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urban legend



urban legend
===猫にまつわる都市伝説==

都市伝説は、近代や現代に噂話のように広がったもので、出どころが曖昧であったり不明であったりするものです。

都市伝説にも、猫にまつわるものがあり、その国ならではの考え方が深く関係していたり、地域によって全く内容がちがうこともあるようです。真偽のほどは分からないものもあります。

☆都市伝説
【猫は死が近いことを悟ると姿を消してしまう】
猫は自分の死期を悟ると、人の見えないところに隠れて死んでしまうという都市伝説です。

江戸時代中期、大和本草という江戸時代の生物、農学書の項目に書かれていることが始まりと言われます。また、猫が出てくる民話としても、最後に死んだかどうかは定かではありませんが、いなくなった、ということでお話が終わりになるものが多くあります。

《真偽のほどは?》
現実的に猫が死んでしまう場合を考えます。猫は体調不良や病気になると、具合が悪いために敵から襲われないように隠れたり、静かな場所でじっとしていたりします。そのうちに死んでしまうものもいて、「いなくなって死んでしまった」が「死が近いのでいなくなった」という事態が発生したことになります。

具合が悪くなった時、人間や他の動物のいない静かな場所に行くのは動物の本能と言えます。死期を悟ったから人間の見えない場所にいく、というわけではないと考えられます。


☆都市伝説
【黒猫を見ると不幸になる】
黒猫を見かけただけで不幸になる、目の前を横切ると不幸になる、などの都市伝説です。

中世ヨーロッパで魔女狩りが行われていた時代、「黒猫は魔女の使いが変身したものである」という考えから、不幸の象徴とされたことが理由と考えられます。

さらに、暗闇で猫を見かけると、目が光を反射して闇に浮かんだように見えます。黒猫は体が闇に溶け込み、余計に目だけが浮いているように見えることから、より不吉なもの、怖いものと感じる人が多かったのでしょう。


【日本での都市伝説】
古くからの日本でも、猫のことを、不幸になると言わないまでも、不思議な力を持っている生き物であると考えられていたようです。

これは、撫でると静電気が起きて光ったり埃が吸い付いたりすることと、黒猫の場合よくその光が見えた、ということが原因だと考えられます。
ただ、西洋ほど不吉に思うことは無かったようです。

例えば、宇多天皇御記という話の中に、前の天皇からいただいた黒猫を大事に飼っていたという話が記されていることからも、黒猫が特別悪く扱われていたということはないようです。また、江戸時代では、黒猫を抱いていると、肺結核や恋の病などに効くと信じられており、川柳でも歌われていたという話もあります。

1970年代以降、ヨーロッパからの情報が日本によく入ってくるようになり、黒猫は不吉という俗説が都市伝説として聞かれるようになったと考えられます。

11月17日はイタリア「黒猫の日」。「黒猫=不吉」の悪習慣から黒猫を守ろう!


☆都市伝説
【猫が顔を洗うと雨が降る】
猫が顔を洗っていると、近いうちに雨が降る、という天気予報のような都市伝説です。
この都市伝説については、明治時代ごろから俗説として伝えられていたようですが、出どころはよくわかっていないようです。

《真偽のほどは?》
実際に猫が顔を洗うと雨が降るのかどうかということの真偽については、信憑性はあまりないと言えるのではないでしょうか?
猫はグルーミングを頻繁にしていますので、顔を洗うことも多いでしょう。晴れていても、雨が降っていても、グルーミングで顔を洗うことはあると言えます。
そこで、湿度や水滴と、顔の毛との関係で、雨が降ることと顔を洗うという行為が結びつけられたのではないかと考えられます。
雨が降り出しそうな天気になり湿度が高くなって来ると、ヒゲに違和感を感じたり、湿気で重さを感じたりするのでより念入りに顔を洗うことに繋がるのかも知れません。


☆都市伝説
【猫は水入りペットボトルを嫌う】
玄関や室外機の近く、花壇、庭の畑、電柱の周り、塀の上などに、水入りのペットボトルが置かれている光景を目にしたことがある方が多いのではないでしょうか。
「猫は水入りのペットボトルを嫌う」という都市伝説を信じる人たちが、猫よけのために置いたものと考えられます。
元は、1980年代にアメリカで一般の人から雑誌に投稿された「犬は水入りのビンを恐れる」という話のようです。
その後、この都市伝説がヨーロッパに伝わり、なぜか犬から猫に変わって、さらに日本にも伝わってきたものと考えられます。

