hiroチャンのブログ -347ページ目

詩的な優雅さと徹底的な現実主義とを両立させた女優・・・。




【イングリッド・バーグマン】-5-

死去
バーグマンは67歳の誕生日に当たる1982年8月29日に、長きにわたる乳がんとの闘病生活の末にロンドンで死去した。遺体はロンドンのケンサル・グリーン霊園で火葬に付され、遺灰がスウェーデンへと送られた。遺灰のほとんどはスウェーデン西海岸のブーヒュースレーン地方の小島にある漁村フヤルバッカ周辺の海に散骨された。この小島は、バーグマンが1958年から死去する1982年まで夏季の多くを過ごした場所だった。海に散骨されなかった遺灰は、ストックホルムの北霊園(Norra begravningsplatsen)の、バーグマンの両親が眠る墓の隣に埋葬された。

バーグマンの伝記作家ドナルド・スポート(Donald Spoto)はバーグマンのことを「エンターテインメント史上、もっとも国際的なスターであることは間違いない」としている。5カ国語をあやつって舞台、映画、テレビで活躍し、3つのアカデミー賞など数多くの賞に輝いた名女優だった。レスリー・ハワードと共演した1939年のアメリカでのデビュー作『別離』の公開以来、ハリウッドはバーグマンのことを、メイクアップを必要としない完全に自然体の他に類を見ない女優であると評価してきた。映画評論家ジェームズ・エイジーはバーグマンが「およそ人が想像しえる理想的な女性というだけでなく、彼女は演技というものを根本から理解していた。詩的な優雅さと徹底的な現実主義とを両立させた女優である」と語っている。
バーグマンは背が高く、自然体で、知的な女性であり、スウェーデン出身ではあったが流暢な英語を操った。映画評論家デイヴィッド・トムソン(David Thomson)はバーグマンが「つねに「本物の」女性であろうと努力していた」とし、多くの映画ファンがバーグマンを次のような女優だとみなしてきた。
1940年代初頭から半ばにかけて、バーグマンはこれまで類を見ないほどにアメリカから愛された。そして、スキャンダルの渦中にあったバーグマンが聖女ではなく激しい情熱を持つ女優のように振舞ったことが、大衆の愛情の裏返しとなって大きな騒ぎへと発展してしまった。
バーグマンのハリウッド時代初期の伝記を記事にした『ライフ』誌は「バーグマンの女優としての道のりは順風満帆で」「すべてがうまくいっており、バーグマンにはなにも心配することはなかった」としている。当時のバーグマンは、プロデューサーであるデヴィッド・O・セルズニックが素晴らしい役どころをバーグマンにもたらすマネジメントに十分満足していた。収入の面でもバーグマンは満足しており「私は女優であり、演じることに生きがいを見出しています。決してお金のためではありません」と語っている。『ライフ』誌はさらに「彼女(バーグマン)は、他のあらゆるアメリカ映画の女優よりも多才だった。彼女が演じた役は適応能力と感受性を求められるものばかりで、ほとんどの女優にとって演じることが非常に困難なものだった」としている。

バーグマンは8年間に及ぶがんとの闘病生活を続けながらも女優を止めることはなく、死去する直前に演じたゴルダ・メイア役でも国際的な賞を得た。スポートは「彼女(バーグマン)の精神は、驚くべき優雅さと勇気に満ちていた」と記している。映画監督のジョージ・キューカーは、バーグマンが映画界に果たした貢献についてバーグマンに「私がどれほど貴女のことを敬愛しているかご存知でしょうか、イングリッド。貴女の魅力は一言でいえば自然体であるということです。カメラは貴女の美しさ、演技、そして個性に惚れ込んでいます。映画スターには個性が必要ですが、その意味でも貴女はまさしく大スターといえるでしょう」と語ったことがある。ハリウッド・ウォーク・オブ・フェームにはエンターテインメント界に貢献した人物を称える星型のプレートがあるが、バーグマンのプレートもハリウッド大通り6759番地に存在する。

