とにかく時間がないので 仕事の合間に書いておこう…と思います。
3回目の渡仏は初渡仏からすでに10年以上もの月日が経っていました。1990年代半ばの春のことです。
仕事のため先に発った夫は 2人の子どもが日本人学校へ通学しやすい場所の
アパートを探しパリの西部のほうに住むことになりました。古いけれど家具付きの広くてバス付きのアパートでした。パリではシャワー付きは当たり前でもバス付きはなかなか見つけにくい物件でした。今は違うと思いますが…私はここで初めて食器洗い機を使いました。日本では今ほど普及していない頃のことです。洗濯機も乾燥機付きの大きな物で きっと一度に大量のお洗濯をするのだろうと想像しつつ快適な生活が始まりました。

上の子はスクールバスで郊外の日本人学校へ、下の子は私がメトロを使い日本人が経営している幼稚園へ送り迎え、そして夫は国立図書館か大学へ通う日々でした。
十数年前の渡仏生活とは違い 幼稚園でも中学校でも日本人とのお付き合いが多く、子ども達の家を親たちが同伴で行ったり来たり日本人社会をそのまま箱に入れてパリの中に置いてみたような生活でした。違ったことと言えば日本人なのに日本生活が短かい商社や銀行や新聞社の家族の方が多かったため日本人的生活を意識的にしていたような空気感をあげたいと思います。
特に高校からは日本で教育を受けさせたい母親が河合塾パリ校などに通わせ日本の有名私立高などを目指していたのが印象的でした。幸いに上の子は日本で中高一貫校に通学していたためその心配はせずに済みましたが…

この一年間の私の仕事は 下の子の通園した幼稚園が日本人経営の日本人のためのものだったため送り迎えのみならず母親が協力せねばならないことが沢山あり 自分の時間はほとんどなかったように思います。上の子とは違い初めてのパリを楽しませてあげたくて 幼稚園のない日には公園内にあるマリオネット劇場に連れて行ったりメリーゴーランドに乗ってみたり…思えば私自身も楽しい時間を過ごせたのだから これはこれで良かったのかも知れません。

アパートの下にはパン屋さんがあって毎朝 焼きたてのバゲットを食べられた幸せ… エッフェル塔が近かったため7月14日には花火が見えたサプライズ…家主さんが年老いた女性で 毎月家賃を支払いに行くと自分の亡くなった夫の話や以前住んでいた人の話を聞かせてくれて…お別れの日には大切にされていたネックレスとイヤリングを手の中に持たせてくれた…

これが3回目の渡仏記です。
4回目からは子ども達も成長し大人だけの渡仏になります。

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