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Wanted: Dead or Alive


【リチャード・ドナー】
Richard Donner
アメリカの映画監督であり、映画プロダクションであるThe Donners' Company社の映画プロデューサー。


本名 :Richard Donald Schwartzberg

生年月日 :1930年4月24日 

没年月日 :2021年7月5日(91歳没)

出生地 :アメリカ合衆国 ニューヨーク州ニューヨーク市ブロンクス区
職業 :映画監督、映画プロデューサー
配偶者 :ローレン・シュラー・ドナー



《略歴》
ニューヨーク市・ブロンクスに生まれ、ニューヨーク大学で演劇を学んだ。当初は俳優としてスタートしたが、やがてテレビドラマの演出アシスタントになり、1961年に映画監督としてデビュー。

1997年、テレビシリーズ『スクリーム』でジェラルメ国際ファンタスティカ映画祭グランプリを受賞。

『リーサル・ウェポン』シリーズでマーフィー部長を演じた俳優スティーヴ・ケイハンはいとこ。
78年の『スーパーマン』で相棒をルーサーに殺されるアーマス刑事役で映画初出演して以後『タイムライン』、『16ブロック』までドナー監督作では高頻度で起用されている。

また、かつてリチャード・ドナーの元でアシスタントを務めていたコミック・ライターのジェフ・ジョーンズと共同脚本で2006年に『スーパーマン: ラスト・サン』(小学館集英社プロダクション刊)、2018年にはスーパーマン生誕80周年を記念したコミックの一作『ある車』(ヴィレッジブックス刊『アクションコミックス #1000』収録)に参加している。



2021年7月5日に死去したことが、妻であり、ビジネス・パートナーでもあるローレン・シュラー・ドナーによって公表された。91歳没。アテローム性動脈硬化に伴う心肺機能不全が原因であった


《主な監督作品》

拳銃無宿 Wanted: Dead or Alive (1960-61年) 






トワイライト・ゾーン The Twilight Zone (1964年)

おませなツインキー Twinky (1969年)

オーメン The Omen (1976年) 




スーパーマン Superman (1978年)

おもちゃがくれた愛 The Toy (1982年)

サンフランシスコ物語 Inside Moves (1982年)

レディホーク Ladyhawke (1985年)

グーニーズ The Goonies (1985年)

リーサル・ウェポン Lethal Weapon (1987年) 

 



3人のゴースト Scrooged (1988年)

ハリウッド・ナイトメア Tales from the Crypt (1989年)

リーサル・ウェポン2 Lethal Weapon 2 (1989年)

ラジオ・フライヤー Radio Flyer (1992年)

リーサル・ウェポン3 Lethal Weapon 3 (1992年)

マーヴェリック Maverick (1994年)

暗殺者 Assassins (1995年) 




陰謀のセオリー Conspiracy Theory (1997年)

リーサル・ウェポン4 Lethal Weapon 4 (1998年)

タイムライン Timeline (2003年)

16ブロック 16 Blocks (2006年)




スーパーマンII リチャード・ドナーCUT版・Superman II: The Richard Donner Cut(2006年)


プロデュース作品

オーメン/最後の闘争 The Final Conflict (1981年) 




ロストボーイ The Lost Boys (1987年)

Delirious (1991年)

フリー・ウィリー Free Willy (1993年)

デーモン・ナイト Tales from the Crypt Presents: Demon Knight (1995年)

フリー・ウィリー2 Free Willy 2: The Adventure Home (1995年)

ボーデロ・オブ・ブラッド/血まみれの売春宿・Tales from the Crypt Presents: Bordello of Blood (1996年)

フリー・ウィリー3 Free Willy 3: The Rescue (1997年)

Double Tap (1997年)

Made Men (1999年)

エニイ・ギブン・サンデー Any Given Sunday (1999年)

X-メン X-Men (2000年)

Matthew Blackheart: Monster Smasher (2002年)

ウルヴァリン: X-MEN ZERO X-Men Origins: Wolverine (2009年) 




X-MEN: フューチャー&パスト X-Men: Days of Future Past (2014年)


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Operation Eagle Claw - 失敗した救出作戦 -


【イーグルクロー作戦】
Operation Eagle Claw
1979年に発生したイランアメリカ大使館人質事件で人質となった大使館員及びその家族ら53名を救出する目的で1980年4月24日から4月25日に行なわれた「テヘラン駐アメリカ大使館人質救出作戦」の通称である。