自叙伝
1980年にバーグマンは自叙伝『マイ・ストーリー』を出版した。アラン・バージェス(Alan Burgess)の協力で書き下ろされたこの自叙伝には、バーグマンの子供時代、女優としてのキャリア初期、ハリウッド時代、そしてロッセリーニとのスキャンダルとそれにまつわる出来事が綴られている。バーグマンがこの自叙伝を書くきっかけとなったのは、もしバーグマンがこのまま自身のことを何も語らないままであれば、噂やインタビューを通じてしかバーグマンのことが知られなくなることを危惧した子供たちの勧めによるものだった。また、ロバート・キャパと不倫関係にあったことが知られるようになったのも、この自叙伝を通じてのことだった。

バーグマンはアカデミー賞を3度受賞している。主演女優賞が2回、助演女優賞が1回である。2013年時点で、助演男優賞3回受賞のウォルター・ブレナン、主演男優賞2回、助演男優賞1回受賞のジャック・ニコルソン、主演女優賞2回、助演女優賞1回受賞のメリル・ストリープ、主演男優賞3回受賞のダニエル・デイ=ルイスと並んで、アカデミー賞受賞回数としては歴代2位である。歴代1位はキャサリン・ヘプバーンで、主演女優賞を4回受賞している。

1944年 アカデミー賞 主演女優賞 ノミネート『誰が為に鐘は鳴る』
1945年 アカデミー賞 主演女優賞 受賞『ガス燈』
1945年 ゴールデングローブ賞 主演女優賞 (ドラマ部門) 受賞『ガス燈』
1946年 アカデミー賞 主演女優賞 ノミネート『聖メリーの鐘』
1946年 ゴールデングローブ賞 主演女優賞 (ドラマ部門) 受賞『聖メリーの鐘』
1946年 ニューヨーク映画批評家協会賞 主演女優賞 受賞『白い恐怖』
1947年 トニー賞 演劇主演女優賞 受賞『ロレーヌのジャンヌ』
1949年 アカデミー賞 主演女優賞 ノミネート『ジャンヌ・ダーク』
1956年 ニューヨーク映画批評家協会賞 主演女優賞 受賞『追想』
1957年 アカデミー賞 主演女優賞 受賞『追想』
1957年 ゴールデングローブ賞 作品賞 (ドラマ部門) 受賞『追想』
1958年 ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞 主演女優賞 受賞『六番目の幸福』
1959年 英国映画テレビ芸術アカデミー賞 主演外国人女優賞 ノミネート『六番目の幸福』
1959年 ゴールデングローブ賞 主演女優賞 (ドラマ部門) ノミネート『六番目の幸福』
1959年 ゴールデングローブ賞 主演女優賞(ミュージカル・コメディ部門)ノミネート『無分別』
1960年 エミー賞 主演女優賞(ミニシリーズ/テレビ映画部門)受賞『ねじの回転』
1961年 エミー賞 主演女優賞(ミニシリーズ/テレビ映画部門)ノミネート『哀愁のモンテカルロ』
1970年 ゴールデン・グローブ賞 主演女優賞(ミュージカル・コメディ部門)ノミネート『サボテンの花』
1975年 アカデミー賞 助演女優賞 受賞『オリエント急行殺人事件』
1975年 英国映画テレビ芸術アカデミー賞 助演女優賞 受賞『オリエント急行殺人事件』
1976年 セザール賞 名誉賞 受賞 -
1978年 ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞 主演女優賞 受賞『秋のソナタ』
1978年 ニューヨーク映画批評家協会賞 主演女優賞 受賞『秋のソナタ』
1979年 アカデミー賞 主演女優賞 ノミネート『秋のソナタ』
1979年 ゴールデングローブ賞 主演女優賞 (ドラマ部門) ノミネート『秋のソナタ』
1979年 全米映画批評家協会賞 主演女優賞 受賞 『秋のソナタ』
1982年 エミー賞 主演女優賞(ミニシリーズ/テレビ映画部門)受賞『ゴルダと呼ばれた女』
1983年 ゴールデングローブ賞 主演女優賞(ミニシリーズ・テレビ映画部門)受賞『ゴルダと呼ばれた女』


