜しくお願いします当時は、正月は勿論ですが、挨拶回りは非常に重要なものでしたから、省略することは許されません必ず必要な家は、歩いて回ります。