アメリカ軍四軍を総動員させて臨み、デルタフォースを初めて投入した有名な作戦であるが、ヘリコプターのトラブルにより失敗している。

1979年、イランにおいてルーホッラー・ホメイニーを指導者とするイスラム教十二イマーム派(シーア派)の法学者を支柱とする反体制勢力が、親米であったパフラヴィー朝に代わって政権を奪取した。11月4日にはモハンマド・レザー・パフラヴィー前国王が癌を理由に渡米した事に激怒した革命軍の学生メンバーがテヘランにあるアメリカ大使館を襲撃し占拠する事件が発生、大使館員とその家族ら53人が人質となる事態となった。

当初は小規模の救出作戦を計画していたが、アメリカ合衆国大統領であったジミー・カーターは陸軍・海軍・空軍・海兵隊のアメリカ軍4軍を総動員させる「イーグルクロー作戦」を立案、翌年4月14日に作戦開始が指令された(この総動員が失敗の原因であるという見方も存在する)。

ライスボール作戦
4月24日には、アメリカ海軍の掃海ヘリである8機のRH-53D シースタリオンとアメリカ空軍の輸送機である6機のC-130 (EC-130/MC-130が3機ずつ)、2機のC-141を用い、人質を救出するライスボール作戦が決行された。
この作戦は、以下のような内容で遂行される予定であった。
オマーンのマシーラ島でデルタフォースを分乗させ離陸したC-130と、ペルシャ湾に展開している空母ニミッツから発艦したRH-53Dがタバス近郊に設定された着陸地点・通称「デザート・ワン」で合流。RH-53Dへ燃料を補給すると同時にデルタフォースを移乗させる。
RH-53Dは、テヘラン近郊の着陸地点・通称「デザート・ツー」でデルタフォースを展開。機体を隠蔽した後、占拠された大使館を急襲、人質を救出する。この時、空軍のAC-130と空母ニミッツ及びコーラル・シーから発艦した艦載機が航空支援を実施。
救出した人質とデルタフォースを郊外のサッカー場でRH-53Dに乗せ、仮設滑走路が設置されていたマンザリヤ空軍基地(Manzariyeh Air Base)・通称「デザート・スリー」へ向かい、そこでC-141に移乗してイラン国外へ脱出しマシーラ島へ帰還する。

デルタフォースの隊員を搭乗させたC-130は4月24日18時にマシーラ島を離陸、22時にデザート・ワンへ到着しRH-53Dの到着を待った。15分後、展開していた道路監視チームがデザート・ワン近郊を走っていた1台の民間バスを発見し、停車させて乗客を一時的に拘束した。さらに同じ路上で燃料輸送トラックに遭遇し、停車させようとしたが運転手が無視したため対戦車ミサイルで破壊した。この運転手は後続車両に乗って逃走した。
一方、RH-53Dは19時30分にニミッツから発艦していたが、飛行中ハブーブに巻き込まれ、5番機が冷却システムの故障でニミッツへ引き返し、6番機がメインローターの故障で緊急着陸、搭乗員を8番機へ移乗させた後放棄されていた。デザート・ワンへ到着したのは予定より1時間遅れの翌日0時30分頃であった。さらに到着したRH-53Dのうち2番機が油圧トラブルで飛行できなくなり、作戦に必要な最低機数を割ってしまったためやむなく作戦を中止せざるを得なくなってしまった。
撤収準備に掛かっていた2時40分頃、低空でホバリングしながら移動中だったRH-53D 3番機が強風に煽られ近くに駐機していたEC-130に激突し炎上、8名の死者と4名の負傷者を出すという最悪の幕引きで作戦は終了した。
これによって大部分が損壊したRH-53Dは全機放棄され、搭乗員とデルタフォースは残ったC-130に分乗して撤退した。

ここで問題となったのが、この作戦失敗の原因となったRH-53Dである。当初は全天候型であるHH-53を使用する筈であったが、空母への収容能力等で海軍が難色を示したため(機体格納用の折り畳み機能等を有していないため)、RH-53Dが使用された。ただしこのRH-53Dは掃海機であるため砂漠地帯での飛行には向いておらず、結果として途中でニミッツへ引き返した1機を残して全機損失または放棄することになってしまった。
さらに搭乗員は撤収する際、命令に反して機体を徹底的に破壊しなかったため、放棄された6機はイラン海軍に接収され(イラン海軍もRH-53Dを使用しており、部品取りに使ったと見られる)、同時に暗号書やイラン国内のアメリカ諜報組織の詳細を含む大量の機密情報がイラン側に流出してしまった。