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秋のソナタ





【イングリッド・バーグマン】-4-
ロッセリーニは自身の監督作品にセミプロの役者を配することが多く、ネオレアリズモの映画作品へのハリウッド映画スターの起用は、周囲に否定的に捉えられることもあった。バーグマンが最初にロッセリーニの映画に出演したときには「観客の期待を裏切る」演技を求められた。ロッセリーニからの演技指導はなく、バーグマンは「自らの考えで迫真の演技を着想する」ことを余儀なくされた。これはボンダネッラが「内省感を表現した新しい映画」と呼んだスタイルだった。ただしバーグマンは、ロッセリーニの「基本的な着想があるだけで、(撮影の進行と共に)ごく僅かずつ考えを深めていく」という手法を撮影前から知っていた。
ロッセリーニとの結婚生活がすでに破綻を来たしていた1956年に、バーグマンはジャン・ルノワール監督の『恋多き女』に主演した。『恋多き女』は恋愛コメディ作品で、バーグマンは政治的陰謀に振り回されるポーランドの公爵夫人を演じている。公開当時のこの映画は商業的に成功したとはいえなかったが、徐々にバーグマンの演技がもっとも優れている作品のひとつと見なされるようになっていった。

後半生(1957年-1982年)
1956年公開の『追想』でアナスタシア・ニコラエヴナを演じる
バーグマンは1956年の映画『追想』でアメリカ映画に復帰し、この作品で2度目のアカデミー主演女優賞を受賞した。この授賞式でバーグマンの代理としてオスカーを受け取ったのは、バーグマンの昔からの友人であるケーリー・グラントだった。
ロッセリーニとの不倫スキャンダルが発覚して以降、バーグマンがハリウッドで大衆の前に初めて姿を見せたのは、1958年度のアカデミー賞授賞式である。旧友ケーリー・グラントからの紹介を受けて作品賞のプレゼンターとしてステージにあがったバーグマンは、観客からのスタンディング・オヴェーションで迎えられた。その後のバーグマンはアメリカ映画とヨーロッパ映画の両方に出演し、ときにはテレビドラマにも出演している。1959年に出演したテレビドラマ『ねじの回転』ではエミー賞を受賞した。また、この時期のバーグマンはいくつかの舞台作品にも出演している。
1957年にロッセリーニと離婚したバーグマンは、1958年12月21日に演劇プロデューサーのラルス・シュミットと結婚したが、1975年に離婚している。シュミットと結婚してからバーグマンの映画出演の本数は減少していたが、1964年の『黄色いロールスロイス』以来5年ぶりになる映画『サボテンの花』で、ウォルター・マッソー、ゴールディ・ホーンと共演している。
バーグマンとロッセリーニとの不倫関係が一大スキャンダルとなったのは、当時のアメリカ合衆国上院議員エドウィン・ジョンソン(Edwin C. Johnson)が上院で二人を弾劾する演説を行ったことにも一因があった。その22年後の1972年に同じく上院議員のチャールズ・パーシーが、この演説に関して公式に謝罪の意を示している。また、1973年にバーグマンは、カンヌ国際映画祭の議長に選ばれた。

バーグマンは1974年に出演した『オリエント急行殺人事件』でアカデミー助演女優賞を受賞した。合計3つのアカデミー賞を手にしたバーグマンは名実共に最高の女優のひとりとなった。『オリエント急行殺人事件』の監督シドニー・ルメットは、当初バーグマンに重要な役であるドラゴミロフ公爵夫人を打診していた。ルメットはこの役を演じることによって、バーグマンがアカデミー賞を受賞するのは間違いないと確信していた。しかしながらバーグマンは、さほど重要ではないスウェーデン人宣教師グレタ・オルソン役に興味を示した。ルメットはバーグマンが演じた役について、次のように語っている。
彼女(バーグマン)は端役を選び、私にはその決心を変えることはできませんでした。彼女は愛らしくも頑固な女性だったといえるでしょう。とはいえ、あまりにグレタ・オルソンが小さな役だったために、私はひとつの決断をしました。彼女一人をスクリーンに写して、ひとつのテイクで5分間にわたって喋らせ続けたのです。ほとんどの女優はこのような演出を嫌がります。でも彼女はこのアイデアを気に入って、やりとげてくれました。彼女はあらゆる感情をこのシーンで表現しつくしました。このような経験は私にとっても初めてことだったのです。
バーグマンは母語であるスウェーデン語のほかに、ドイツ人の母親に教わったドイツ語、アメリカ滞在中に覚えた英語、イタリア滞在中に覚えたイタリア語、学校で習ったフランス語を話すことができた。バーグマンはこれらの5カ国語で喋る役を演じたこともあった。

