殺しのテクニック - Tecnica di un omicidio
【ロバート・ウェッバー】
Robert Webberアメリカ合衆国の俳優。
ロバート・ウェッバー
Robert Webber
生年月日:1924年10月14日
没年月日:1989年5月19日(64歳没)
出生地:アメリカ合衆国
職業:俳優
《出演作品》
映画
『明日なき男』- Highway 301(1950年、William B. 'Bill' Phillips)
『十二人の怒れる男』- 12 Angry Men(1957年、陪審員12番)

『七月の女』- The Stripper(1963年、Ricky Powers)
『サイレンサー/沈黙部隊』- The Silencers(1966年、Sam Gunther)
『動く標的』- Harper(1966年、ドワイト・トロイ)
『殺しのテクニック』- Tecnica di un omicidio(1966年 イタリア映画、Clint Harris)

『現金作戦』- Dead Heat on a Merry-Go-Round(1966年、Milo Stewart)
『特攻大作戦』- The Dirty Dozen(1967年、デントン准将)
『サンタモニカの週末』- Don't Make Waves(1967年、Rod Prescott)
『捜査網せばまる』- Qualcuno ha tradito 米:Every Man Is My Enemy(1967年 イタリア・フランス映画、トニー・コスタ)
『悪女のたわむれ』- The Big Bounce(1969年、Bob Rodgers)
『ボクサー』- The Great White Hope(1970年、ディクソン)
『バンクジャック』- $ (1971年、Mr. North, Attorney)
『ガルシアの首』- Bring Me the Head of Alfredo Garcia(1974年、サスペンスリー 賞金稼ぎ)

『ミッドウェイ』- Midway(1976年、フランク・J・フレッチャー海軍少将)
『クワイヤボーイズ』- The Choirboys(1977年、リッグス本部長補佐)
『すばらしき仲間たち』- Casey's Shadow(1978年、Mike Marsh)
『ピンク・パンサー4』- Revenge of the Pink Panther(1978年、フィリップ・ドゥーヴィエ)
『ガーデニア』- Gardenia il giustiziere della mala 米: Gardenia(1979年 イタリア映画、トニー・カルーソ)
『テン』- 10(1979年、ヒュー)
『プライベート・ベンジャミン』- Private Benjamin(1980年、ソーンブッシュ大佐)
『S.O.B.』- S.O.B.(1981年、ベン)
『シークレット・レンズ』- Wrong Is Right(1982年、Harvey)
『ファイナル・オプション』- 英: Who Dares Wins,米: The Final Option (1982年 イギリス映画、アイラ・ポッター将軍)

『ワイルド・ギースII』- Wild Geese II(1985年 イギリス映画、ロバート・マッキャン)
『ナッツ』- Nuts(1987年、Francis MacMillan)
テレビ・テレビ映画
『赤い暗闇』- The Movie Murderer(1970年 テレビ映画、Karel Kessler)
『二重スパイ・国際謀略作戦』- Hauser's Memory(1970年 テレビ映画、Dorsey)
『警部マクロード/ニューヨークのわな』- McCloud(1971年 テレビドラマ、Fritz August)
『華麗なる泥棒』- Thief(1971年 テレビ映画、James Calendar)
『バナチェック登場/消えたフットボール選手』- Banacek(1972年 テレビドラマ、Jerry Brinkman)
『赤い殺人鬼/カリフォルニア殺人事件』- Hawkins 1973年、Carl Vincent TVシリーズ「ホーキンズ」のパイロット版)
『ストリート・オブ・L.A.』- The Streets of San Francisco(1974年 テレビ映画、Al Cooper)
『脱走の谷/恐怖の人妻誘拐』- Death Stalk(1975年 テレビ映画、Hugh Webster)
『OH!ハードボイルド』- Tenspeed and Brown Shoe (1980年 テレビドラマ、Herman LaCross)
『SFスターフライトI』- Starflight One,Starflight: The Plane That Couldn't Land(1983年 テレビ映画、フェリックス)
『こちらブルームーン探偵社』- Moonlighting(1985~1989年 テレビドラマ、Alexander Hayes(6エピソード))
『CIA・バイオニック・エージェント/アサシン』 - Assassin(1986年 テレビ映画、Calvin Lantz)
『クライムエイリアン/何かがあなたを狙ってる』- Something Is Out There(1988年 テレビドラマ、エスタブルック署長(6エピソード))
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【殺しのテクニック】
(TECNICA DI UN OMICIDIO)
『殺しのテクニック』は1966年制作のイタリア・フランス合作映画。

