Old Reliable
1918年5月12日
イギリス海軍に徴発された客船オリンピック号がドイツ潜水艦U-103を体当たりで沈める。【オリンピック】(RMS Olympic)
1900年代にイギリスのホワイトスターライン社がイギリスやアイルランドなどヨーロッパ各地とアメリカ東海岸のニューヨークなどの航路に就航した客船。不幸で短命だった姉妹船のタイタニック、ブリタニックと異なり、24年におよぶ長い就航期間と、第一次世界大戦の徴用輸送船時代に攻撃を加えてきたUボートと一騎討ちを演じて返り討ちにする戦果を上げるなどの活躍から「Old Reliable(頼もしいおばあちゃん)」の愛称を持つ。 オリンピックの名はギリシャ神話のオリュンポスからとられている。
《オリンピック》
起工:1908年12月16日
進水:1910年10月20日
就航:1911年6月14日-1935年引退
総トン数:45,324トン
全長:269.0 m
全幅:28.2 m
喫水:10.5 m
速力:21ノット
1912年4月15日に沈没したタイタニックの姉妹船で、造船業のハーランド・アンド・ウルフ社の会長が、ホワイトスターライン社のイズメイ社長に、ライバル関係にあったキュナード社のルシタニア・モーリタニアの姉妹船と対抗すべく三隻の大型客船造船を発案したのが発端である。その三隻の船の先駆けとしてアイルランド、ベルファストのハーランド・アンド・ウルフで起工し、ほぼ同時期に二番船タイタニックの建造が開始され、少し遅れて三番船のブリタニックの建造も開始される。
当時は世界で最も巨大な船で、今でいう巨大クルーズ船と並ぶほどの位置づけであった。それに加え“絶対に沈没しない”という不沈伝説まで生まれたが、処女航海でタグボート「O・L・ハーレンベック」を巻き込みそうになったり、1911年9月20日にはイギリス海軍のエドガー級防護巡洋艦「ホーク」と衝突事故を起したりと、その先行きはタイタニックの悲劇を暗示しているようにも感じられた。そして極めつきは妹船のタイタニックの沈没で、その神話はもろくも崩れた。タイタニックからSOSを受信し救難に向かった船の1隻であるが、両船は800kmも離れており、沈没現場に到着したのは先に到着したカルパチアが遭難者を救助した後であった。
オリンピックは三姉妹船で、タイタニックとブリタニックの二隻の妹船が存在し、それら姉妹船をまとめてオリンピッククラスと呼んでいた。沈没事故後の映画などでタイタニックが有名になるが、当時はオリンピックが代表船であった。
タイタニックとは同時期に造船が開始されたこともあって瓜二つで、タイタニックの写真としてオリンピックの写真を使われる例がよくあった。しかし一番船として先に竣工したオリンピックの改善点を受けて、タイタニックの設計は多少変更され、外観も二つの姉妹船は多少異なっていた。その代表としてAデッキの一等専用プロムナード(遊歩道)の窓が、オリンピックは全体が海に対しベランダ状に吹きさらしになっていたのに対し、タイタニックは前半部がガラス窓が取り付けられた半室内状に変更された。これは北太平洋の寒い強風から乗客を守るためである(後に竣工したブリタニックのプロムナードの窓もタイタニックと同じ作りである)。またオリンピックはBデッキ全体にもプロムナードデッキが設けられていたが、タイタニックではBデッキのプロムナードデッキが廃止され、窓際全体を1等客室に変更された。その為1等客室の数がタイタニックに比べて少なく、総トン数もタイタニックより僅かに軽かった。
タイタニックの沈没を受け、ホワイトスターライン社はオリンピックの船体側面の2重構造化を含む船体の強化を施した他、救命ボートの数を倍以上に増やすなど、乗客の信頼を取り戻すのに必死であった。
1914年に勃発した第一次世界大戦において、オリンピックは当初徴用を免れていが、1915年9月にオリンピックはイギリス海軍省の命を受けて軍用輸送船として徴用された。12ポンド砲と4.7インチ砲を取り付け、1915年9月24日に輸送船2410として、リバプールからガリポリに向けて部隊を輸送する任務についた。その後、東地中海において輸送任務を続けた。
ほぼ同時期、竣工直後の妹船であるブリタニックも病院船としての徴用を命じられたが、翌年の1916年に地中海でドイツ軍の機雷に触れて沈没してしまった。
