「もう私から教えることはありません。勇治君は次のステップを考えるべきです。東京の先生を紹介しますので一度レッスンを受けてみませんか。」
ピアノ教室の先生からそのような言葉をもらうほどになっていた。トロンボーンの力量も確かなものとなってきており進む道は決まった。
「俺芸大受験するけどいいか。」「おまえの好きなことをやればいい。学費のことは心配するな。」
勇治は不定期に東京でレッスンを受けることになった。会場にはレッスンを待つ同年代の数人が待っていた。スタジオ内から漏れ聞こえてくるピアノの音を聞いてそのレベルの高さと集中力に愕然とした。自分は井の中の蛙だと思わずにはいられなかった。そして自分の番が回ってきた。勇治は課題曲を演奏し始めた。先生は目をつぶって聞いていた。
「渡辺君、演奏するとはどういうことだね。」「作者の意図するところを自分なりに表現することだと思います。」「楽器は自分の身体の一部でなければならない。楽器や楽譜に引っ張られているようではだめだ。どこかにぎこちなさを感じさせるということは、ピアノと君が一致していないということだ。そこを埋めるのは、ただ漫然と長時間練習を繰り返せばいいというものではない。どれだけ集中力を高めて実のある練習をしているかということなんだ。わかるかい。」返す言葉がなかった。
その日から勇治の練習は明らかに変わった。殺気立つほどの空気を醸し出しながら。久美は時々勇治の家の前を通り、漏れてくるピアノの音を聞いていた。いつもピアノ教室で勇治の音を聞いていたので、その変化をすぐに感じ取れた。『先輩すごく集中してる。』
ある時、いつもの橋の上でトロンボーンを練習している勇治と出会った。
「先輩久しぶりですね。」「おう、どうだ受験勉強進んでるか。」「全然だめですね。先輩はもう目標は決まったんですか。」「まあね。音大をいくつか受けようと思ってるんだ。でも初めて東京でレッスンを受けた時にはレベルの違いにびっくりしたね。」「どう違うんですか。」「技術もそうだけど一音一音の集中力が半端じゃないんだよ。やっぱり独りよがりではだめなんだ。いい演奏は何かが伝わるんだよね。」
勇治に心惹かれていることを言える空気はなかなか訪れなかった。それでも横にいるだけで幸せだった。ただ近くにいることができればいつかは振り向いてくれるかもしれないと思っていただけだった。
そして久美は勇治と同じ地元屈指の進学校に合格した。
久美は中学に進学し、迷わずブラスバンド部に入部した。二学年上の勇治は部長になっていた。本当は勇治と同じトロンボーンがしたかったが、フルートをすることになった。小学校の鼓笛隊で経験があったからである。昨年の吹奏楽コンクールでは長野県大会で優勝したものの惜しくも地方大会で涙を飲み全国大会への出場は叶わなかった。今年はその雪辱に部を上げて盛り上がっていた。
顧問をしていたのが音楽の先生ではなく理科の先生だったためか、厳しさの中にもどこか自由な空気があった。
「もっと腹筋に力を入れて、腹式呼吸をしないと活きた音が出ないよ。」フルートの先輩からよく注意された。やり慣れない腹筋も練習メニューのひとつだった。それでも楽しかった。音色の違うたくさんの楽器がひとつになる素晴らしさを感じていた。
「夏休みはお盆以外は全て部活があります。みんなできるだけ休まないように願います。」
緑多い長野といえども夏は暑い。パート練習は各々日陰を探して行った。その後音楽室で全体練習となる。顧問からは厳しい指導やメロディを歌いながらの感覚的な言葉が飛ぶ。「もっとゆったりと。」「ためて。」「頭を飲む気持ちで。」「今こんな注意をされている時期じゃないぞ。」
みんなの気持ちがひとつになっていくのをお互いに感じていた。こういうときには集中力のないパートや個人はすぐにわかる。そこだけ単なる音以上に空気感が違うのだ。でも最近はそれを感じることはなくなっていた。
夏休みが終わり、吹奏楽コンクールが始まった。今年は地方大会も勝ち抜き、全国大会への出場も叶った。優勝は残念ながら出来なかったが準優勝を飾ることが出来た。「我が校始まって以来の快挙だよ。」校長が労いの言葉を述べた。
