hiroチャンのブログ -441ページ目

Schwarze Kapelle ②


《計画実行》 

7月20日午前7時頃、シュタウフェンベルクらは飛行機で総統大本営に向かった。しかし到着後、午後1時開催予定の作戦会議は、ムッソリーニ来訪のため30分繰り上がり、午後0時30分開催へと変更を告げられた。一方、ベルリン・ベンドラー街の国内予備軍司令部にはオルブリヒト、クィルンハイム、ヘプナーなど反乱派が集まり、暗殺実行を機に「ヴァルキューレ」作戦を発動すべく待機していたが、彼らは予定が繰り上がった事を知らなかった。

午後0時32分、爆弾の起爆装置を作動させた鞄を持って、シュタウフェンベルクが会議場に入った時には、すでに会議は始まっていた。
午後0時37分頃、爆弾入り鞄を作戦会議場の巨大なテーブルの下に押し入れ、ベルリンへ電話をかける名目で会議場を後にした。
午後0時42分、轟音と共に爆弾は炸裂し、会議室は破壊された。
爆発により、速記者ハインリヒ・ベルガー( Heinrich Berger)は両足を失いほぼ即死。陸軍参謀本部作戦課長・総統副官ハインツ・ブラント大佐は片足を失い、空軍参謀総長ギュンター・コルテン大将は腹部に重傷を負い二人とも2日後に死亡。総統副官のルドルフ・シュムント中将は、腰部の重傷で10月1日に死亡。残りの参席者も重軽傷を負った。ヒトラーは打撲と火傷、鼓膜を損傷したが症状としては軽症で済み、生き残っていた。

《「ヴァルキューレ」作戦発動》
午後1時13分頃、シュタウフェンベルク大佐とヘフテン中尉は、ヒトラー死亡を確信しつつ、ベルリンへ飛び立った。その頃、暗殺計画に加わっていた陸軍通信部隊司令官フェルギーベル大将は爆発現場に居て、ヒトラーが生存していることに気付く。彼は総統大本営から外部への通信を遮断し、間接的表現ながら、ヒトラー生存を伝えた。爆発は当初、ソ連軍機が低空から爆弾投下したのが原因と考えられていたが、やがて会議に参加していたはずの、シュタウフェンベルクの姿が爆発後見えず、爆発前の奇妙な行動から、彼が犯人と把握され、ヒトラーはSS長官であるヒムラーに事件の調査とシュタウフェンベルク逮捕を命じ、自らは来訪するムッソリーニとの会談に臨んだ。実行犯2人がベルリンへ飛行中の約3時間、連絡を交わす事は不可能で、その間、通信管制下の総統大本営からの情報も曖昧で断片的なものだったため、ベルリンにいた反乱派は、「ヴァルキューレ」作戦を発動するかどうか判断に迷った。軍の部隊を召集し展開させるには一定の時間が必要で、発動が遅れればそれだけ、クーデターが不利になるのは確実だった。

午後3時50分頃、2人が到着する前に、アルブレヒト・メルツ・フォン・クイルンハイム大佐が、「ヴァルキューレ」発動を各軍管区にテレタイプで発令していた。命令にはヴィッツレーベン元帥が署名、総統の死亡と非常事態宣言、彼が国防軍総司令官になった旨伝えていた。
午後4時頃、ベルリンの飛行場に到着したシュタウフェンベルクは、オルブリヒトに爆発成功を連絡。オルブリヒトは国内予備軍司令官フリードリヒ・フロム上級大将にヒトラー死亡を伝え、「ヴァルキューレ」発動を求めた。しかし、フロムが総統大本営のカイテル元帥に連絡すると、彼はヒトラー生存を伝え、更にシュタウフェンベルクの居所を追及した。それに対しフロムは「シュタウフェンベルクはまだ帰ってきていない」と回答。カイテルとの連絡後、フロムはオルブリヒトに「ヴァルキューレ」発動の必要無し、と告げた。