《真偽のほどは?》
この説は、信用している人も多いことから、テレビの情報番組や特集などでも検証されました。実験の結果、ペットボトルの水を怖がるということはなく、この都市伝説は真実ではないという答えが出ています。
ただ、効果はないと検証された後でも、効果があると信じてペットボトルを置いている方々がいるのも真実です。水の反射を嫌う、静電気を嫌うなど、効果があるとされる根拠がいくつもあげられています。
この都市伝説で、猫が傷つけられることはありませんが、太陽の光を集めることで、火事につながるおそれがあることが指摘されています。水も腐敗しますし、美観を損ねる一面もあります。


☆都市伝説
【猫が歳をとると猫又になる】
猫が歳をとると、猫又と言われる妖怪(のようなもの)になるという都市伝説です。
猫又になると、「体が大きくなりしっぽが二つに分かれる」「人間の言葉がわかるようになる」「二本足で立って踊る」「人を襲う」などと言われています。

平安の時代から、鎌倉、室町とずっと猫又と思われる存在が、伝承や書物などにみて取れます。
江戸後期の画図百鬼夜行という浮世絵や絵画では、猫又をモチーフとされたものがあります。特徴的なものは、手ぬぐいをかぶって二本足で立ち、踊りを踊るというものです。
また、「耳嚢」という随筆の中でも「十年ほど生きた猫であればみな人間の言葉が話せる」と寺の和尚さんに猫が語った、という話があります。
平安から江戸時代の長い期間をかけて、その存在は人々の中に噂や伝説として定着し、完成したものと考えられます。

現代の猫は、江戸時代よりもはるかに長生きをしていると考えられます。果たして、皆さんの飼っている中で、猫又になったものがいるでしょうか?


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駅長と呼ばれた猫


【たま (猫の駅長)】
たま(1999年〈平成11年〉4月29日 - 2015年〈平成27年〉6月22日)は、和歌山県紀の川市の和歌山電鐵貴志川線貴志駅において駅長を務めた雌の三毛猫。同駅名誉永久駅長。 



別名:愛称 初代たま駅長
生物:猫
生誕:1999年(平成11年)4月29日・日本 和歌山県那賀郡貴志川町(現・紀の川市)
死没:2015年(平成27年)6月22日・日本 和歌山県岩出市
国籍:日本
職業:貴志川線総駅長、和歌山電鐵社長代理、客招き
所属:和歌山電鐵
著名な要素:正式任命された初の猫駅長。
肩書き:スーパー駅長→ウルトラ駅長
和歌山電鐵社長代理
和歌山県勲功爵
和歌山県観光招き大明神 ほか
飼い主:貴志駅の売店「小山商店」
親:永久助役ミーコ(母)
体重:約4,800g(4.8kg)
外見:三毛
名の由来:猫らしい名前をというところから。




2007年1月5日に和歌山電鐵から正式に駅長に任命されたことで話題を呼んだ。その主な業務は「客招き」であり、貴志駅の集客のみならず、日本に平成の猫ブーム「ネコノミクス」を招聘したとされる。任期はなく終身雇用であり、報酬は年俸としてのキャットフード1年分であった。
乗客数の増加・観光へのアピールへの功績から、同社からは「スーパー駅長」(後に「ウルトラ駅長」に昇進)・「和歌山電鐵社長代理」の肩書きを、和歌山県からは「和歌山県勲功爵(わかやま で ナイト)」「和歌山県観光招き大明神」などの称号を与えられている。たまの登場が火付け役となり、空前の猫ブームが招来。「ネコノミクス」なる新造語も生まれた。



たまは同駅の売店である小山商店の飼い猫である。同居する雌猫のちび(2000年〈平成12年〉5月12日 - )と、たまの母親であるミーコ(1998年〈平成10年〉10月3日 - 2009年〈平成21年〉7月20日)も助役に就任した。このうちミーコは死んだ後の7月26日に「永久助役」とされた。

たまの母猫であるミーコは元々、南海電気鉄道時代の貴志駅舎南側にあった倉庫内の作業員詰め所で飼われていた。一駅隣の甘露寺前駅で生まれたという。やがてミーコは貴志駅で4匹の子猫を出産し、そのうちの1匹が三毛であった。兄弟達のうち1匹は死んでしまい、他の2匹は新しい飼い主に貰われていったが、一番性格のおっとりしたおとなしい三毛の子は「たま」と名付けられて、ミーコと一緒に小山商店で飼われるようになった。ちびは生後間もない頃に駅前に捨てられていたのを拾われ、たまが母親代わりとなって育てていた。
たま達は売店と倉庫の間に作られた猫小屋で飼われるようになり、昼間は売店の前で過ごすようになった。近所の人たちや駅の利用客にかわいがられるいわば「駅のアイドル」であった。また、たまは「必要以上に耳を掻く仕草をすると、次の日の降水確率は90%以上」という天気予報の特技があった。

