21年かぁ・・・ | 読書で人生武者修行(改)

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どーも、プレミアムですカエル

毎年この1月17日には、同じ記事を更新しています。
21年前の今日に阪神大震災がありました。
僕はその被災者ですので、自分が経験した
震災直後の様子を忘れないためにも
発信し続けたいと思います。

~~~~~~~~~~~~原文のまま~~~~~~~~~~~~~~

阪神大震災が起こった直後数日までを
自分なりに振り返りたいと思います。


平成7(1995)年1月17日午前5時47分

(僕は神戸市長田区で迎えました。
後に神戸でも被害が特にひどい地域でした)

直下型と呼ばれる大地震が起きました。
ここからの話を信じてもらえるか?
笑いを取りに行くこともないですが、

可哀そうと思わず、笑えるところは笑って下さい^^
(以前勤めていた職場の上司につらい事や悲しい事は周りに
 
どんどん話しなさい。できれば笑って話しなさい。と言われましたので。)


僕は被害の大きな地域に住んでいたにも
関わらず、地震の時、
「 熟睡 」しており目を覚ましませんでした・・・
(これはお恥ずかしいのですが、事実です)

2階建ての家の2階で寝ていました。
揺れがおさまり、
僕は、まだ夢の中でした。
そこへ「プレミアムー、プレミアムー」と
母親の叫び声が聞こえ、
目を覚まし、
僕:「何?どうしたん?」
(眠いのに起こされキレ気味です)
母:「どうしたん?ちゃうわー早よ、起きっ!!!」

その怒りのこもった声で我に返り異変に気付きました。

部屋が埃っぽいし、ありとあらゆる物が
傾き、倒れている・・・

1階に寝ている父の様子を見に行こうとするも、
天井が崩れて階段もいろんなものでふさがれている。
なんとか、1階にいくと、
電子レンジが膝に当たったらしいが、
父親も無事で、親子3人で外に出ようと
玄関へ行くが扉が斜めに変形し、
開かないドア←このタイプの扉

叩いても蹴っても開かない・・・
最後の手段で、ラグビーのような
タックルを2回・3回繰り返すと
少しずつ外の方向へ扉が動き、
4回目だったと思うが完全に開き、外へ出た。

外はもう昨日までの姿はなく、別世界だった。

僕の家は長屋のように家がビッシリ
並んでいるところで、20件以上あるうち、
ほとんどが2階建てだったはずの家が
1階ぐらいの高さになっている。
(そう、グシャっと潰れてしまっている)

とにかく、暗いし、寒いし・・・

となり近所の安否を確認するが、
どうしても数名が外へ出てきてない・・・
崩れ落ちそうな家ばかりで近づけず
どうしたらいいのかわからずしばらく
ボロボロの家の前で人が集まる。

明るくなり、小学校に避難できるという
情報があり、近隣の小学校へ避難する。
小学校へ行く途中の風景もすさまじい
光景だった。まともな建物が1つもない・・・
小学校も人であふれ、小さな教室に何十人も入っていた。

時計も携帯もないが、
(携帯電話が一般的に普及してなかった)
冷静になるとお腹が空いてきた。
しかし、食べる物が全くない。

やっと夕方近く?に
食べ物があるので運動場へ
という連絡が入る。

「やっと、何か食える」と
期待を膨らませていくが、
その期待も崩れ落ちる・・・
家族でロールパン1個・・・
「えっ?一人一個じゃなく?」

一個受け取り家族3人で3等分し、
ゆっくり噛みしめた。

「足りない・・・」

その日は寝るしかなく、
教室で雑魚寝した。

あくる日、
空腹も限界だし、貴重品も一部しか
持ってきていないので、家に行ってみる。
余震の恐怖に怯えながら家に入り、
冷蔵庫が倒れているところにいく。
そこらへんに冷蔵庫に入っていた
食べ物が散乱している。
そこからソーセージが見えたので、
ビニールを剥いて頬張った。
「めちゃくちゃおいしかった」

そして貴重品を取ろうと、あったであろうところを探す。
(とにかく家の中がぐっちゃぐちゃ)

貴重品もだいたいは見つかるも
見つからないものもけっこうある。
例えば、
・母親の着物(結構高価)
・僕のへそくり(数万円を本に挟んでいた)
・スーパーファミコンなどゲーム機本体が数種類とそのソフトが数十種類
・貴金属や腕時計

どうやら「火事場ドロボー」というやつらしい。

結局、3カ月間、
次の住処が見つからず小学校で暮らした
(厳密に言うと僕は大学の友達の家に
 
泊めてもらったから両親だけが3カ月小学校に住んでいた)

仮設住宅の抽選が行われるも
高齢世帯
乳幼児がいる世帯
障がい者がいる世帯が
優先される。
あたり前か・・・

話を地震発生2日後ぐらいに戻して、
とにかくお金の意味がない。
お金はあっても食べ物がない。
買う所もない。
そういう心理を知ってか知らずか

他府ナンバーの軽トラックがいろいろな
食べ物を積んできた。
救援物資ではなく売りに・・・
みかんが5つで1000円とか
パン1つ500円などなど
「バカにしている」
みんな怒るのかと思いきや
行列を作っている。

それだけ空腹感が限界だったのだろう。

その後、地震発生から3~4日後には
救援物資も続々届き、
7日後以降には食べ物は余るぐらいになっていた。

トイレは流す水がなく、小便はいいが、
大便は便器をはみ出すように積まれていく。

風呂なんて10日以上入れなかった。

僕の住んでいる地域は
ゴムや靴工場がたくさんあり、
火事もすごい地域だった
待てど暮らせど、消防車なんて
来るわけもなく、友達の家も
燃えていくのを見守るだけだった。
(花火をもっている家があり、燃えている最中、
 ロケット花火の音が
空しく響いた)

幸いに火災は僕の家の1ブロック下で、鎮火した。

友達・近所の知り合いも亡くなりました。

こんな感じでした。
記憶をたどりながら
まとまりもなく、
その時の感情もそのまま
書いてみました。

まだまだ書くことはたくさんありますが

キリがないので、ここらへんにしておきます。

震災直後は絶望の気持ちしか
抱けないです。
頑張れなんて薄っぺらい言葉は
腹が立ちます(人によって違うでしょうが)

だけど、いろいろな人の力で
神戸・淡路も復興しています。
(もちろんいまだに苦しんでいる人もいるかと思います)

東日本も必ず復興します。
阪神大震災にはなかった
津波・放射能の問題がありますから。

関西圏も
東南海地震の可能性があり、
このプレートが異常をきたすと
今回と同じ地震・津波が起こるとされています。

人ごとではなく自分ごとのごとく
考えないといけないですし、
一人ひとりの危機管理がこれからも重要ですね。

とはいっても突然の災害だけは
ホント辛いですね。

「なんてことを」と思われるかもしれませんが、
たくさんのものを地震で失くしました。
しかし、最初に書いているように
眠っていたため、始めの揺れを
体感していません。。。
どうせなら体感しておきたかったです。
(不謹慎かもしれませんが)

最後までお読み下さり、ありがとうございます<(_ _)>