《情報戦》
「ヴァルキューレ」発動の通信は総統大本営にも伝わり、ヒトラー側は、これは一大佐に過ぎないシュタウフェンベルクの単独犯行などではなく、大掛かりな背後関係がある事を悟る。ヒトラーは国内予備軍司令官フロム上級大将の関与を疑い、彼を解任し、ヒムラーをその職に任命、秩序回復の権限を与えた。午後4時15分、カイテル元帥は総統の生存、及びヒムラーの国内予備軍司令官就任と、フロム、ウィッツレーベンの命令には従わないよう、テレタイプで全管区に通達した。
午後4時45分頃、勝手に「ヴァルキューレ」発動したことを知ったフロムは激怒し、司令部に到着したシュタウフェンベルクらに自決を迫って反乱派と小競り合いとなり、一室に軟禁された。
午後5時過ぎ、反乱派はヘプナー上級大将を国内軍司令官に任命した。一方、ヴァルキューレ発動と動員命令、更には総統の生存という、2つの相反する指令を相次いで受けた各地の部隊は混乱し、反乱派とヒトラー側の双方に事実確認を求める連絡が殺到した。シュタウフェンベルクやオルブリヒトは電話での対応に追われ、反乱成功に必要な活動を行えなくなった。
その間、反乱派のベルリン防衛軍司令官ハーゼ中将の命で、警備大隊長レーマー少佐の部隊がベルリン市内の主要地点に配置され始めた。しかし国内予備軍司令部の反乱派からの適切な指示も無く、動員された人数も少なく、拠点の出入りを規制することしかできなかった。そのため放送局内部に人員を配置することもせず、宣伝省やゲシュタポ本部にいたっては全く手付かずだった。
午後6時、反乱派は全軍管区に対し、戒厳令布告と武装親衛隊、ゲシュタポの処理・粛清、閣僚・ナチス党幹部・警察幹部の逮捕と強制収容所の確保を指令した。
午後6時45分、ベルリン放送局が「総統の暗殺が企てられたが失敗した」旨を放送。このラジオ放送はヨーロッパ中に届いた。

《敗北》
ベンドラーブロックに入る武装親衛隊。1944年7月
その少し前の午後6時30分頃、ベルリンにいたヨーゼフ・ゲッベルス宣伝相は、反乱派の命により出動したレーマー少佐を宣伝省に呼んだ。彼はレーマーをヒトラーと直接電話で会話させ、味方に引き入れた。ヒトラーはその場でレーマーを大佐に昇進させ、反乱鎮圧とヒムラーが到着するまでの間、現場責任者に任命した。レーマーは配下の将校をベルリン市内の要所に配備させ、市内へ向かう各部隊に事情を説明し、国内予備軍司令部から発令されたヴァルキューレ発動に伴う命令に従わないよう伝えて回った。
このように、反乱派は自ら軍部隊をベルリン市内の現場で直接指揮せず、自分らに対しシンパシーを持たない将校(レーマー少佐)が指揮する一個大隊の兵力に市内の制圧を委ねる、という致命的ミスを犯し、放送局やゲシュタポ本部、宣伝省など重要拠点の確保に失敗。更にはその将校がヒトラー側に抱き込まれ、自衛のための部隊すら喪失。逆にその部隊によって掃討されることになる。

