江戸の居酒屋6
居酒屋は年中燗をして出してました 貝原益軒の「養生訓」の影響であり、本の中に「酒は夏冬共に 冷飲熱飲は宜しからず、温酒を飲むべし」とあり 「養生訓」は江戸時代のベストセラーで冷酒は体に良くないと いう認識があった。 「ほどほどに飲めば酒は天からの贈り物で大変宜しい」とある。 真ん中下にある円筒形のものが「チロり」 酒はチロりと呼ぶ金属製の長い容器に入れて銅壺にいれ湯煎し温め、 飲み頃の温度になったら席まで運び猪口に注いで飲む 陶器製の燗徳利が登場したのは文政年間、普及したのは化政年間、 酒の値段は、文政年間の記録では、上酒(下り酒)1合が20から24文、 地酒は8文から10文でした。 1合4文くらいの酒もあった。 当時は、1合当たりで幾らの酒を出して欲しいという注文だった 酒を頼むときは、4合小半で呉と言うようにした 小半というのは、2合半の事で、1合4文の酒を2合半呉れと いう意味で注文した 酒の肴は1品8文くらいなので、上酒に2,3合に肴、3品で 100文(2500円)前後でした。 酒肴は江戸後期なると居酒屋と煮売屋が一緒になった 煮売り酒屋が増え、煮込み田楽、湯豆腐、ぬた煮しめ、芋の煮転がし、 魚介類の焼き物や刺身、鴨の吸い物など多彩だった 特におから入りの味噌汁「唐汁」は居酒屋の定番メニューで 2日酔いに抜群の効果有りと朝帰りの客は必ず飲んだとかいう。 他には葱鮪鍋も登場、鮪の刺身もあります 鮪は天保年間の頃、駿河湾や相模湾などで鮪の大軍が 押し寄せるようになり食べられるようになった。 当初は、トロの部分が痛みやすく時間がたつと異臭がするので 敬遠され捨てたり肥料などにされた。 ただ非常に安かったのでトロの食い方を工夫したのが葱鮪鍋。 たっぷりの葱と煮ると鮪に葱の香りが移り、葱には鮪の脂、旨味が移り 両方ともに美味しくなった。 粉山椒や唐辛子を掛けると一層美味しくなる。 寛政13年(1801年)浅草に泥鰌鍋の「駒形どぜう」開店 駒形というと「どぜう」 一般的に言うなら「どじょう」 しかし、この店は「どぜう」の暖簾を下げてました。 最初は、「どじゃう」を使ってたが、火災にあい験直しとでも 思ったのでしょうか、或いは、4文字だったので、死に文字を 嫌い変えたのでしょうか? 暑い夏は、「う」の付くものを食べるがいいとされます。 うどん、卯の花、梅干し、瓜、色々あるが、何故か 鰻が人気です。 しかし、夏の暑気払いなら「泥鰌鍋」が最高です。 「ささがしの 牛蒡の傍で みなごろし」 ささがしとは、笹がきのことである。 当時は、ささがしと一緒に生きたままの泥鰌を煮込み 味噌や七味トウガラシや胡椒とで汁沢山に作った、 鍋が煮立つと、蓋をずらして泥鰌を入れて、 蓋を抑え込む 「念仏を 4,5へん入れる どじゃう汁」 女房は堪らず逃げて行くが、食べる時には大喜び。 暑い時に、ふうふう言いながら啜り込む、 最高の罰バテ防止である。 ちなみに、呼び方が有ります。 「どじゃう」は、どじょうが存命中のことを云い、 「どぜう」は、どじょうが食い物になった状態だという。 従って、田圃に「どぜう」はいない、 又、鍋に「どじゃう」はいないのである。 どじゃう汁は、生きたドジョウを其の儘料理するので 「どじゃう」であり,「どぜう鍋」は、骨まで柔らかく 下茹でした姿煮や割いて頭を落し 骨や内臓を取り除いた開き身を使うので、 既に「どじゃう」ではなく,「どぜう」なのである。 駒形不動堂 駒形と聞けば名文句が浮かびます。 「夕日も波の上のお通わせ、 御館の首尾いかがおわしますやと 御見ののち、忘れねばこそ思いいださず候かしく、 君は今 駒形辺りは不如帰」 吉原の高尾大夫が仙台藩伊達家62万石の藩主・綱村に 送った恋文です。 続いて酒も一緒に飲ませる鍋料理店も増え、泥鰌鍋 あなご鍋、雁鍋、鶏鍋、ぶた鍋、蛤鍋などの小鍋立料理も 酒肴となった 値段は、同乗鍋は48文、汁は1椀16文。 このころから「酒飯屋」の看板を見るようになり 飯も出るようになった 幕末頃から縄のれんが出て赤提灯も出た 上野下谷に在った「雁鍋」という非常に流行った鳥鍋の店で 店先に葱を高く積み重ねて、その上の鴨居に漆喰細工の 雁を置き、看板とした。 