「うっりゃつ!」
気合一発。
かくてのツバサの拳は、ゾンビの顔面を叩き伏す。
学校帰り何時もの角を回った先で、途端にZONEに入った。
巧妙なのか、なんなのかー
最近はゾワゾワとした感じで迫って来る方法と、いきなり入りこませるような方法と、2種類の方法で敵の陣が用意されている。
今日は、後者だった。
角を曲がって、変な圧を感じて、前を見るとー
人間ミサイルを発射する寸前と思われる、腐った女がいた。
相変わらずゾンビの腐臭には慣れないが、呆然として、その上に自失でもしていればー
どういう事になるか?
というのは予測も実地も、何もかも慣れている。
小さい時、ミット打ちの稽古をグズっていた時。
相手は、潤だった。
普段、温和でー
柔和な顔でいる潤に、甘えていたのかもしれない。
何となく、翔に対する様な年の近さから来る緊張感から解放される感じが、ツバサが潤に感じている「居心地の良さ」であった。
とにかく、この日はー
その居心地の良さが裏目に出て、かなり悪いコンディションで稽古に臨んでいた。
お手伝いさんの「なだめすかし」で、仕方なく道場で、ミットを下腿部にぶら下げて立っている感じである。
目も死んでいるしー
顔も不細工に歪んでいる。
何時も「にゃんこビーム」同様に、世界にツバサが放射している「美少女波」の検出も停止していた。
「ほら、頑張って下さい。」
お手伝いさんの人が、少し励ます。
すると、ツバサは口を尖らせたまま、ゴニョゴニョと口を動かして「押忍」と言ったもののー
中身なし。
であった。
ローキックのトレ。
ミット越しに相手の蹴りに当たる事で、打たれ強さも錬成する。
この時、さっきまで努めて柔和な顔でツバサに臨んでいた潤の顔が、鬼神の如くの表情を一瞬見せた。
それを、傍らで別のお手伝いさんとミット打ちをしていた翔が認めて、顔を引き攣らせた。
それがボンヤリとツバサの視界に入る。
その頃には、潤の顔が元の柔和な顔に戻っていたがー
それに遅れて「ハッシ」とばかりの、何時も潤がツバサとミット打ちをする時の様な、手加減のある音ではない音が道場に響いた。
かなり強烈な一撃。
グズって踏ん張りをなくしていたツバサは、足元を掬われる形となった。
今まで真っ直ぐだった世界が、急に痛みというか、衝撃とともに、斜めになってゆく。
傾斜30度!
と思った時には50度を超えていた。
ばちーん。
と畳にツバサの柔らかい身体が打ちつけられる音がして、傾斜90度。
船なら横転、航行不能。
ツバサは受身はおろか、手を着くことはさえずに地面と平行になって、顔をぶつけた。
痛い!
身体もだが「優しい=ぬるい」と思っていた潤からの、想定外の一撃はー
かなり痛かった。
「ぶぅうううへーんん!」
ツバサは大声を挙げて泣いてしまった。
道場で泣いてはならないという中島家局中法度はないが「押忍の精神」を培う場所である。
であれば、この涙はどうなのか。
しかしー
こればかりは、翔が偶になる空腹による行動不能と同じで、生理現象というかー
三鎮同様に、意密、口密、身密の「三密一致」で発生する「こころ」の形である。
当然、空念仏同様のウソ泣きというのあるが。
どうにもならない思いが爆発する時に、子供は、時には大人だって泣くのである。
そうなるかもなと思っていた、道場の大人達。
しかしー
そうなってしまえば、騒然となるものをー
それを、我慢してはー
取り敢えず、潤の言い分が出るのを待っていた。
慌てて止めに入れば稽古の範疇を越えた、暴力を振るった、振るってないの応酬で終わる。
知恵も、事態を目の前にして待つ勇気も必要な局面である。
蹴り飛ばした潤はー
ぐっとツバサを見下す。
「弱いとそうなるんだよ。弱いと一方的にやられて、文句も言えないで、地面に倒れて泣くしかなくなるんだよ。」
地面に倒れ込んで泣いていたツバサが、顔を涙と鼻水でグジャグジャにしながら身体を起こして、潤を仰ぐ。
手に持ったままだったキックミットを、道場あらぬ方向に投げつけてから怒鳴った。
「何で、私、私達、こんな事毎日しなきゃなんないの。」
道場全体が、顔を曇らせた。
するとー
潤は、一度目を閉じてからツバサの側に座る。
「私達、弱いからだよ。強くないと生きていけないの。」
それから泣きじゃくるツバサを、そっと抱き寄せて。
普段通りの声で言う。
「死にたくない。嫌だからそれ。だからー強くなろ。ね。」