夏休みで戻ってきている娘が、
「今年広げたって言うパパの畑をちょっと見に行ってくるね。」と言うから、
「おう、行ってこい。」と答えた途端(しまった!)と感じた。
案の定、
「あのまんまにしてたら、腐らしてしまって、ダメでしょ。」
と娘が彼氏に命じて、すでに家に存在する倍以上の量のクルジェット・ジェアンを畑からもってきてしまった。
(いいんだよ、そのまんまにしておいてくれれば、敢てそのまんまにしておいたんだから、ホント言うと腐らせるつもりだったんだから。)
そういう気持ちでいっぱいだった。
娘がまだ幼少の頃「食べ物を無駄にしたらいけないよ。お百姓さんが一生懸命育てたんだからね。」と言い聞かせて、その我が教訓を大人になった今でも素直に守り続ける娘には愛らしい感情は沸くが、今、正にそのお百姓さんはこのぼくで、そのまんまでいいと思うのだから、もう放っといて欲しかった。
毎日もの凄いクルジェットの量の無言の圧力である。それもただのクルジェットでなく巨大化したクルジェットだからなおさらである。クルジェット三昧である。三昧と言うと楽しんでいるみたいであるけど、ちっとも楽しくない。苦悩と苦痛である。
干瓢が食べたくて食べたくて三日三晩クルジェットのかつら剥きを修練した。生憎、「かつら剥かれた皮」は干すには天候が悪く、せっかくの皮もカビて捨てたことは既に書いた。
だだ、一旦この技巧を究めようと志すと、もういてもたってもいられなくなる。寝ても覚めてもかつら剥きの事ばかりが念頭をよぎる。かつら剥きは魔性の技巧である。すればするほど「いかに薄く、いかに長く、いかに短時間で」と言う記録に挑戦したくなる。
眠れない夜は一人台所に立ち、菜切り包丁を研ぎ、深呼吸をし、精神を整え巨大なクルジェットを10㎝位の幅の輪切りにし、切り込みを入れる。
かつら剥きにした皮を干す以外にどうにか使えないだろうか。せっかくの技巧を宝の持ち腐れに終わらせない方法はないものか。それを幾晩も考えたら突如「きし麺」が脳裏をよぎった。
「きし麺」はイタリアの「タグリアテル」である。あるいは、「タグリアテル」はイタリアの「きし麺」である。まあ、言い方はっどっちでもいいのだけれど、かつら剥きした皮を1㎝くらいの幅に切り麵に仕立てるという発想である。
で、その麵仕立てのクルジェットに、お好みのソースでお召し上がると言うだけの事であるけど、それでも新たな分野が開拓できたと言う意味では収穫はあった。
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三枚におろした鯛のお頭と骨と、鶏もも肉の骨をベースに長ネギを加え出汁を取り、味は粗塩で整え、まろやかさを得るため豆乳を加えただけのスープです。
具には、キノコ、ブロッコリー、人参、ムール貝(冷凍/むき身)、骨からそぎ落とした鯛の身などがあります。我流ではありますが、多分コレストロール値をお気になされている御方にはいかがかとお勧めいたします。
ちなみに、ぼくの妻は大変喜び満足しておりました。