薬屋です。

去年の4月の日付で残っていた下書。


ワタシさんと酔っ払い花屋さんを知る人に

会うことが出来た。


あの頃のワタシさんにとって

彼がどれ程の救いで支えだったのか。


この先、子供を持つことを諦め

喪失感の中に居たであろうワタシさんが

日々を過ごせたのは

大切な友人の彼が居たからだろう。


俺がワタシさんと出会ったのは

震災のボランティアだった。

彼が亡くならなければ

出会わなかっただろうと思ってきたし思っている。

これも縁というのか。


不思議な縁はもうひとつ。

彼もpassingのライブに行っていたということ。


髪が切れない間のワタシさんの前髪を

切っていたのは彼だったそうだ。

彼は触れることを許されていたのかと。 


嫉妬なのか悔しさなのか

「あーあ」と声に出してみたりした。

生きた花をいただくと

その後しばらく花の余生への責任が生まれることが

何となく億劫というか、気が重く感じると。

だからといって、手間いらずで長く楽しめる

ドライフラワーの方が好きというわけでもなくてと

欠陥人間丸出しの話を酔っ払い花屋さんにした。


酔っ払い花屋さんはににこにこしながら

「それはワタシさんが

つぼみが開いて、花が咲いて、枯れて落ちるまでを

全て見逃さずに見ているからですよ。」

と云いました。


「華道は殺生」

酔っ払い花屋さんはいつも話していた。


「根を張りつぼみをつけた場所から切り離して

生けるなんて人間のエゴ以外の何ものでもない。

鑑賞用だなんて身勝手にカテゴライズし

これからも消耗し続ける。

それでも花を生けることを俺はやめられない。

億劫に感じるくらいが多分健全ですよ。」


酔っ払い花屋さんが話してくれてから

特定の日に意味を持たされた花が

しばらくその余韻を部屋に漂わせた後に

跡形もなくなるその過程も悪くないなと思った。



自分が知らないことを知ってる人に惹かれるのは

知識量とかではなくて

今いる場所がすべてではないってことを

感じられるからなのかもしれない。


本が読めなくなっていくワタシに

「読解力がなくても想像力があるから大丈夫」

云ってくれた酔っ払い花屋さん。


酔っ払い花屋さんからは

そういうことを沢山教えてもらった気がする。

もっと沢山教えてもらいたかった。


会いたいな。

会いたい。