午後7時45分頃、反乱派は放送局の放送内容を否定し、発令された命令の実行を改めて指令した。さらに西部方面軍司令官クルーゲ元帥にはベックが直々に連絡し、反乱への参加を呼びかけたが、クルーゲは言を左右にし応諾しなかった。彼は自ら総統大本営のシュティーフ少将に連絡してヒトラー生存を確認。それ以後反乱派と連絡を絶った。
午後8時すぎ、パリ軍政長官カール=ハインリヒ・フォン・シュテュルプナーゲル大将と、シュタウフェンベルクの従兄弟ツェーザー・フォン・ホーファッカー空軍中佐が、クルーゲの元を訪れて説得したが、彼はそれに応ぜず、逆に逃亡・潜伏を薦めている。
午後8時10分、反乱派の軍事的最高位ヴィッツレーベン元帥が国内予備軍司令部に到着するが、司令部の混乱ぶりと指揮する軍部隊が居ない事を知り、シュタウフェンベルクらの不手際を批判する。一方、総統大本営から各軍管区にカイテル元帥から、総統生存とヴィッツレーベン、ヘプナーからの命令には従わないよう指令が伝わる。各軍管区司令部はベルリン放送やカイテルの指令が真実であると認識し、ヴァルキューレ発動を中止。ヒトラーに忠誠を誓った。ウィーンの第17軍等は大管区指導者、親衛隊関係者を逮捕する動きに出ていたが、すぐに中止している。
午後8時50分頃、ヴィッツレーベンはクーデターの失敗を悟り、国内予備軍司令部を出てベルリン郊外の友人の別荘へ行った。
午後9時30分頃、ベルリン防衛軍司令官ハーゼ中将が降伏したという知らせが入り、シュタウフェンベルクもさすがに疲労と落胆を隠せなくなった。

7月20日事件①


【7月20日事件】 

1944年7月20日に発生したナチス・ドイツ総統アドルフ・ヒトラー暗殺未遂とナチス・ドイツ政権に対するクーデター未遂事件。

1944年7月20日 (暗殺未遂)
場所:ドイツ国 東プロイセンラステンブルク
(現ポーランドヴァルミア=マズールィ県ケントシン)
結果:アドルフ・ヒトラー総統の暗殺およびクーデター失敗
被害者数
処刑:約5,000人
逮捕:約5,000人
ヒトラーは打撲と火傷、鼓膜を損傷したが軽症
*速記者ハインリヒ・ベルガー( Heinrich Berger)は両足を失いほぼ即死。
*陸軍参謀本部作戦課長・総統副官ハインツ・ブラント大佐は片足を失い2日後に死亡。
*空軍参謀総長ギュンター・コルテン大将は腹部に重傷を負い2日後に死亡。
*総統副官のルドルフ・シュムント中将は、腰部の重傷で10月1日に死亡。
*残りの参席者も重軽傷。

ナチス・ドイツの政策への反対や、第二次世界大戦における連合国との和平を目的としてドイツ国防軍の反ナチス将校グループが計画、実行した。ヒトラーの暗殺とクーデターは共に失敗し、実行犯の多くは自殺もしくは逮捕、処刑された。

1933年にナチ党の党首アドルフ・ヒトラーがワイマール共和国首相に就任。ユダヤ人に対する差別政策など、過酷な政策を推進するナチスに反発し、ヒトラーの暗殺を計画、実行する個人もしくはグループが現れた。
ワイマール共和国およびナチス・ドイツにおける国防軍とナチス党及びヒトラーとの関係は複雑なものであった。
1938年のナチス・ドイツによるチェコのズデーテン併合時に計画されたクーデター計画が、国防軍内における反ナチス運動の嚆矢だった。ズデーテン併合によりイギリスおよびフランスから宣戦布告されることをおそれたドイツ陸軍参謀総長のルートヴィヒ・ベックは職を辞し、参謀総長のフランツ・ハルダー、アブウェール次長のハンス・オスター、第三軍管区司令官エルヴィン・フォン・ヴィッツレーベン、第二十三歩兵師団長エーリヒ・ヘプナーなど反ナチス派将校や民間人を集めてクーデター計画を練った。計画では臨時政府の元で総選挙を実施し政治を正常化させることになっていたが、ヒトラーの扱いについては、殺害、逮捕および裁判、精神異常者として拘禁するなど意見がまとまらなかった。イギリスの首相ネヴィル・チェンバレンの提案により行われたミュンヘン会談においてイギリスおよびフランスがドイツのズデーテン併合を認めたため、クーデター計画はその根拠を失い中止された。
1939年のポーランド侵攻を機に第二次世界大戦が勃発し、更に1941年に開始されたソビエト連邦との戦いが泥沼化すると、国防軍将校によるクーデター計画が再燃した。1943年には東部戦線の中央軍集団参謀のヘニング・フォン・トレスコウは、ヒトラーの前線視察時に暗殺する計画を立てた。彼の副官ファビアン・フォン・シュラーブレンドルフは、ヒトラーの専用機に爆弾を仕掛けたが不具合により起爆せず失敗した。この他にもルドルフ=クリストフ・フォン・ゲルスドルフなどを実行犯とするヒトラー暗殺計画が何度か企てられたが、いずれもスケジュール変更などの事情により決行されなかった。