1916年から1917年にかけて、カナダ政府の元で、ハリファクスからイギリスへの部隊輸送を行った。1917年には、6インチ機関銃を装備し、迷彩塗装を施された。 1917年にアメリカが参戦すると、アメリカからイギリスへの大量の部隊輸送を行うことになった。
1918年5月12日にドイツ潜水艦U-103から雷撃を受けたが、船長バートラム・フォックス・ヘイズは、雷撃を回避した後に退避することなく、そのままオリンピックを突っ込ませてU-103へ体当たりを行い、U-103はオリンピックの巨大な船体による体当たりで潜航装置を含む船体構造が破壊されて沈没した。第一次世界大戦中において商船が軍艦を撃沈した唯一の事例と見られる。この行動には批判もあったが、ヘイズはアメリカ政府から殊勲十字勲章を授与されている。
第一次世界大戦を通して、オリンピックは34万7千トンの石炭を消費して、12万人の兵員を輸送、18万4千マイルを走った。戦後、徴用を解かれて客船となり、点検を受けた際に喫水線の下にへこみが見つかり、調査の結果、不発の魚雷の衝突痕とされた。もし爆発していれば、沈没は免れなかったと考えられる。
オリンピックは第一次世界大戦終結後に再び客船として就役し、その後20年近く現役の客船として栄光を保ち続けた。500回もの大西洋横断をこなし、先のUボートとの一騎討ちの逸話も加わって、晩年には「Old Reliable(頼もしいおばあちゃん)」という愛称で親しまれた。1934年に所属船会社のホワイト・スター・ラインがライバルのキュナードに合併してキュナード・ホワイト・スター・ラインとなった際には同社に継承されたが、1935年に引退した。
引退後のオリンピックは、そのまま解体される予定であったが、贅の極みを尽くした豪華な内装を持つこの船を処分するのは惜しいという声があがり、内装の一部がオークションにかけられた。そしてダイニングの内装をイギリスの夫人が買い取り、屋敷として使用した。船体は1936-37年にかけて解体処分されている。
夫人の死後、その屋敷もまたオークションに出されていたが、世界有数の船会社であるロイヤル・カリビアン社が落札。自社の船である2000年竣工のミレニアムのレストランに使用することが決定した。そのレストランは「オリンピック・レストラン」という名で呼ばれており、室内はオリンピックのダイニングがそのまま利用されている。オリンピックで使われていた食器類も飾られており、タイタニックとほとんど同じ内装である。
《すり替え説》
沈没した姉妹船のタイタニックと本船は、すり替えられたという説がある。
この説の『根拠』はいくつかあり、完成時のスクリュープロペラが写されている写真で、スクリューに書かれている番号がタイタニックの番号であったり(これはタイタニックが建造中に起こったオリンピックと巡洋艦ホークとの衝突事故でスクリューが破損し、タイタニック用に準備されたものを転用したと考えられる)、客船の窓数も“沈没した”タイタニックと同じ数(オリンピックとタイタニックではわずかに異なるが、会社側がオリンピックの宣伝用として、同型船の写真を使用したと考えられる)であったりするなどというもので、いずれも写真の誤った解釈に基づくものである。
たとえ同型船とはいえ、両船にはプロムナード・デッキの造りをはじめとする相違点がいくつか存在し、それらをすべて隠蔽するのは不可能と考えられることから、すり替え説は都市伝説の一種とされる。それでもこの説はただの噂にとどまらず、世間一般に『事実』として広く認知されており、著作物として公刊もされている。それによると、すりかえは保険金詐欺を目的にしたものだというもっともらしい説明がなされている。
二度あることは三度あった・・・。
【立川6億円強奪事件】
2011年5月に発生した現金強奪事件。2011年5月12日、東京都立川市柴崎町三丁目の警備会社日月警備保障立川営業所に2人組の男が押し入り、ソファで仮眠中の36歳男性警備員の手首を粘着テープで縛り、刃物や鉄パイプで脅して金庫室の暗証番号を聞き出し、同室内から現金が入った麻袋やかばん計70点を奪い逃走する事件が発生した。
奪われた現金は郵便局株式会社がゆうちょ銀行から銀行代理店業務を、かんぽ生命保険から保険代理店業務を受託して郵便局の貯金・保険窓口での支払い用に使われる現金約6億円(正確には5億9953万1209円)であり、貴重品輸送警備として東京中央郵便局から受け入れて多摩地域の各郵便局に配送する目的で保管されていた。