2003年、貴志川線を運営していた南海電鉄が赤字解消が困難なことを理由に路線廃止を表明したが、岡山県を中心に公共交通事業を行っている両備グループが経営を引き継ぐこととなり、同グループの岡山電気軌道の子会社として「和歌山電鐵」が設立された。
この経営移管に際して、路線や駅の敷地は南海の社有地から貴志川町(現在の紀の川市)の公有地となり、倉庫は取り壊して駐輪場に、倉庫と駅舎の間はホームへの公道として整備されることになったため、そこに置かれていたたま達の猫小屋は立ち退きを迫られることとなった。困った飼い主が2006年4月1日に和歌山電鐵の開業記念式典を終えた後の小嶋光信社長(両備グループ代表と兼務)に「猫たちを駅の中に住まわせてもらえないか」と相談した。小嶋自身は自宅では長い間紀州犬を飼っていたこともあって猫よりもむしろ犬好きであったが、このとき「たまちゃんと目があった瞬間、ピカッとたまちゃんの駅長姿が頭にひらめきました」「実に立派で、キラキラしていました。今の日本人にもない目だと」「神様から使わされた鉄道の救世主」と、たまにほれ込んだ小嶋の発案によって、「招き猫」になって欲しいとの願いを込めて、それ以前から駅の利用者に親しまれていたたま達を駅長などに任命することになった。これは和歌山電鐵移管後に合理化のために貴志駅を無人駅化したことも背景にある。猫に駅長を嘱託した例は日本の民営鉄道では初である。
さらに2014年1月5日には、たまは「ウルトラ駅長」に昇進、全ての駅長を統括する職となった。

2009年7月20日、ミーコ助役は体調を崩して亡くなった。初七日が明けた7月26日に「永久助役」となった。四十九日が明けた同年9月6日に両備グループのホームページにて公表された。
当駅の乗降客数はたま駅長就任まで1日あたり約700人だったのが就任直後の2007年1月には約17%増加するなど、「たま駅長効果」は具体的数値となっても現れている。2007年のゴールデンウィーク期間中には「いちご電車」とたま駅長の効果もあってか、同社では前年同期比40%増の収入を記録した。関西大学大学院の宮本勝浩教授は、2007年1月の就任以来の1年間でたま駅長による和歌山県への観光客増加などによる経済波及効果が11億円に達したとする研究結果を発表した。
日本国外からの観光客も訪れたりCNNを初めとした日本国外のメディアでも取り上げられるなど、海外でも話題を呼んでいる。
2013年1月5日、駅長就任6周年記念式典で、和歌山電鉄ナンバー2の社長代理に出世した。
2015年5月19日から鼻炎のため入院していたが、復帰することなく同年6月22日に急性心不全のために遠い旅に出た。
同月28日に和歌山電鐵主催の神道形式による社葬が貴志駅構内で営まれ、社長の小嶋光信が弔辞を捧げ、たまに「名誉永久駅長」の称号を追贈した。

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裏窓 / Rear Window





大物監督には珍しく、生涯で一度も離婚歴がなく、妻・アルマと過ごした。

ヒッチコックの初期作品はフィルムの劣化が進んでおり、上映に耐えられない状態となっていたため、2010年には英国映画協会がフィルムが残存している初期サイレント映画9作品を修復しデジタル化するプロジェクトを発足させ、2012年に快楽の園、下宿人、ダウンヒル、リング、ふしだらな女、農夫の妻、シャンパーニュ、マンクスマン、恐喝の9本を無事修復して事業を完了させた。修復されたこのフィルムは「The Hitchcock 9」として各地で上映され、日本でも東京劇場において2017年3月18日から3月24日まで上映された。

主な作品
※:製作国に於いてパブリックドメイン(保護期間は公開から70年、ただし英国政府製作の映画は公開後50年)
《イギリス時代》
1925
快楽の園/The Pleasure Garden ※ 監督デビュー作

1926
山鷲/The Mountain Eagle ※ 6枚のスチール写真を除いては現存せず。

(不明)/(不明) ※ 企画のみ作られた政治映画。BBFCによる検閲、不許可により未制作。

1927
下宿人/The Lodger: A Story of the London Fog ※

ダウンヒル/Downhill ※

リング/The Ring ※

1928
ふしだらな女/Easy Virtue ※

農夫の妻/The Farmer's Wife ※

シャンパーニュ/Champagne ※

1929
マンクスマン/The Manxman ※

恐喝/Blackmail ※ 最初のトーキー作品。サイレント版もあり。

1930
ジュノーと孔雀/Juno and the Paycock ※ トーキー作品。原作はショーン・オケーシーによる。

殺人!/Murder! ※ トーキー作品

エルストリー・コーリング/Elstree Calling ※

1931
スキン・ゲーム/The Skin Game ※

メアリー/Mary ※(殺人! のドイツ版)