1944年6月、米英軍は西部でノルマンディーに上陸し、東部でもソ連軍の攻勢によりドイツの敗色はますます濃くなり、「黒いオーケストラ」グループはヒトラーを排除して米英軍と講和する計画を急ぐようになった。
この頃にはヴィッツレーベン元帥、ベック退役上級大将、ヘプナー退役上級大将、トレスコウ少将の他に、国内予備軍一般軍務局局長フリードリヒ・オルブリヒト大将、陸軍通信部隊司令官エーリッヒ・フェルギーベル大将、ベルリン防衛軍司令官パウル・フォン・ハーゼ中将、参謀本部編成部長ヘルムート・シュティーフ少将、国内予備軍参謀長クラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐を始め、数多くの将兵がグループに加わっていた。

暗殺実行者にはクラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐が選ばれた。彼は旧ヴュルテンベルク王国の貴族の出で、1943年4月に北アフリカ戦線のチュニジアで負傷し、左目、右腕、左手の指二本を失っていた。そのため彼に対しては警戒も薄く、ボディーチェックもほとんど行われなかった。1944年6月20日、彼は国内予備軍参謀長に任命され、ヒトラーと直接会う機会が増えていた。彼の上官、国内予備軍司令官フリードリヒ・フロム上級大将は、グループに加わっていなかったが、彼らの企てを半ば黙認していた。

暗殺は、プラスチック爆弾を2個用意、起爆装置を作動させるスプリングを針金で締め付け、それを硫酸で10分間で溶かす時限装置を使い、爆発させる。その爆弾を入れた鞄を持ち歩き、暗殺実行可能と判断したら爆弾を作動させる予定だった。

