戦闘は熾烈を極め、双方に大量の犠牲者を出します(池田大佐も戦死)が、日本軍の猛攻により、ソ連軍を浜辺まで押し返します。

日本軍の士気も高い中であるにも関わらず、8月21日、上層部からの命令は停戦と武装解除でした。当時、「停戦とは何事だ!」という怒号と兵士たちの嗚咽が交差していたと言われています。戦いでは勝利したものの、8月23日、三好野飛行場にて降伏と武装解除に調印します。

戦後、地元の北海道をはじめとして教科書ではではこの決戦を教えていません。しかしながら、占守島決戦には大きな意義がありました。

ソ連側の被害が大きかった根拠として、当時の政府機関紙「イズベスチヤ」は「占守島の戦いは、満州、朝鮮における戦闘より、はるかに損害は甚大であった。8月19日は、ソ連人民の悲しみの日であり、喪の日である」と述べています。

それほど、日本陸軍、特に士魂部隊の活躍が大きかったのです(ソ連側の発表では、日本側の死傷者は1018名、ソ連は1567名。日本側の推定では、約600名と約3000名と開きがある)。




Android携帯からの投稿
当時は、占守島と隣の幌筵島(パラムシルとう)に堤中将率いる陸軍第91師団2万5000の帝国陸軍最精鋭部隊がありました。

そして、日本軍は既に武装解除を進めていたため、最悪の状況で戦争状態に突入しますが、現場の士気を高めた一人の英雄がいました。

名前は、「戦車隊の神様」とも呼ばれた池田末男大佐。池田大佐が率いる戦車第十一連隊は、「十一」を縦に合わせて漢字の「士」となぞらえて、「士魂部隊」と呼ばれていました。

池田大佐は、以下のように部下に問います。

「諸氏は、赤穂浪士となり、恥を忍んでも将来に仇を報ぜんとするか?あるいは、白虎隊となり、玉砕をもって民族の誇りとなり、後世の歴史に問わんとするか?赤穂浪士たらんとする者は、一歩前に出よ。白虎隊たらんとする者は手を挙げよ!」

士魂部隊は全員手を挙げ、戦うことを誓ったのです。




Android携帯からの投稿
8月15日は、日本が「ポツダム宣言」を受諾して終戦を迎えた日です。しかしながら、15日以後に実際の戦闘はありました。

8月18日から21日にかけて千島列島最北端の占守島(しゅむしゅとう)での決戦です。

千島列島は、国後・色丹・歯舞・択捉の4島より北に20以上の島々が連なっています。

占守島は千島列島の最北端の小さな島で、カムチャッツカ半島南端から10数キロしか離れていない場所に位置しています。もちろん、当時は全て日本領でした。

8月15日の玉音放送によって敗戦を知った軍人たちは、書類の焼却と武装解除を始めていました。ところが、その時にソ連軍は南樺太・千島への侵略を進めていたのです。

敵陣接近の情報をキャッチした帝国陸軍の堤中将は、各部隊に戦闘をしない指示を出していますが、この段階ではソ連ではなく、仮想敵国のアメリカが侵略してきたと考えていた模様です。

大本営からも一切の戦闘を禁止されていましたが、8月18日未明、島の竹田浜一帯にソ連軍が上陸したことが判明。全兵団に戦闘命令を出しています。




Android携帯からの投稿