1932
第十七番/Number Seventeen ※

リッチ・アンド・ストレンジ/Rich and Strange ※

1933
ウィンナー・ワルツ/Waltzes from Vienna ※

1934
暗殺者の家/The Man Who Knew Too Much ※

1935
三十九夜/The 39 Steps ※

1936
間諜最後の日/The Secret Agent ※

サボタージュ/Sabotage ※

1937
第3逃亡者/Young and Innocent ※

1938
バルカン超特急/The Lady Vanishes

1939
巌窟の野獣/Jamaica Inn ※

《アメリカ時代》
『海外特派員』の一場面
『北北西に進路を取れ』予告編の一場面

1940

レベッカ/Rebecca アカデミー作品賞 



海外特派員/Foreign Correspondent ※

1941
スミス夫妻/Mr. & Mrs. Smith 日本未公開作品 のちにビデオ化

断崖/Suspicion

1942
逃走迷路/Saboteur

1943
疑惑の影/Shadow of a Doubt ※

救命艇/Lifeboat

1944
闇の逃避行/Bon Voyage ※ 英国政府製作のフランス向け国策映画 26分

マダガスカルの冒険/Aventure Malgache ※ 上記同様 30分

1945
白い恐怖/Spellbound ※
1946
汚名/Notorious ※

1947
パラダイン夫人の恋/The Paradine Case

1948
ロープ/Rope ※

1949
山羊座のもとに/Under Capricorn ※

1950
舞台恐怖症/Stage Fright

1951
見知らぬ乗客/Strangers on a Train ※

1953
私は告白する/I Confess

1954
ダイヤルMを廻せ!/Dial M for Murder

裏窓/Rear Window ※ 



1955
泥棒成金/To Catch a Thief ※

ハリーの災難/The Trouble with Harry ※

1956
知りすぎていた男/The Man Who Knew Too Much

間違えられた男/The Wrong Man

1958

めまい/Vertigo ※ 



1959

北北西に進路を取れ/North by Northwest ※ 



1960

サイコ/Psycho ※ 



1963

鳥/The Birds 






(~\(¬_¬)この様な鳥のお話ではございません・・・。)

1964
マーニー/Marnie

1966
引き裂かれたカーテン/Torn Curtain

1969
トパーズ/Topaz

1972
フレンジー/Frenzy

1976
ファミリー・プロット/Family Plot

《受賞歴》
アカデミー賞
受賞
1968年 アービング・G・タルバーグ賞
ノミネート
1941年 アカデミー監督賞:『レベッカ』
1945年 アカデミー監督賞:『救命艇』
1946年 アカデミー監督賞:『白い恐怖』
1955年 アカデミー監督賞:『裏窓』
1961年 アカデミー監督賞:『サイコ』
ニューヨーク批評家協会賞
受賞
1938年 監督賞:『バルカン超特急』
ゴールデングローブ賞
受賞
1970年 セシル・B・デミル賞(功労賞)
ノミネート
1973年 監督賞:『フレンジー』
アメリカン・フィルム・インスティチュート
受賞
1979年 生涯功労賞(ライフ・アチーブメント賞)

《テレビ番組》
1955年から1962年にアメリカでテレビサスペンス番組『ヒッチコック劇場』(原題:Alfred Hitchcock Presents)を総監修。ヒッチコック自身も数エピソードを監督している。なお本作品を放送した際、自ら進行役を買って出て、番組内の冒頭と終わりにユーモアを交えて解説を行った(ヒッチコックの日本語吹き替えは熊倉一雄が担当)。このシリーズは30分番組だったが、好評につき1962年から1965年まで放送された後続番組『The Alfred Hitchcock Hour』は放送枠が1時間に拡大された(日本での邦題は『ヒッチコック・アワー』『ヒッチコック・サスペンス』『新ヒッチコック・シリーズ』など)。1985年には、オリジナル番組を新スタッフが忠実にリメイクした『Alfred Hitchcock Presents』(日本での邦題は『ヒッチコック劇場’86』『新・ヒッチコック劇場』)が制作されたが、この解説部分はオリジナル版の映像をカラーグラフィック処理したものが放送された(日本では1985年-1987年にテレビ東京で放映。ヒッチコックの吹き替えをオリジナル同様に熊倉一雄が行った)。
監督賞ノミネート5回
アカデミーに再三ノミネートされたが、当時のハリウッドではサスペンス物は格下に見られ、また、自身がアメリカ人でなかったことや、ハリウッドに住まずサンフランシスコに居を構え、ハリウッドの映画人との交流が少なかったことなどの理由から、監督賞を逃し続けたという説もある。



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