《繰り返す計画延期》
1944年7月6日、シュタウフェンベルク大佐は、ベルヒテスガーデンにあるヒトラーの別荘ベルクホーフで行われた会議に出席し、この時初めて爆弾を携帯した。当初、シュティーフ少将が暗殺を決行してくれると期待していたようだが、彼が実行せず失敗した。
7月11日のベルクホーフでの会議。しかしこの日、ヘルマン・ゲーリングとハインリヒ・ヒムラーが出席していなかった。この時点では「黒いオーケストラ」グループは、ヒトラーと共に他のナチス首脳も暗殺すべきだと考えていた。彼らはゲーリングは特に問題視しなかったが、親衛隊指導者ヒムラーは暗殺せねばならないと主張。彼が生存していると、親衛隊と陸軍の間で内乱になる恐れがあったからだ。シュタウフェンベルクは会議を抜け出しオルブリヒトに連絡。ヒムラー不在を告げると、オルブリヒトは計画中止を指示。落胆した彼はシュティーフに向かって「こん畜生め!行動すべきではないのか?」と口にしたという。
7月14日、ヒトラーは予告なしでベルクホーフから、東プロイセンのラステンブルクの総統大本営「ヴォルフスシャンツェ(狼の砦)」へ移動。一方、シュタウフェンベルクは、国内予備軍司令官フリードリヒ・フロム上級大将と共に7月15日に出頭し、東部戦線へ投入する新しい師団立ち上げについて報告するよう命じられた。彼は1942年秋以来「ヴォルフスシャンツェ」へ行った事が無く土地勘は無かったが、今やヒトラーがベルクホーフに戻るのを待つ時間は無く、総統大本営での暗殺決行を決意した。 2人がベルリンを発った後、ベントラー街のオルブリヒト大将とその副官アルブレヒト・メルツ・フォン・クイルンハイム大佐は、フロムの留守を好機に「ヴァルキューレ作戦」を発動。ベルリン郊外の陸軍学校と予備訓練部隊に最高レベルの緊急出動態勢を取らせた。事前に「ヴァルキューレ作戦」を発動したのはこの時だけだった。
7月15日もヒムラーは会議には出席していなかった。彼の欠席を確認後、シュタウフェンベルクは会議室を抜け出し、ベルリンのクイルンハイム大佐に連絡。ヒムラー不在だが、それでも決行したいので許可が欲しい旨を伝えた。クイルンハイムはそれをオルブリヒト、さらにベック、ヘプナーにも伝えたが、将軍たちは計画中止を命じる。シュタウフェンベルクは「僕ら2人で決めるしかない」と言い、将軍たちの指示を無視する事を提案した。クイルンハイムも「やりたまえ」と答えたが時すでに遅し、会議はその後すぐに終了してしまった。一方、オルブリヒトたちは「あれは演習だった」としてベルリンの警戒態勢を解除して取り繕った。後刻この「間違った警報」の件でカイテル元帥がフロム上級大将を叱責し、さらにフロムがオルブリヒトを叱った。ただ、かろうじてクーデターの真意は隠し通せた。シュタウフェンベルクは意気消沈してベルリンへ戻ると、クイルンハイムと話し合う。2人は、次のチャンスには将軍たちの意向は無視しよう、ということで一致した。
7月19日、翌20日午後1時から総統大本営で開かれる作戦会議に予備軍幕僚を派遣するよう再び命令が下り、シュタウフェンベルクと副官ヴェルナー・フォン・ヘフテン中尉が出頭する事になり、今回はフロムは招集されなかった。このように、1944年7月には、何度か暗殺計画が企てられたが、決行せずに延期が繰り返された。

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政治に不満があるのなら、自分の権利を行使しろ。あなたの1票が何かを変える。 

本日は、第27回参議院議員選挙の投票日でございます。


でも、人の意見に流されてはいけません。
政治家はおいしい言葉をならべアナタを惑わせます。
ネットで垂れ流される情報が正しいとは限りません。鵜呑みにしてはいけません。 
気になる情報は深掘りし、自分で考え投票しましょう。

(暑い日に並ぶのが嫌。と!言う不純な動機で期日前投票に行ったワタシ🤔まぁ、3連休は知人のお子ちゃまを預かるという国政より厳しく過酷な任務がございますので、期日前投票は苦渋の決断?🤣)
 
話しはかわりますが、恐らく世の中の情勢は与党に厳しいのでしょう。それなのに、野党の支持率が飛び抜けて高くなることが無い。ずっと一桁をキープ。与党も嫌だけど、野党も嫌ってこと?
結局、選挙は支持政党の無い無党派層の方々が政権のカギを握るのでしょう。



まぁ、何かを変えたければ投票しなさいニャー。

政治に文句があるのなら、アナタの貴重な1票で世の中を変えなさい。

わしに投票権はニャーですけど・・・。



7月20日はグレゴリオ暦で年始から201日目(閏年では202日目)にあたり、年末まであと164日ある。

====7月20日の記念日===
【月面着陸の日】
1969年のこの日、アポロ11号が月面の「静かの海」(月の表面にある巨大クレーター)に軟着陸し、人類が初めて月面に降り立った。(日本時間では7月21日早朝)。

ニール・アームストロング船長、マイケル・コリンズ司令船操縦士、エドウィン・オルドリン月着陸船操縦士、3名のクルーにより成功する。

アームストロング船長は

That's one small step for (a) man, one giant leap for mankind.

