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http://blog.livedoor.jp/ushirodate/archives/53987836.html
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今日はいつものBAR開店の軌跡記事から
少し毛色が変わる内容です
妻から私の恩人について
書いた方がよいと言われたので
個人的なことですが
私がかつて
そして今も
お世話になっているその恩人について書こうと想っています
私には第二の父とも言える恩人がいます
その恩人の名は肥田みちくに氏と言います
子供の頃から
肥田さんと呼んでいました
肥田さんについて私が真っ先に
想いだすのは
はじめて焼肉屋に連れてってもらったり
生まれて初めてロシア料理を教えてくれたり
庭先で大きなお肉を焼いてくれたり
と
たくさんのご馳走をしてくれたこと
ごはんに纏わる記憶ばかりです
今でも肥田さんが
たくさん ご馳走をしてくれたことに
恩義を感じています
そして肥田さんは
動物好きでした
肥田さん自身は賃貸だったので飼えなかったのですが
うちに来ると
楽しそうにうちの猫や母が飼っていた犬の世話をしていました
肥田さんとうちとの付き合いは
私がまだ幼い頃
うちの母が
肥田さんの事業にお金を貸し付けて
その事で関係がより密接になったようです
父が死去した後
父がいた頃と
以前と変わらぬような暮らしぶりができたのは
肥田さんに貸付し
そこから得た利益が返ってくるところが大きいとも言われました
バブル時代
肥田さんの事業は羽振りがよく
金色のベンツなどの車をこよなく大切にしていて
またオシャレ好きな
肥田さんはオーダーを含め
100着以上の服を買っていました
私にはわからなかったのですが
肥田さんは
服にだいぶ気を使っていたようで
私と母が
肥田さんに連れられてグアム旅行の高級ホテルに行った時
私一人が
夏場の暑い時期学生服の詰襟学ランを着ていたことを
場にそぐわないと注意されていました
しかし私はその時
夏場のサイクリングでも
ずっと詰襟で通していた主義だったので
(何故あの時そうしていたのかはわかりませんが)
結局何時間にも及ぶ母と肥田さんの説得にも耳を貸さず
詰襟を脱ぎませんでした
でも何故かそんな私を肥田さんは呆れながらも
「 頑固だねー 」と言いながら
にこやかに笑っていた気がします
大学入学後
私がはじめて
BARをすると言った時
肥田さんは心浮かない顔をしていました
それ以前
私は映画監督を志していて
映画方面に強いと言われてる大学に入学しようとしていました
しかし
その映画関係の大学受験に失敗し
代わりに受かったのが早稲田大学の夜間学部でした
早稲田大学は
肥田さんが20年以上前に卒業した大学で
私は夜間学部
肥田さんは政経学部と言う違いはあったものの
私が同じ大学に入学することを知るや
母校の後輩になることを聞くや
肥田さんは誰よりもその事を一番喜んでいました
そして入学することを聞いた直後
私たちを連れだして
金のベンツで
早稲田大学の周辺を案内してくれました
夜の大隈講堂前に立った肥田さんの姿は
今にも明瞭に想い浮かびます
なつかしいっという感情を全身で発しながら立つ肥田さんの姿は
夜の大隈講堂よりも印象的でした
その後
早稲田周辺の
昔なじみの商店街や
行きつけだったというお蕎麦屋さんの場所を教えてもらいました
それはそれはなつかしそうに
目を細めながら
うれしそうに
早稲田界隈を
「 ここはこうだよ 」という具合で
じゅんぐりと案内してくれたのです
そして
そんな早稲田の夜間大学に通ってる間
私はいつしか
BARを開く流れになりました
それは当時
うちの家族が
別な場所で飲食店を開いていたことも関係していたのですが
さしてBARへの想いいれもなく
いつの間にか
そう言う流れになってしまっていたという状況です