《第二の救出作戦》
このイーグルクロー作戦の失敗を受けて計画されたクレディブル・スポーツ作戦は、離陸用・逆噴射用といった多数のロケットエンジンを装着してJATOでの離着陸を可能としたYMC-130Hを使用してサッカースタジアムに着陸してデルタフォースを展開、人質を救出すると言うものであった。この作戦は、テスト着陸中に事故が発生したため中止された。
そしてこの作戦の裏では、当作戦の調査委員会により航空戦力の欠如が指摘された為、特殊作戦航空能力開発のための特別作戦である「ハニー・バジャー(ミツアナグマ)作戦(Operation Honey Badger)」が開始される事となった。この計画では、第101空挺師団の3個飛行大隊を中心に当時新鋭機だったUH-60 ブラックホークなどを用いて、特殊作戦用ヘリコプターの開発及びイラン大使館の人質の再奪還を目標としていたが、後述の通り解放された為、出動せずに終わった。

この作戦の失敗は大きかった。作戦が発覚したことでイラン側が激怒して態度を更に硬化させただけでなく、作戦から5日後の4月30日にイギリスで発生した駐英イラン大使館占拠事件が特殊部隊SASによる6日間の攻防の末に解決するなどしたことでアメリカの面子は失われた。民主党のカーターの支持率は下落し、共和党のロナルド・レーガンに大統領の座を譲った。
その後、アメリカ軍はこれを教訓として、アメリカ特殊作戦軍設立・育成を筆頭として、陸軍はハニー・バジャー作戦から発展した通称「ナイトストーカーズ」と呼ばれる第160特殊作戦航空連隊を、海軍はNavy SEALsから分割させたSEAL TEAM6(現DEVGRU)を設立している。
引き渡しを要求していたモハンマド・レザー・パフラヴィー当人が死去したことにより占拠の理由が薄れ、対イランの資金凍結も解除した事から駐イランアメリカ大使館占拠事件で人質となった大使館員とその家族は、占拠から444日後の1981年1月20日に解放された(この日はカーターがレーガンにホワイトハウスを譲る日だった)。

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Iran hostage crisis - 奪われた大使館 -


1980年
アメリカがテヘラン駐アメリカ大使館人質救出の為『イーグルクロー作戦』を行う。

【イーグルクロー作戦】
イーグルクロー作戦(Operation Eagle Claw)は、1979年11月4日にテヘランにあるイランアメリカ大使館人質事件で人質となとた大使館員及びその家族ら53人を救出する目的で1980年4月24日から4月25日に行われた「テヘラン駐アメリカ大使館人質救出作戦」の通称である。

【イランアメリカ大使館人質事件】
Iran hostage crisis

1979年11月にイランで発生した、アメリカ大使館に対する占拠及び人質事件である。
革命前のイランは、パフラヴィー朝の皇帝モハンマド・レザー・パフラヴィーが、アメリカをはじめとする欧米諸国からの支援を元に開発独裁と親欧米化路線を進め、並びに西洋化改革の一環として、女性解放をかかげてヒジャブの着用を禁止するなどイランの世俗化を進めた。しかしこれらの政策はルーホッラー・ホメイニーらイスラム法学者の反発を招いた。これに対してパフラヴィー皇帝はイスラム原理主義者をはじめとする急進派を中心にした反体制派を弾圧、投獄するに至った。このため、反体制派はフランスのパリに亡命を余儀なくされていた。
しかし、1970年代中盤に起きたオイルショック後の急速な原油価格の安定化などを受けてイラン経済が不調に陥ったことや、国内の貧富の差が広まったことなどを受けて皇帝に対する国民の不満が高まったことなどを追い風に、次第に国民からの支持を受けることとなった。
なお、アメリカを後ろ盾とするパフラヴィー皇帝の西洋化と開発独裁体制に対する反体制運動は、ホメイニーをはじめとするイスラム主義者のみならず、モジャーヘディーネ・ハルグやソビエトなどが支援したイラン共産党(トゥーデ党)などの左翼なども参加して激化し、国内ではデモやストライキが頻発した。
さらにホメイニーを指導者とするイスラム教十二イマーム派(シーア派)のイスラム法学者が支柱となった反体制勢力が国内外から帝政打倒を目的とした活動を行い、1979年1月にイラン革命が発生した。その結果、1月16日に「休暇のためにイランを一時的に去る」と称して、パフラヴィー皇帝が政府専用機のボーイング727を自ら操縦し、皇后や側近とともにエジプトに亡命した。
その後、2月1日にホメイニーとその一派はエールフランスの特別機で亡命先のパリからテヘランに戻り、ただちにイスラム革命評議会を組織した。2月11日に評議会はパフラヴィー皇帝時代の政府から強制的に権力を奪取し、イランにおける唯一の公式政府となり、ここに革命は成功した。