「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である」
とのメッセージを地球に送った。

これはオルドリン操縦士の足跡、アームストロング船長の足跡ではありません。





もしもし・・・?

もしもぉ~し!

( ̄へ ̄;)通信切れてる・・・?

メッセージ届いたのかなぁ?

アッ!

なんだぁ~♪

公衆電話があるじゃない・・・






(。_。*)))もしもし・・・

もしもし・・・あっ繋がった!

今ねぇ~♪

無事に月面にたどり着いたから、

みんな無事だから、取り敢えず報告しとくねぇ~。

あと、みんなにもお土産持っていくから(^^)/

それと・・・

それと・・・?

(;゜0゜)月面に猫が歩いてます





ウソじゃないよ・・・

確かに猫がね・・・

もしもし・・・Σ(-∀-;)

もしも~し・・・Σ(-∀-;)

あれ?

あれぇー?




(;゜0゜)帰る星が消滅したよ・・・ 


ちなみに重力は地球の6分の1



「世界宇宙飛行の日(4月12日)」
「宇宙の日(9月12日)」
「宇宙月間(9月1日から9月30日)」
「宇宙開発記念日(10月4日)」
「世界宇宙週間(10月4日から10月10日)」
「日本人宇宙飛行士記念日(12月2日)」


【ビリヤードの日】
1955年のこの日、ビリヤード場を風俗営業法の規制の対象外とする法案が成立した。
ビリヤードを健全なスポーツにしようとした眞鍋儀十衆議院議員の尽力によるものであった。

昨日は飲み過ぎたニャ~♪





(-_-;)何か変なモノが流れてきたニャ~





(-_-;)神聖な台で・・・

君たち邪魔ですニャ~♪




人は私を猫界の・・・
ポール・ニューマンと呼ぶニャ~


【ハンバーガーの日】
日本マクドナルドが1996年に制定。
1971(昭和46)年のこの日、東京・銀座の三越内に日本マクドナルドの1号店が開店した。
この日、1万人以上の客がつめかけ、1日で100万円以上の売り上げを記録した。
フライドチキンの日 11月21日

マックで売約済みですか?




ランチはマックですか?





うみゃ~ニャ~♪
(猫にハンバーグはNO!)





トニー・スタークもマック好き?





【Tシャツの日】
愛知県のファッションメーカー・ファッションミシマヤが制定。
「T」がアルファベットの20番目の文字であり、また、「海の記念日」がTシャツのイメージにふさわしいことから。


【独立記念日 [コロンビア]】
1810年のこの日、コロンビアがスペインから独立した。


【(旧)海の記念日】
1876年のこの日、明治天皇が東北地方巡幸の際、それまでの軍艦ではなく、灯台巡視の汽船「明治丸」によって航海をされ、この日に横浜港に帰着された。
1941年、当時の村田省蔵逓信大臣の提唱により制定された。
1996年に国民の祝日「海の日」になった。
海の日 7月第3月曜日


【(旧)海の日】
祝日法の改正により、2003年から7月の第3月曜日に変更された。
海の日 7月第3月曜日
7月第3月曜日
海の日(Marine Day)


【発泡スチロールの日】

====毎月20日の記念日===
【ワインの日】
日本ソムリエ協会が1994(平成6)年に制定。
フランス語で「ワイン」と「20」がともに「ヴァン」と言うことから。

