みなさんこんばんは。(みなさんというほど閲覧してくださってる方がいない気はしますが、、)

葬儀は生きている人のため、だとか、神仏は心の中にいる、みたいな言説を聞いたことがありませんか?

私は、そういうのはすきではないなあ、という雑感です。

葬儀が生きている人のためにあるなら、引導作法なんかはいりませんよね。

神仏が心の中にいるというのは、間違いじゃないんですよ。大日如来は万物と同体ですから、私たちも一人一人大日如来ですし、
聖不動経に依れば、不動明王は衆生の心に住みます。

ただ、「神仏は心の中にいる」と言っている人の多くは、
「心の中にしかいない」=「神仏は気休めのための妄想」=「寺社で神仏を拝むのは無意味」という考えを持っているような気がします。
考えすぎかもしれないですけどね。

たとえば、法力はあるか?と聞かれて「うーん、わからないです」と答える人の護摩に随喜したいとは、私は思わないな。

日蓮宗の修法師の何が好きかって、彼らは法力を信じてるんです。
法力を高めるために、祈祷で験を出せるようになるために、ただそのためだけに荒行をする。

「効く祈祷と効かない祈祷の差」だとか、「霊や厄神や野狐にどう対処するか」とか、
現代人には笑われてしまいかねない事を、真面目に考えていらっしゃる。
TwitterやYouTubeでそういう発信をしてらっしゃる日蓮宗修法師さんはたくさんいます。

今の時代、伝統宗教にそういう宗教者は貴重ですよ。ありがたいことです。




木曽の御嶽山で修行する行者の記事を、藤田庄市という人の本で読んだことがあります。

御嶽行者は、幽霊や神仏の実在を真面目に信じています。

龍を見たとか神仏を見たとか、神秘体験の話をたくさん聞かせてくれます。
御嶽山の中でも「危険」な場所を通過する時は、同行している信徒たちが幽霊に憑かれないように般若心経を唱え続けたりするそうです。

「幽霊や神仏は確かにいる」
それが、御嶽行者さんたちが数十年に及ぶ信仰生活の中で辿り着いた答えなのでしょうね。

以前、某宗の偉いお坊さんにお話を聞かせていただいたのですが、その方は「幽霊はいない」とおっしゃっていました。
それも、その方が数十年に及ぶ信仰生活の末に辿り着いた答えなのだと思います。

別に、そのお坊さんと御嶽行者さんのどちらかが嘘つきだって訳ではなくて、
たぶん、どちらも正解なのでしょう。

その上で、私は御嶽行者さんの答えのほうを目指して信仰をしたいと思います。


そのお坊さんは、南無阿弥陀仏の意味は「ありがとう」とおっしゃっていました。
その方が長い信仰の末に辿り着いた解釈でしょうから、間違いのはずがありません。
実際に、この解釈に救われる人も多いと思います。

ただ私は、法然上人のおっしゃるように

極楽浄土は現世のことなどではなく、確かに西方に存在する!
阿弥陀如来への帰依を意味する南無阿弥陀仏を10遍でも唱えれば、死の時に阿弥陀如来が来迎し、浄土に行ける!

という、わかりやすく、宗教らしい解釈のほうに救われます。こちらもまた、間違いのはずがないのです。


どんな教えで救われるかは一人一人違うからこそ、仏教には様々な宗派が存在して良いのだと思います。

ダラダラとわかりにくい文章ですが、これが私の雑感です。

神仏はいる、幽霊はいる、浄土はある、法力はある、、
私はそういうのがすきだというお話ですね。

ここまで読んでくださってありがとうございます。
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