ニューヨークとパリを舞台に暗黒街を生きてきた殺し屋が壮絶に描かれるハードボイルドアクション。マカロニ・ノワールの代表作。
殺しのテクニック
Tecnica di un omicidio
監督:フランク・シャノン
製作:CINEGAI
製作総指揮:ダン・レッサー
出演者:ロバート・ウェッバー
フランコ・ネロ
音楽:ロビー・ポワットヴィン
撮影:エリック・メンツァー
配給:松竹映配
公開:1966年6月25日
(日本公開)1966年7月2日
上映時間:93分
製作国:イタリア・フランス
言語:英語、イタリア語
主人公がビルの屋上で手際よく銃を組み立て標的を狙撃する冒頭のシーンは様々なアクション映画に多くの影響を与えた。
『ダーティハリー』のライフル魔・スコルピオの狙撃シーン、『レオン』で主人公が少女マチルダに教える狙撃テクニックの基本、『男たちの挽歌』で植木鉢に銃を隠すアイデアも、全てはこの映画から生まれた。
また、この作品の興行的成功によって、その後「殺しの・・・」という邦題名が続出するようになった。
《ストーリー》
驚異的な狙撃の腕を買われ、組織の殺し屋として生きてきた寡黙な殺し屋クリントは引退を決意していた。しかし、最後の仕事を終えた直後に敵対する組織の急襲を受け兄を殺されたため、やむなく犯罪組織から次の仕事を請け負う。
標的は秘密情報を漏らした組織の裏切者で、兄を殺した人物と思われる男セッキ。さっそく助手のトニーを伴い、ニューヨークからパリへ。マリーという女から少し手掛りをつかみ、こいつこそはと思って殺した男もセッキではなく、マリーも殺される。陰謀を切り抜けようやくセッキの消息をたどり追い詰めるが、その正体は意外な人物だった。
《キャスト》
役名:俳優
クリント:ロバート・ウェッバー
トニー:フランコ・ネロ
マリー:ジャンヌ・ヴァレリー
セッキ:ホセ・ルイ・ド・ビラロンガ
ハステル:セク・リンダー
バリー:マイケル・バーディネット
この映画の見所は、組織の殺し屋として生きてきた寡黙な殺し屋クリントの狙撃シーンであろう。
髪の毛を七三に分け、常に目立たず冷静沈着、黙々と珈琲をすする孤高の中年男クリント・ハリス(ロバート・ウェッバー)。
ハリスが狙撃に使う銃は、組み立て式のレミントンのセミ・オートマチック・ライフルである。レミントンM742“ウッズマスター”。口径.30-06、装弾数4発。銃口にはサイレンサー、スコープ接眼部にはゴム製のエクステンション。フォア・エンドにはヴァーチカル・グリップが追加され、バット・ストックには調整可能なフック・プレートが装着されている。威力のある大口径スポーティング・ライフルを、精密射撃用に改造したカスタムライフルである。

「狙撃」と言うと、精度の高いボルトアクション・ライフルを用いて、長距離から獲物を一発で仕留めるイメージがあるが、彼は違う。確実に、正確に、“仕事”をこなすため、速射の効く半自動ライフルを用いて続けざまに3発、ターゲットへ叩き込み確実に仕留める殺しのプロフェッショナル。

彼は狙撃の際、ライフルを持ち込むのにケースは使わない。楽器や専用ケースに銃を格納するとかさばり、目立つからである。
ハリスは専用のホルダーで、体に直に分解したライフルを吊り下げコートで隠す。そして、もちろんライフルの機関部と銃身は分解していない。精度が狂うからである。

片目をつぶると顔面に余計な力が入り、狙撃に支障をきたすためだ。スポーツ射撃の選手は皆、照準をつけない方の目をシェイドで覆い隠している。
ハリスが携帯している拳銃は、S&Wのスナブノーズ・リボルバー(回転式拳銃)である。1960年代当時は、まだオートマチック(自動拳銃)に対する信頼性が薄かったため、故障が少なく確実に作動するリボルバーを愛用する。
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英雄と呼ばれた狙撃手の憐れな最期 - 2 -
ウィリアム・エドワード “ビリー”・シン(William Edward "Billy" Sing, 1886年 - 1943年5月19日)
オーストラリアの軍人、狙撃手。