肥田さんは
私がBARをすることを告げると
こういう言葉を言いました
「
そういう業界に入り浸っているうちに
いつの間にか抜けられず 戻れず
落ちていった人を知っている 」
現在の私の現状をかんがみると
その時の肥田さんのことばは
ある面
的を得ているのかもしれません
開店時
私は知人や知り合いなどに声をかけず
フリーの客を相手に営業を開始しました
その地域に
コネも縁も一切ありませんでした
無謀なことに
店に知りあいとかもなるべく呼ばないようにしていました
肥田さんもその事に気を使ってか
なるべくBARには訪れませんでした
当然のことながら
BARを開店してからというもの
連日 本物の閑古鳥状態でした
ただ知人相手に商売をしなかったため
どうしたら特色を出せるのだろうと
思考錯誤してるうちに
独自の営業色
マニアックな酒を置くBARという展開になりました
自分の色は
少しづつそこで出せ始めた気がします
そして
店の開店から数年過ぎたあたりのことでした
仕事が順調だった肥田さんは
大学時代の柔道部の先輩に
事業を譲渡する話を持ちかけられました
肥田さんは
大学の部活のつながり
仲間意識を
社会人になってから
何よりも大事にしていて
自分が仕事上で恩恵をこうむりそうな時は
部活時代の仲間達にもそれを教え
恩恵を分かちあっていました
でも
体育会系の部活は
上意下達
その性質上
肥田さんは後輩の面倒見はよいのですが
先輩にはずっと頭が上がらないような状況で
大人になっても緊張の面持ちで対面してるような状態でした
そんな肥田さんに事業の売却を持ちかけた先輩は
特に肥田さんが怖がっていた先輩だったようです
「
自分の事業を継いでもらうと
見込めるのは
ずっと信頼していた後輩のお前しかいない 」
そのようなことを言われて
肥田さんに
事業を任せると言っていたのです
その事業は
中央官僚のOBや
官僚出身で
後に経済企画庁長官になった経済評論家の方も出資していた街金業で
彼らからその事業の権利を買うためには
肥田さんが提示されたお金は5億円
当然
肥田さんだけでなく
我が家もそのような大金は持ちあわせていませんでした
しかし肥田さんの先輩から
早く譲渡できないのか?とせっつかれて
結局話し合いの結果
我が家を担保に2億円を保証して
その他肥田さんが方々からお金を借り
5億をなんとか工面して事業譲渡という形にあいなりました
ただし
母は肥田さんにお金を貸しつける時
条件を出しました
万が一のことがあるといけないからということで
家を失わないように
保険をかけさせたのです
そして
譲り渡された会社は
経営してから内実を調べて見ると
それは5億と呼べるどころか
実質1億の資産価値もなかったような企業だったそうです
事業を譲り渡した肥田さんの先輩も
出資していた官僚OBや
経済評論家もその事は知っていたようで
人の良い肥田さんひとりがババをつかまされ
騙されてしまったような感じでした
しかも
折り悪く
時流はバブル崩壊のまっただなか
それまで
肥田さんが貸し付けていたあちこちのお得意先が
バブル崩壊のあおりを受けて
連鎖倒産したり 廃業したりと
そうしたこともあって
肥田さんはどんどんストレス状態になっていき
胆石などで入院しました
そんな中でも
肥田さんは顧客にいた
にっちもさっちもまわらなかった多重債務者に
多重債務の処理方法を教えたりしていました
自殺を考えていた多重債務者を見つけると
何とか生きていけるように指導していました
金貸しをするには
心やさしかったのです
90年代半ば以降
私は
肥田さんの事業が失敗しそうなこと
そして
家が差押えになりそうなことを
母たちから薄々知らされはじめました
私はその話にほとんど無頓着だったのですが
というか
自分が儲かれば
そんな借金などもなんとかなると
のん気に想っていたのです
でもその当時
店はそれほど儲かっていたわけではなく
しかも
95年頃から97年頃
私に結婚の意志を見せてきたある女性に騙されていた最中でした