紀州藩士の酒井も叔父さんたちと浅草の鷺大明神の 祭礼の日に出かけ鶏料理を食べようと雁鍋に行ったが 大混雑で酒5合を飲んで待ったが結局諦めて 帰ってしまった。 更にここは、幕末行われた上野戦争でも登場した。 高地から攻撃できる彰義隊は最初は優勢だったが、 新政府側のアームストロング砲による砲撃が届くようになると 形勢は一変した。 飛距離のあるアームストロング砲が不忍池の向こう側、 富山藩邸(現在の東大付属病院あたり)から池越しに砲撃、 その破壊力はすさまじく守っている彰義隊士を直撃し、 根本中堂(現在の噴水広場あたり)などもすっかり焼かれた。 また、新政府軍は黒門外にある料理屋「雁鍋」と「松源」の 2階から山王台の彰義隊を狙撃して黒門を突破したようです。 この絵は、官軍が撃った大砲の不発弾である 蕎麦は元々冷や汁に蕎麦を付けて食べていた元禄の頃、冷えた蕎麦に付け汁をかけ、そのままぶっかけてたべる「ぶっかけ蕎麦」が登場、立ったままたべられるので立ち食いが広まる。寛政の頃、丼鉢に温かい蕎麦を入れて熱い汁を食べる「かけ蕎麦」、蕎麦を器に盛り別に用意した汁に浸して食べる「盛り蕎麦」が普及する。かけ蕎麦は、ぶっかけ蕎麦を略して呼ばれるようになった。笊蕎麦は、江戸中期に深川洲崎にあった蕎麦屋の「伊勢屋」が蕎麦を皿ではなく竹笊に盛って「ざる蕎麦」と称して売出した。当時は、蕎麦を入れる容器が違うだけで「もり蕎麦」と「ざる蕎麦」とであったようだ。具をのせた蕎麦を種物という。その中でも一番早く登場したのが「しっぽく」でした「蕎麦全書」によると、延享頃に日本橋の近江屋という蕎麦屋が始めた。守貞謾稿」では、具は玉子焼き、蒲鉾、椎茸、くわいとあり、別に決まりごとは無かったようです。南蛮は、短冊に切った葱と油揚げを入れた蕎麦。長崎の料理の南蛮煮を参考にしたようです南蛮料理(ポルトガル・オランダなど)は、香味に葱や唐辛子を多く使う。南蛮に鴨肉を加えたのが鴨南蛮、それに卵を入れたのが親子南蛮。鴨は冬から春先しか食べられない鳥で、葱も又冬が旬で柔らかさが増し江戸野菜の千住葱、根深葱の上に葱の白い部分を載せる。鴨南蛮は、冬ならではの蕎麦でした。 「あられ」は、ばか貝の貝柱をそばの上に加えたものです。 ばか貝は、江戸時代には、江戸湾で大量にとれた貝で、江戸前の代表でもありました。すしネタとしては「青柳」と呼ばれます。「青柳」といえば「あぁそうか」と思う人も多いと思います。 そのばか貝を、空から降ってくる「あられ(霰)」に見立てて「あられ(霰)そば」と名付けたようです。温かい蕎麦の上に磯の香り一杯の海苔を敷き、その上に青柳の小柱を小さく切って柱型にして散らす。 「あられ(霰)」が降るのが冬のごとく、「あられそば」が店頭にでるのも、寒い時期です。「花巻」は、海苔をそばの上に散らしたものです。蕎麦の上に浅草海苔をもんで散らす。海苔を磯の華に例えて名付けられた。海苔の香りを味わうために、葱は入れず、おろし山葵で食べたパリっとした海苔が汁にしっとり沁みていく風情を楽しんだ。漢字で書くときは、「花巻」ではなく「花撒」の方が適切かもしれません。かけそばの上に、揉んだ海苔を散らすだけのそばなのですが、「花巻」も意外とそば屋のメニューにはありません。「夜桜を 見に来る人に売らむとて 花巻蕎麦のにほふふぐれ」シンプルさが江戸っ子に好まれたようです。おかめ蕎麦下谷七軒町にあった蕎麦屋「太田庵」が考えましたかめ蕎麦の具をおかめの面のように並べた。湯葉を蝶形に結んで丼の上部に置いて島田髷に模し、中央の松茸を鼻で薄く切った蒲鉾を頬に見立てた蓋を取るとおかめが出現する。お洒落な感じが受けて大繁盛した。後に屋号を「おかめ太田屋」にした。おかめは別名・お多福と言い縁起の良いとされ、ひょっとこではなくニコニコ顔のおかめにしたそうです。守貞謾稿には、そばの価格表も載っています。 それによると、 そば16文、あられ24文、てんぷら32文、花巻24文 しっぽく24文 玉子とじ32文となっています。 