パフラヴィー元皇帝とその家族、側近らは一旦はエジプトのカイロに亡命した後、モロッコ、バハマ、メキシコを転々とした。その後、パフラヴィー元皇帝は「癌の治療」のためという名目でアメリカへの入国(事実上の亡命)を求め、アメリカ政府に接触した。
アメリカのジミー・カーター大統領は、この要請を受けることでイランの新政権との間で軋轢が起きることを憂慮し、この要請を退けようとしたが、パフラヴィー元皇帝の友人だったヘンリー・キッシンジャー元国務長官らの働きかけを受け、最終的に「人道的見地」からその入国を認め、元皇帝とその一行は10月22日にニューヨークに到着し、アメリカに入国した。

《アメリカ大使館占拠》
ホメイニーらが敵視するアメリカが、同じく敵視する元皇帝を受け入れたことにイスラム法学校の学生らが反発し、テヘランにあるアメリカ大使館を囲んだ抗議デモ行った。これに対して新政権は何も対処せず黙認した。
その後デモ参加者は増え続け、11月4日に学生たちの一部が大使館の塀を乗り越えて大使館の敷地および建物内に侵入したものの、新政権および警察はこれに対して静止活動などは一切行わなかった。
また、大使館の警備にあたっていたアメリカ海兵隊員もこれに対して静止、発砲することはできなかったため、学生たちは間もなく大使館を占拠し、アメリカ人外交官や海兵隊員とその家族の計52人を人質に、元皇帝のイラン政府への身柄引き渡しを要求した。
実際にはこの学生らによる行動は、シーア派の原理主義者が実権を握ったイラン政府が裏でコントロールしていた。なお、人質になった外交官とその家族らは大使館の敷地内に軟禁状態に置かれ、行動の自由を奪われただけでなく、占拠当初は興奮した学生らから暴力を受けるなどした。

当然これらの行為は外交関係に関するウィーン条約による、「接受国(大使館所在当該国)は、私人による公館への侵入・破壊及び公館の安寧・威厳の侵害を防止するために、適当なすべての措置をとる特別の義務を負う(同22条2)」という規定に違反していたため、これを放置するのみならず支援していたイラン政府は諸外国からの大きな非難を浴びた。

この占拠事件発生の際、6名のアメリカ人外交官達が大使館からテヘラン市街に脱出し、カナダ大使公邸や出入国管理局高官の公邸やスウェーデン領事のアパートに分散して匿われた。この6名に対しカナダ政府はカナダのパスポートを発給、更にカナダ政府とアメリカ政府の緊密な協力のもと、依頼を受けたCIAが彼らを「アルゴ」という架空の映画のカナダ人の映画撮影スタッフに変装させて脱出させる作戦を実行に移した(カナダの策謀)。

1980年1月27日、6名のアメリカ人外交官たちはイラン政府の目を掻い潜ってテヘランのメヘラーバード空港にてスイス・チューリヒ行きの航空機に搭乗し、脱出に成功した。

《人質救出作戦の失敗》
アメリカ政府はイラン政府を懐柔するために、パフラヴィー元皇帝を12月5日にアメリカから出国させてパナマへ送ることで事態の打開を図った。しかし、ホメイニー率いる保守派が実権を握るイラン政府は大使館の占拠を解くどころか、それを支援するなどアメリカに対して強硬な態度を取り続けた。
これに対してカーター大統領は、1980年4月24日から4月25日にかけて人質を救出しようと、ペルシャ湾に展開した空母と艦載機による「イーグルクロー作戦」を発令し、軍事力による人質の奪還を試みた。
しかし、作戦開始後に作戦に使用していたヘリコプター、シコルスキー・エアクラフトRH-53D シースタリオンが故障した上に、ロッキードC-130輸送機とヘリコプターが接触し、砂漠上で炎上するという事故が起き作戦は失敗した。これによってイラン政府はさらに態度を硬化し、事態は長期化する傾向を見せた。

アメリカ政府は軍事力による人質の解放を諦め、サウジアラビアやヨルダンなどのイスラム諸国などによるイラン政府の説得を試みるが事態は膠着したままであった。
ところが、1980年7月27日にパフラヴィー元皇帝が亡命先のエジプトのカイロで、アンワル・アッ=サーダート大統領の保護下で死去したことで、学生らによる大使館の占拠の理由が薄れ始め、アメリカ政府とイラン政府は水面下で交渉を続けた。
その後アメリカで行われた大統領選挙で、再選を狙ったカーターが共和党のロナルド・レーガンに敗北した。その後、イランは仲介国と人質の返還でアメリカと合意し、レーガンが就任し、カーターが退任する1981年1月20日に人質は444日ぶりに解放され、アメリカ政府が用意した特別機でテヘランを後にした。


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