体の関係もなく ただ一回キスしただけの女性に
個人的にかなりの大金を費やして
昼はバイト 夜はBARで稼いだお金の
ほぼすべてつぎこんでしまっている状態でした
2年半ずっとお金だけ援助し続けて
おかしいなとようやく想いだしはじめた状況で
肥田さんともう一人の男の人が
私の相談に乗ってくれて
その女性の事も調べてくれて
その結果 女性の実態が嘘だったこともわかって
ようやくその女性とは別れることができました
でも
その後も肥田さんは
体の具合が悪くなりました
2000年を過ぎた頃は
事業はほぼ廃業状態
顧客からわずかに回収できたお金をもって
うちにそのお金で保険金をかけ続けるように言って
日曜日になると
不自由な体で
うちの庭掃除をしたり
犬の散歩をしたり
母に 地下の片づけをさせられていました
姉は
うちが差押えになりそうな状況を知って
とても肥田さんに辛くあたるようになりました
そして肥田さんはその事でかなり辛い想いをして
周囲に自分は自殺するつもりだと
口にしていました
でも
私はその時も
のん気に
ほとんど肥田さんの窮状にあまり気をとめていなかったのです
まるで他人事のように
なんとかなると感じていました
ところが
2000年
シドニーオリンピックの頃
今度は私の方が病気をしました
ある日突然
倒れ込むような
原因不明の高熱にうなされるようになり
当時住んでいたワンルームマンションを引き払って
実家に戻ったのですが
ようやく
街場の病院に行くと
アレルギー症と診断されて
薬を飲み続けたのですが
薬を飲んでも
毎日40度以上の高熱が出て
呼吸困難に陥って 咳で苦しくて眠れず しまいには咳をすることすら苦しく
痛みでもんどりうつようになり
数十メートル歩くだけでも
まるで数百メートルを全力疾走したかのような症状に陥っていました
母から針の先生などを紹介され
行ったのですが
それでも全然治りませんでした
結局
1か月ほど
その状態で過ごして
なんとなく
自分で他の病院に行った方がいいのではないかと想って
母が旅行でいない隙に
自分で大きな病院に行き
その病気が命にもかかわる危ない状態だと知ったのですが
(詳しく話すと
アレルギーではなく結核性胸膜炎と言う病気で
肺の付近に水が数リットル以上貯まっていたそうです
すぐに大病院で 緊急入院の措置をとられました
ただ当時飼っていた3匹のねこの世話があったので
入院日を3日ほどずらしてもらいましたが)
でもその病気で苦しみはじめた頃
9月ごろ こう想ったのです
人は自殺しちゃいけないんだと
私は9月に高熱を出してからというもの
日曜日ごとに来る肥田さんに
自殺をしてはいけない
ということをとうとうと説きました
うちは差押えになってもいいから
どんなに見苦しくても
田舎に引っ込んでも生きるべきだと
生きてこそなんぼだ
生きて欲しいと
涙を流して
肥田さんを説得してみたのです
肥田さんは自身も体が不具合なのに
病気で苦しむ私を見ながら
かわいそうに かわいそうにと言いながら
でも自殺しないで欲しいという
私の言葉には
けっして同意をしてくれませんでした
肥田さんが
日曜日にくるたびに
何度も何度もそれを言ったのですが
時に肥田さんに対して
「 この頑固者! 」
とまで乱暴な口の利き方をしたのですが
肥田さんは結局
その説得には応じてくれませんでした
私は
母にもこう言いました
「
うちはただ投資に失敗しただけ
自宅を担保にして投資に失敗したのはあくまでもうちの責任
肥田さんの責任ではない
だから
田舎に帰ってもらうように説得して
肥田さんのお母さんに連絡をとって
田舎に帰ってもらうように説得して 」と
それ以降も
事あるごとに説得を試みたのですが
肥田さんは私の目を見ないで
聞き流していました
そんな時です
母のある親族が
肥田さんについて怒ったようにこう言っていたのです
「
本当に自殺する人は あんなに繰り返し自殺のことばをほのめかさない 」
その母の親族は