「てんぷら」と「玉子とじ」が普通のそばの3倍、「あられ」「花巻」「しっぽく」が2倍ということになります。「柚切り」「茶蕎麦」「よもぎ切り」などの「変わり蕎麦」が現れ、こうしたものの中で特に色鮮やかな物を色物と呼んだ。料理本(料理山海郷」(1750)によると、「卵蕎麦切り」が最初で、卵の黄身だけを使って打った鮮やかな黄色の美しい蕎麦でした。作り方は「蕎麦粉1升に卵10個入れる。打ち様常の如し」更級系の白い蕎麦粉を使い、蕎麦の香りを押さえて素材の風味を活かして仕上げた。」より鮮やかな色にするために、水や湯を使用せず、蕎麦粉に卵の黄身だけを25個使って打った。蕎麦粉と黄身だけを使ったのを「卵切り」蕎麦粉と白身だけのを「白卵切り」卵きりの美称として「蘭切り」と書かれることもあった。その後も、「桜切り」「百合切り」「紅切り」「海老切り」など色々な変り蕎麦が考案された。江戸の蕎麦、上方の饂飩と云いますが、元々は江戸も饂飩が主流でした。 けんどん(慳貪)屋「つっけんどん」という言葉があるが、それが産れた通りで愛想も何もない接客であったようです。それが逆転したのが、濃口醤油の登場です。3代家光の頃の本「料理物語」には、饂飩と切麦の作り方がありますが、現代と変わりません。違うのは饂飩が温汁で、切麦は冷やして用いる事です。饂飩の汁は「煮貫(にぬき)と云われ、その製法は、「味噌5合、水1升5合、更に鰹節2本混ぜて煎じ、袋に入れて垂らし、3回濾す」とある。かなり濃厚な味わいで太めの饂飩に合います。薬味には、胡椒・梅干を添えるとある。それが濃口醤油が出て来て、味噌が醤油に代り、蕎麦の味を引き出したことが大きな原因でした。「守貞漫稿」には、「京阪では饂飩が多い、江戸では蕎麦が多い」とされていて、その時期は寛延年間であったようです。9代将軍・家重の世です。 七味唐辛子売り蕎麦・饂飩といえば七味唐辛子が出てきます。唐辛子の辛味の穏やかにして薬味としても使えたのが「七味唐辛子」です。誕生したのが寛永年間ですから江戸初期です。唐辛子の粉末を中心に、胡麻・陳皮・山椒・胡椒・乾燥苔あさの実など、計7種類のものを混合したものでした。[合いに使いますのが、四谷内藤様名物の八つ房唐辛子、次は黒ゴマ、精根を増し、御髪の艶を出す。次の陳皮は紀の国の蜜柑の皮の製、引きたる風邪を発散す・・・」漢方の名医のように説明していくのである。饂飩や蕎麦が丁度人気になってくる頃でしたので大ヒットしました。町には、ユニークな格好をした唐辛子売りが歩きました。2mほどの真っ赤な唐辛子の張子を担ぎ、その中に穴をあけて七味唐辛子の小袋を入れ、声を上げて売り歩きました。値段は2袋で30文だった。「墨流し 汁へ七色唐辛子」奥女中によると天麩羅は江戸城御本丸では御法度でした。姉小路さんの部屋子が揚げ物をして火事が出そうになったので揚げ物は一切御法度でした。どうしてもという時は、御膳所に行って揚げて貰う。ただ、天麩羅は下等な物ですから、お上りに御台所はお上りになりません。天麩羅は、油でカラッと揚げた衣は江戸人が体験したことが無い味でした。油料理の傑作でした。そして江戸湾で上がる新鮮な海の幸、旬の野菜、申し分のないネタが揃う江戸は絶好の環境に恵まれていました。一番天麩羅の流行に寄与したのが油の普及と濃口醤油でした。油は江戸中期になると胡麻油や菜種油が増産されて安価で出回るようになり、食用と夜の屋台の灯用として重宝された。又、濃口醤油は千葉で安く生産される様になり、安いのと江戸特有の甘辛いツユが生まれて、ネタを引き立たせたのである。「天麩羅の 指を擬宝珠へ ひんなすり」天麩羅の屋台は、油と火を使うので、安全上、橋の袂などで営業しました。橋には、擬宝珠がある、天麩羅を指で掴んでるので、指に付いた油を擬宝珠になすりつけているのである。薄口醤油とは、色が淡白で香りが薄い事から呼ばれ、反対に濃口は、辛さが特徴で、その辛さが生魚を食することが多い江戸っ子には、生臭さを消してくれ、又、諸国から集まってきたに肉体労働をする人が多かったので、辛口の味付けが好まれ主流となった事も大きい。