この強奪金額は2014年7月時点で国内犯罪史上最高額である。
警視庁は立川警察署に捜査本部を立ち上げて捜査。
防犯カメラの画像から現場周辺で車に乗って移動する男らの様子や現場に近い八王子市内のコンビニエンスストアで、犯行に使われた粘着テープなどを購入していた記録が出てきたことで2人の実行犯が浮上し、6月上旬に暴力団関係者の実行犯2人が逮捕。また犯人達は本人名義ではない携帯電話を使い分けていたが携帯電話の通話履歴から、暴力団を背景とした組織的犯行の可能性が強まり、計23人が強盗傷害罪等で逮捕・起訴された。
奪われた現金は約2億4千万円を逮捕者から回収されたが、残り約3億6千万円が未回収である。
裁判ではそれぞれ容疑を認めている被告と否認している被告がいるため、別々に裁判が行われている。強盗傷害罪で起訴された被告については裁判員裁判で審理されている。
2012年4月26日に東京地裁でリーダー格の1人に懲役20年の有罪判決が出た。
この事件では日月警備保障に対して以下の不備が明らかになった。
日月警備保障立川営業所の窓の鍵は半年以上前から壊れているのを放置していたこと
不審者の出入りを感知する警報センサーはスイッチが切られていたこと
本社に通じる警報の非常ボタンもあったが使用されなかったこと
警備業法施行規則で定められている新任教育の教育時間を守っていなかったこと
虚偽の帳簿を作成して隠蔽を計ったこと
また、日月警備保障については2004年には多摩地区を移送中に約1億5000万円が、2008年には杉並区で現金輸送車から6900万円が、それぞれ盗まれる事件も起きていた。
日月警備保障は現金輸送部門の売上の大半は郵便局会社からの収入であったが、この事件を受けて郵便局会社との契約が解除された。
7月15日に東京都公安委員会は日月警備保障に対し東京都内での営業を21日間停止する処分を決定した。また、この処分を受けて、同社は貴重品輸送警備業務から撤退する意向を示した。
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スコープの先に見えた光景 ー2ー
狙撃の瞬間は広島テレビ放送(日本テレビ系列)のカメラによって記録されており、Xが崩れ落ちる様子が映像として残されている。
以前はそのままで放映されていたが、2016年時点ではXの顔はぼかされたり、射撃された瞬間の映像を流さないようにして放送していたりする。
《事件のその後》
広島地方検察庁は、現場検証を行い一連の措置が武器使用条件を定めた警察官職務執行法第7条の「他に手段がないと信じるにたりる相当な理由」に該当していたかを捜査した。また、県警本部長は広島県議会警察商工委員会で「右腕をねらわせた弾丸が左胸にあたった」と答弁し、射殺まで意図はしていなかったとした。
この事件に対し世論の多くは、拡大適用される懸念があるものの、おおむねやむを得ない措置だったという意見であったという。
藤木英雄東京大学教授は「米国ケント州立大学でデモの学生4人が射殺されるように、濫用はしてはならないが、あくまで強力な銃器と弾を持っている場合には慎重にすべきであるが、(今回の事件については)やむを得ない処置であった」とした。また植松正は「凶悪な人質犯罪では正当防衛として犯人射殺はやむを得ない」とした上で、無論犯人にも最小限の生存権があり尊重すべきであるが、もし躊躇して足を撃てばかえって逆上させるだけであり、一発で抵抗できなくすべきであったと主張した。また会田雄次京都大学教授は「若い人が『おもろいなあ、おれもやったろか』というのを聞いた」として、こうした事件の流行には、乱暴男に対し見せしめが必要だと主張した。
また産経新聞が実施した世論調査では過半数はあの場面での狙撃は妥当とする調査結果を公表しているほか、朝日新聞は人質犯罪に対する刑罰の厳罰化と、人質事件を安易に映像作品に取り上げることを自主規制すべきとしたうえで、正当防衛であり仕方ないことであったとした。
一方、作家の佐賀潜は射殺は行き過ぎだとも主張していた。日本社会党広島県本部は「見せしめの意図が濃厚」と主張して県警本部長に公式に抗議している。