【マイカーチェックデー】
阪神間7市が提唱。
兵庫県自動車整備振興会

【頭髪の日】

====6月21日~7月20日===
夏の健康を守る運動

====7月14日~7月20日===
港の衛生週間

====7月20日~7月30日===
海の旬間

====6月1日~7月31日===
海外安全キャンペーン

====7月1日~7月31日===
社会を明るくする運動全国強調月間
青少年の非行問題に取り組む全国強調月間
心とからだの健康づくり推進月間
「愛の血液助け合い運動」月間
河川愛護月間
海岸愛護月間
全国海難防止強調運動
採石災害防止月間
夏の省エネキャンペーン
「共に語ろう外交」月間
労働者派遣事業適正運営推進月間
船員保険失業保険金不正受給防止啓発強化月間
夏期食品一斉取締り月間
県産品推奨月間 [沖縄県]
(旧)オゾン層保護対策推進月間

====7月20日の出来事===
1876年
明治天皇が灯台監視船に乗っての東北地方巡幸を終え横浜港に帰着。(海の記念日、海の日の由来)

1907年
福岡・豊国炭鉱で爆発事故。死者365人を出す明治期最悪の炭鉱事故となる。

1912年
宮内省が「天皇陛下、尿毒症で重体」と官報で発表。株式市場が大暴落。娯楽場が休場。

1933年
ナチス・ドイツのフランツ・フォン・パーペン副首相とローマ教皇庁のパチェッリ枢機卿(後のローマ教皇ピウス12世)との間でコンコルダート(政教条約)に調印。教皇庁は聖職者の政治活動を禁止し、ナチスはカトリック教会の活動の自由を保証する。

1944年
第二次世界大戦: クラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐らを首謀者とするヒトラー暗殺未遂事件が発生(7月20日事件)。 

ヒトラー暗殺計画は、ヒトラー政権奪取後に単独犯と組織的なものを合わせて少なくとも42回企てられたといわれてる。
イギリスが計画した「フォックスレイ作戦」は7月13日から14日にベルヒテスガーデンのベルクホーフを訪れる間に狙撃による暗殺計画があったが中止されている。



(何度か映画化もされている)

1945年
第二次世界大戦・太平洋戦争・日本への原子爆弾投下: アメリカ軍がパンプキン爆弾による原子爆弾投下訓練を開始。

1951年
エルサレムを訪問中のヨルダン国王アブドゥッラー1世がパレスチナ人に暗殺される。

1969年
アポロ計画: 「アポロ11号」が、人類史上初めて月に到達。

1971年
マクドナルド日本1号店が東京銀座の三越内に開店。

1973年
ドバイ日航機ハイジャック事件。日本赤軍とパレスチナ解放人民戦線の混成部隊がパリ発羽田行きの日本航空機をハイジャック。

1976年
アメリカの火星探査機「バイキング1号」のランダーが火星に着陸。

1989年
ビルマの民主化運動指導者アウンサンスーチーが軍事政権により自宅軟禁下に置かれる。

1996年
海洋法に関する国際連合条約が、日本において発効。それと同時に海の日開始。(2003年からは、7月第3月曜日)

1998年
ターリバーンの命令により国際ケア機構・国境なき医師団などの医療従事者約200人がアフガニスタンを離れる。

2001年
宮崎駿の映画『千と千尋の神隠し』 が劇場公開。

2003年
熊本県水俣市宝川内地区にて土砂災害が発生。土石流により死者15名、負傷者6名

2010年
大韓航空機爆破事件の実行犯金賢姫が来日。田口八重子らの拉致被害者の家族と面会するなどし、8月23日に帰国。

2012年
アメリカ合衆国コロラド州にて、オーロラ銃乱射事件が発生。12人が死亡、50人以上が負傷。

2017年
サルバドール・ダリの娘を名乗る人物の要請に応じたマドリード裁判所の判決によって、ダリのDNA型を採取すべく墓から遺体が掘り出された。

2020年 

ロシアのプーチン大統領が、殺人容疑で逮捕されたセルゲイ・フルガル知事を解任。同知事は殺人容疑を否認しており、知事を支持する民衆は、数週間にわたって大規模な抗議デモを行っていた。



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