肥田さんにちょっと怒ってる様子でした
でも
私はその言葉を聞いて
ほんの少し安堵しました
もしそれが本当なら
肥田さんは自殺をしないかもしれない
そして
母には保険金をこれ以上かけても無駄だから
どうせ差し押さえられるなら
保険金が無駄だからすぐに支払うのを止めて
金融機関に差押えしてもらうような手続きをするように言いました
しかし母はそれをしませんでした
肥田さんはずっと保険金をかけ続けるように言い続けたのもあるのでしょうが
それをしませんでした
そんな中
私はのん気に
いつ引っ越してもいいように
荷物整理をしはじめました
それまでずっと貯めていた
映画のパンフレットや漫画の雑誌類の書庫を
少しづつ整理しはじめていました
後になってその長年貯めていた映画のパンフレットや
漫画雑誌は
業者が10000円と言う捨て値ですべて買っていきました
そして
元気になるにつれて
長らくとってなかった車の免許を取得し
とったばかりの免許で
日曜日に来た肥田さんを送るようになりましたが
その時
肥田さんに
運転の仕方で注意されました
具体的には
車が一時停止してる時
ギアはニュートラルに入れないほうがいいと言われて
うるさいなー
と
その時
ちょっと不機嫌になってしまいました
せっかく送ってるのに
何でこんな事を一々言われなきゃいけないんだろう
その時
私は そう想い
その日は
少し肥田さんをあしらうように
やや冷たく見送りました
早く田舎に帰ればいいのにな
そう想ってもいました
でも
それが歩いてる肥田さんを見た最後でした
それから数日後
深夜 店で寝ていた時
母から一本の電話が入りました
肥田さんが首つり自殺をしたとのことでした
そのことを聞いた瞬間
心にこんな声が聞こえました
「
ああ もうこれで家はなくならなくていいんだ 」
冷静にその声が聞こえました
もしかすると
それは
私の発した想いと言うより
母の想いなのかもしれません
ただ
寝起きでぼ―――っとしてた時
肥田さんの死を聞いた時
その想いがじんわり伝わってきたのです
翌日肥田さんの体を見た時
涙があふれて止まりませんでした
結局
自分は無力だった
何もすることはできなかった
変えることができなかった
その無力さに
涙していた気がします
肥田さんは3月30日生まれでした
死んだ部屋のルームナンバーは303号室でした
肥田さんの部屋には
いくつか遺書が残されていて
私向けの遺書には
「 母の言葉をよく聞くように 」とのことばが
書いてありました
肥田さんの保険金は
遺言通り
肥田さんにお金を貸していた友人や
差押えをしていた金融機関等に支払われました
その中には大学時代からの部活の旧友もいたのですが
何故かお金が戻ってきたことの方を
うれしく感じていた表情のようでした
生前
肥田さんにやや怒っていた
母の親族は肥田さんの死後
こう言っていました
「 俺は肥田さんは自殺すると想って無かった!
でも自殺した
男だねー 男気があるねー!
男の気概を感じるよ 」
うれしそうに感動しながらそう言っているのです
なぜこの人はそんなことをうれしそうに言うんだろう?
その時は不思議に想いました
ちなみに
その母の親族は
朝鮮の血が半分混ざった人で
肥田さんの事業破綻後
ある会社を軌道に乗せ
今は 全国展開の企業の社長をしているそうです
こんなショックなことも
後で聞かされました
それは
死後しばらくして聞かされたのですが
肥田さんは実は体が弱った時
周囲の人達
かつて親友だと想ってた者達が
あまりに自殺をすすめるので
こんな人間達の為に死ぬのを
あまりに馬鹿らしくて
逃げちゃおうかなと一時 想っていた事もあったそうです
でも
私が病気をした時に
自殺をするなと言い続けたことで
ようやく自殺する決意がついたとのことです
私がいらぬ一言を言ったから
肥田さんを死に追いやってしまったのではないのか?
その責の念があります
あの時
肥田さんの心がその状態であることを知っていたら
私は無頓着のまま 過ごしていたかもしれません