更に、濃口は納豆にも影響を及ぼしていた。当初、納豆は直ぐ味噌汁に入れて食べられるように、叩き納豆、(包丁で叩いて細かくした納豆)に葉っぱや豆腐を入れて売っていました。味噌汁の中に入れると出来上がりのインスタント食品です。忙しい朝の時間に追われる人を大いに助けました。 魚売り 納豆売りしかし、安い濃口醤油が出回るようになると、今のように、叩かない納豆(糸引き)が主流になり、納豆と醤油を混ぜて御飯にかける様になったのです。朝だけ温かいほかほかのご飯を食べる江戸っ子には無くてはならない御加数(オカズ)でした。毎朝4時位から売り歩く納豆売りは、江戸の定番であり、参勤交代で江戸で勤務した紀州藩士の日記にも「カラスに鳴かぬ日が有っても、納豆売りの来ぬ日は無い。土地の人の好物なるゆえと思われる」と記されている。「納豆としじみに 朝寝起こされる」上方では、納豆が不人気のようですが、実は関東よりも関西の方が納豆の出現は早い。元禄の頃には、既に亰で納豆売りが現れている。しかし、匂いなのか糸引くことが原因なのか、同じ大豆製品である豆腐が主流となったようである。屋台といえば、鮨も当たり前です。語源は「酸し」だという。酢を使ったからですね。12世紀には小肌や鯛の酢〆を桶に入れて売っていました。当時は、鮨か鮓の字を使いました。やはり、魚が旨いという意味でも合っています・寿司という字は後世考えられた字でした。ご飯の事を「シャリ」というのは、梵字のシャリーラ・意味は遺骨。遺骨を見た人は、米粒のようだということで、「シャリ」と云われたという。弘法大師も、仏舎利は米粒に似る。是の故に舎利と云ふ」と云っている。ただ、鮨飯は現代の鮨飯とは違っていたようです。自分の骨が、飯になるとは、(お釈迦様でも気が付くめ~」古い!しかし、戦後流行った銀シャリという言葉は、死語になってしまった。本にはよく出てくる言葉ですが。江戸文化が濫熟した文化文政時代(化政年間)に登場した握り鮓は、ネタの新鮮さと安さと手軽さで江戸っ子を虜にしました。「守貞漫稿」によると、「江戸、今製は握り鮓なり。玉子焼き、車海老、海老そぼろ、白魚・まぐろさしみ、こはだ、あなご価8文也。その中、玉子巻は16文なり。これに添えるに新生姜の酢漬け、姫蓼等なり。」又、「江戸は鮓店甚だ多く、毎町1,2戸。蕎麦屋1,2町に1戸あり」当時のネタはというと、魚介類ではこはだ、あじ、あなご、きす、さより、いか、たこ、はまぐりでした。只、当時は勿論冷凍技術は有りませんでしたので、保存期間に問題があり生ではなくて酢しめにしたり、火を通したりしていました。店の鮓では注文の鮓が中心で、客の食べる時間に合わせて鮓種に下処理し、屋台の鮓は下処理なしで鮓種を使い、醤油をつけて食べたようです。屋台では、1個4文から8文くらい。小腹が空いた時に、ちょっとつまむのに時間も掛からず便利でした。但し、今の大きさの何倍かありますので、1,2個くらいでよかったのではないでしょうか。稲荷寿司も大きかったようで、中には、小さく切ってくれるところも有ったようですそして、段々と高級化して店売りも始めました。有名な所では、「守貞漫稿」では、本所の「松の鮓」、両国の「与兵衛鮓」深川の「小松鮓」を挙げている。「守貞漫稿」では、鮓屋は屋台店が多いとしており、店の庇の下や橋の下に板小屋を建てて商売する。移動する時は解体した。紀州藩士の酒井は、感心な事に五目寿司をメニューにしてます。「終日雨天、昼にんしん加薬にてごもく寿し致し候。具は皆予が刻み煮付等致し、飯を焚きかけ候ハハ、直助焚き候と申候故任させ候えば、大いに不出来なる飯を焚き寿し大いに不出来不塩梅に候・・」これは折角自分で全部五目寿しを作ろうと準備したが、下男が自分が飯を焚くと申し出たので任せた所、とんでもなく不味い飯が出来てしまったという事で、結局、食ってしまい、残りの飯は粥にして夜食とした。中々料理に自信を持ってきたようです。ちなみに酒井は女房持ち名前は歌路で生まれたばかりの女子もいたようで、或る時、屋敷の前に幼い女の子の捨子が発見され悲しんでいた我が子の事を思い出したのでしょう。