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ある朝、シンは新たな観測手を伴っていつもの狙撃陣地に赴き、射撃の準備を始めた。
この時シンにとって幸運だったのは、観測手がシンの獲物を求めて双眼鏡を覗き始めてすぐに敵の狙撃手の姿に気付いたことであった。
その狙撃手こそが即ち“畏るべきアブデュル”だったのである。報告を受けたシンはすぐさま射撃体勢に入ると、素早く、しかし慎重にSMLEの狙いを定めて一弾を放った。その弾丸は、待ちに待った獲物であるシンを狙撃しようと、まさにその時狙撃銃を構えたアブデュルの眉間に命中していたという。
この闘いは後にオーストラリアの作家ブライアン・テートによって『ブリスベン・クーリア・メール』誌に発表され、シンは第一次大戦における伝説のひとつとなった。
アブデュルを倒した後の帝国軍のシンへの対抗策は、新たな狙撃手の派遣ではなくなった。帝国軍はシンの狙撃を確認すると、そこに向けて重砲撃を即座に要請したのである。
最初の砲撃はシンの潜む陣地の至近に着弾し、シンと観測手が大急ぎで避難して数秒後、陣地は次弾を受けて跡形も無く粉砕されたという。
《転戦》
シンはその後も狙撃を続け、1915年10月23日にはウィリアム・バードウッド将軍から個人感状を贈られたが、この際一つの逸話が残されている。この表彰の際のシンの狙撃数は公式記録では150名とされているが、実際にシンを表彰したバードウッド将軍が認めた“スコア”は201名となっていたのである。あまりにも多くの敵兵を射殺したシンのスコアに疑心暗鬼だった軍首脳部は、シンの戦果確認を“部隊付軍曹か士官以上の者が確認した場合に限る”としたのである。しかしこれはあまりにも現実離れした方法であり、現実的には多くの場合で近くで戦っていた一般兵士たちの戦果確認しか取れなかったため、この時期のシンのスコアは大幅に割り引かれて記録されることとなっていた。
シンの同僚たちからもこの処置にはかなりの非難が送られたため、首脳部はやむを得ず戦果確認の限定を排除した上での折衷案として、「公式記録150名、ただし201名射殺として表彰」という奇妙な処置を採ったのだと言われている。無論この201名という数値も相当割り引かれた数値であることはほぼ間違いなく、実際の戦果としてはおよそ250名前後のトルコ兵を射殺しているのではないかと考えられる。
12月、連合軍司令部はガリポリ半島からの撤退を開始したため、シンたちANZAC軍も約1万1千人の死者と2万5千人の負傷者という損害を残し、エジプトで部隊の再編成と再訓練を行うべくダーダネルス海峡を後にした。
明けて1916年1月、シンはエジプトでガリポリ戦線の戦功を称えられ、連合軍指揮官であったイアン・ハミルトン卿から柏葉敢闘章(Mentioned in Despatches)を贈られている。さらに同年3月10日にはヴィクトリア十字勲章に次ぐ英国第2位の勲章であるイギリス陸軍功労賞 (Distinguished Conduct Medal) を受賞した。
エジプトでの訓練の後、6月にイギリス本土に向けて出発したシン等第5軽騎兵連隊は、8月にオーストラリア軍第31歩兵大隊に編入され、西部戦線の主戦場たるフランスとベルギーでドイツ軍を相手に戦闘を繰り広げることとなった。しかしガリポリでの負傷が再発していたシンは、フランスに到着後約19ヶ月もの間戦線離脱を余儀なくされる。この療養期、シンは旅行先のスコットランドで、海軍のコックの娘でウェートレスを務めていたエリザベス・ステュアートという21歳の女性と出会う。翌1917年6月、2人はエディンバラで結婚式を挙げた。
人生の伴侶を得た幸せに浸る間もなく、シンは戦線に復帰することとなった。既に戦闘は小火器による歩兵突撃よりも重砲の撃合いがその主役となりつつあったが、シンはその流れの中でも小隊長として部隊を率いて多くの戦闘に参加し、主に対抗狙撃戦でその技量を発揮して活躍したという。
特に1917年9月、第3次イープル会戦(パッシェンデールの戦い)中のポリゴンの森争奪戦において、深い森の中での待ち伏せで豪州軍に多大な被害を与えていた独軍スナイパーを排除すべく、対抗狙撃戦の指揮を執った際の活躍は特筆すべきもので、これによりシンは翌年初頭にベルギー戦功十字章 (Belgian Croix de guerre) を受勲している。
その後もいくつかの戦闘で活躍したシンは、1918年7月、本国へ戻る輸送船の護衛潜水艦の乗組員として欧州を離れ、故郷オーストラリアへと帰還することとなった。クレアモントを旅立ってから約4年間のシンの軍歴はここに終わりを迎えた。
《戦後》
エリザベスを伴ってプロサーパインに戻ったシンは名士として盛大な歓迎で迎えられた。それは駅から町役場までマーチングバンドを引き連れた大パレードだったという。しかしそのわずか数年後、田舎暮らしに耐え切れなくなったエリザベスはシンを残して姿を消し、シンの人生に陰りが見え始める。
戦時中の蓄えも乏しくなったシンは、職を求めてミクレア金鉱の鉱区に居を移し、過酷な肉体労働にその日々を費やすこととなった。戦中の古傷もあってか、この金鉱での労働はシンの体を徐々に蝕み、満足に働くことが出来なくなったシンは貧困に窮し、暮らし良いと思われたブリスベンに移り住む。しかしここでもシンに与えられた職は肉体労働がほとんどで、金鉱時代に仲間だったジョー・テイラーの助けを借りながら細々と暮らしていたものの、1943年5月19日、ブリスベン市内ウェストエンド、モンタギュー通り304号の板葺きの粗末な小屋で、貧困に塗れたまま大動脈瘤破裂により57歳でこの世を去った。看取る者は誰一人としてない孤独な死だったという。
その死後に残っていたものは、わずか6ポンド10シリングと8ペンスの現金、そしてかつては英雄と呼ばれた狙撃手の終の棲家となった粗末な小屋のみであった。
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