一方、この射殺を前述の会田雄次がいうように「見せしめ」であるとして問題視するものも存在した。これは前述のように「よど号ハイジャック事件」が発生したあと人質事件が1ヶ月で6件と続発しており、模倣犯を抑止するものではないかという意見があった。実際に自由人権協会北海道支部所属(2007年現在、自由人権協会には北海道支部は存在しない)の弁護士が、県警本部長と狙撃手を「裁判によらない死刑だ」などと殺人罪等で広島地検へ告発した。なお、中国新聞によれば、Xの父親は警察による息子射殺について「親として、死んでくれてせめてもの償いができた。警察に抗議するつもりはない」と語っていた。
この告発について前述の委員会の答弁の中で須藤本部長は「刑事訴訟法で認められた権利であり、検察庁の捜査を見守る」としたうえで不快感を表明した。国会でもこの事件が取り上げられたが、5月16日の衆議院地方行政委員会で答弁した後藤田正晴警察庁長官(のちの衆議院議員、法務大臣)は「銃器の使用は最後の最後の手段であるという点はこれまでと全く変わりない。今回の事件により、若い警察官に誤解があっては困るので。(中略)今回の場合は例外中の例外である」とし、事件は結果論として犯人を死亡させたものの、極めて特異な事例であったとした。
なお、広島地検は狙撃手の行為を警察官職務執行法第7条と刑法36条の正当防衛及び刑法35条正当行為として不起訴処分にした。本事件を取り上げたフジテレビの番組取材に船長は「狙撃は仕方がないなと思った。やむを得ない。」と語った。
弁護士側は特別公務員暴行凌虐罪について広島地裁に付審判請求を行ったが、これも棄却された。なお、一連の告発に対し広島県警は職務上やむを得ない判断である姿勢であったほか、日本弁護士連合会も緊急避難措置として妥当なものであるとした。人質とされた乗客であるが、運行会社に落ち度はなかったとしながらも、乗船券を持っていた乗客に大人3万円、子供1万円の総額50万円の見舞金を支給し、巻き添えになった乗客15人には見舞い品を支給し、被害補償を行った。
《国会とマスコミでの扱い》
後藤田正晴はこの騒動で、国会で三時間なぜ犯人を射殺したんだと山口鶴男と日本社会党を中心に問い詰められたと述べた。後藤田は射殺はやむを得ない、最後の手だったと回顧した。後藤田は狙撃主がバッシングする者やマスコミに辞めさせられた背景について『かわいそうなのは、その時の射手をマスコミが嗅ぎつけたんだな。これは圧力を受けたね。辞めた。かわいそうなことだ。』と当時のマスコミについて述べている。警察はその狙撃主を守れなかったのかとの質問に後藤田は新聞記者が張り付いていたため、 撃った者の写真から何からあった。可哀想なのは、彼は自分を批判する声にたまらなくなって辞めてしまったと述べた。
《事件の影響》
この事件で警察側が殺人罪や特別公務員暴行凌虐罪で告訴されたことが、その後の人質事件において日本の警察が犯人狙撃というオプションに対して慎重になっている原因としてマスコミが取り上げることがある。
1972年、連合赤軍の活動家が銃器で武装し人質をとって山荘内に立てこもったあさま山荘事件において警察は犯人を射殺せず全員逮捕した。この事件に関しては、「連合赤軍「あさま山荘」事件」(文藝春秋発行、著者佐々淳行)によると、当時の警察庁長官である後藤田正晴が「犯人は全員生け捕りにせよ。射殺すると殉教者になり今後も尾をひく」との考えから、機動隊は犯人の逮捕を前提に活動したとされている。
1979年、三菱銀行人質事件の際は突入した特殊部隊の拳銃による犯人への一斉射撃で解決したが、これは本事件を引き合いに「犯人とはいえ、射殺してしまった時の責任感や苦痛を緩和させる為」に一斉射撃で誰の弾が致命傷に至らせたのかを解らなくする手段として一斉射撃が決められた事を、当時事件解決に従事した元特殊部隊隊員が告白している。
さらに、1990年代以降は、犯罪の凶悪化により警察官の受傷、殉職事案が増加したことに伴い、2001年に「警察官等けん銃使用及び取り扱い規範」が改定され、拳銃使用要件が明確化された。これにより警察官の拳銃使用件数は、改定前に比べ増加した。
共犯BはXと2人で逃亡中に、Xから「みんなで銃を持って、宝石店や大きな商店などを狙おう。警察が来ればあくまで撃ち合いだ。警察には絶対捕まらない。警察官が1人でくれば逆に拳銃を奪ってやる。」と聞かされていた。
ぷりんす号は、のちにフィリピンの企業に売却され、観光船として使用されていることがテレビ番組による事件の追跡取材で判明した。
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