音楽室で解散式を行った。部長である勇治が「みんなお疲れ様でした。全国大会準優勝は我が部にとっての誇りです。今日を以って3年生は引退します。全国優勝の夢は後輩達に托します。」
勇治と久美は帰り道が同じなので久しぶりに一緒に帰った。
「先輩、どこの高校を受験されるんですか。」「塩尻の高校を受験する予定だよ。」「あそこなら名門校じゃないですか。」「まあ受かるといいけどね。それじゃね。」「頑張って下さい。」
それからしばらくの間帰り道で会うことはなかった。その後勇治は志望校に合格した。地元有数の難関校であり久美には高いハードルではあったが、勇治と同じ高校に行きたいとの一念で部活と勉学に励んだ。一方の勇治は見事志望校に合格した。
勇治と久美は小さな頃から顔なじみではあった。ただし学年が違うこともありただ顔を知っている程度のものだった。
なかなか子宝に恵まれなかったがようやく授かった勇治を、両親は農家の後継ぎには最初から考えていなかったようだ。なんとか我が子の才能を探し出しそれを伸ばそうといろいろな習い事をさせた。英語やそろばん、学習塾にも通わせたがどれも長続きせず、どういうわけかピアノだけはやめなかった。それどころか先生も目を見張る上達を見せていった。当時渡辺家には古いオルガンしかなく先生から鍵盤のタッチが違うので中古でいいからピアノを買ってあげてほしいと言われたと美代子からしきりに言われていた。『また美代子の親ばかが始まったな』と思いつつも先生がそれくらい言ってくれるんならと考えていた。ある日伸夫が松本に出かけたときに通り掛かった楽器店で今家にあるピアノに出会った。それは勇治のために存在しているかのように見えた。『俺も美代子とおんなじだな』
勇治が学校に行っている間にピアノは届けられた。ピアノを見つけた時の勇治の喜び様が今も伸夫の脳裏に焼き付いて離れないという。中古でいいからと言われていたが、かなり無理をして新品を購入した、その真新しいアッブライトピアノに座り、何時間も弾きつづける勇治を見て伸夫は夕餉のビールを一杯やりながら喜びを噛み締めていた。『これでよかったのだ』
それからというもの勇治は一人っ子であったせいか、暇さえあれば鍵盤に向かい、楽器と会話しているようでもあった。ピアノ教室でも休憩時間などでは早くから絶対音感が発達していたのを遺憾無く発揮して、どこかで聞いてきたといってはテレビでよく流れている曲などをみんなの前で弾き始めたのを見て、この子は伸びると先生は確信したようだった。その教室に後から入学したのが久美だった。勇治はそれほど口数が多い方ではなかったが、例の耳で聞いてすぐに演奏する特技を生かしてテレビのアニメや刑事ドラマ、時代劇などの主題歌や挿入曲を事もなげに弾いて、教室中の話題をさらった。普通の教室では叱ってしまいそうな行為をある程度受け入れて自由な雰囲気を与えたことも大きかった。久美は年上の勇治に幼いなりに惹かれていった。勇治にとってはまだ近所の幼なじみに過ぎなかったが。
中学に進んだ勇治はブラスバンド部に入部した。そこでも持てる才能を発揮していった。手に入らない楽譜は勇治が聞き取って譜面を起こした。「なんかすごいやつが入ってきたな。」先輩連中も一目置かれるようになっていた。ピアノは好きだったが持ち運ぶのは容易ではない。しかしトロンボーンなら細長いハードケースに入れてどこでも演奏出来る。しかも音源が自分の唇である。時に勇ましく時に甘い音色、勇治は次第にこの楽器の虜となっていった。
学校の音楽室でも練習したが、アルプスの見渡せる小川に架かる橋の上で練習するのを好んだ。故郷への愛を育む取っておきの場所だった。
その橋は久美の通学コースでもあった。「先輩。」「ああ久美ちゃん。」「ブラバンに入ったんですか。」「ああ、なんとなく始めたんだけどハマっちゃってね。」「わたしも中学に入ったらブラバンに入部しようかな。」「いいと思うよ。ピアノもいいけど違う楽器をするとまた視野が広がる気がするな。ピアノと違って楽器片手にどこでも演奏出来るからね。僕はこの場所が大好きなんだ。目の前の景色を見てごらん、僕は日本一の眺めだと思うよ。」