『秋のソナタ』(1978年)
1978年にバーグマンはイングマール・ベルイマン監督のスウェーデン映画『秋のソナタ』に出演した。最後の映画となったこの作品で、バーグマンはリヴ・ウルマン演じる過去に見捨てた娘を訪ねるために、ノルウェーへと旅する裕福なピアニストを演じた。ノルウェーで撮影されたこの『秋のソナタ』で、バーグマンはアカデミー賞に通算7回目のノミネートを受けた。また、バーグマンはアメリカン・フィルム・インスティチュートが、1979年にヒッチコックへ生涯功労賞を授与したときの司会進行役を務めている。

『ゴルダと呼ばれた女』(1982年)
1982年にバーグマンは、イスラエルの女性首相ゴルダ・メイアを主人公としたテレビドラマシリーズ『ゴルダと呼ばれた女』の主役のオファーを受けた。この『ゴルダと呼ばれた女』はバーグマンの最後の出演作であり、二度目のエミー賞主演女優賞を受ける作品となった。オファーを受けたバーグマンは当初、世界的な著名人を演じることが想像もつかず、ゴルダ・メイアと自分とでは身長などの容姿があまりに違いすぎるとして出演に難色を示した。バーグマンの娘イザベラ・ロッセリーニは、バーグマンがこのオファーに驚いていたことと、プロデューサーが「大衆は貴女(バーグマン)を信用、信頼しています。それこそが私が求めているものなのです。ゴルダ・メイアも人々から信頼されていた女性だったからです」とバーグマンを説得しようとしたことを紹介し、さらに「そして母はこの言葉に心を動かされました」と語っている。さらにプロデューサーは、ゴルダが「スケールの大きな女性」であり、人々は実際よりもゴルダを長身の人物だと思っていたとしてバーグマンを説き伏せた。
バーグマンの伝記作家シャーロット・チャンドラーはこのゴルダ役が「彼女(バーグマン)にとって非常に重要な意味合いをもっていました。イングリッドは第二次世界大戦中にドイツでひどい過ちを犯してしまったという罪悪感に捕らわれ続けていたからです」としている。
チャンドラーは「イングリッドの急速な体調悪化は非常に深刻な問題となっていました。イングリッドの命を永らえさせることは不可能でした。彼女が患っていた癌は全身に転移しており、もしイングリッドの病状を本当に知っている人がいたのなら、この作品への出演を止めさせようとしたでしょう」としている。
そして完成した『ゴルダと呼ばれた女』を、バーグマンの死後に観た娘のイザベラは次のように語っている。
生前の彼女(バーグマン)はこのような女性ではありませんでした。母は強いといわれます。でも彼女はどこか傷つきやすい人でした。強さを見せるときもありましたが、本質的には弱い女性だったのです。ただ、母にはゴルダのような側面もあったのでしょう。彼女の演技を目にしたときにはとても驚きました。私が見たことがない、本物の勇気を持った母がそこにいたのです。
『ゴルダと呼ばれた女』の撮影中にもバーグマンの病状は悪化していったが、バーグマンが弱音を吐くことも態度に出すこともほとんどなかった。そして『ゴルダと呼ばれた女』が完成してから4カ月後にバーグマンはこの世を去った。『ゴルダと呼ばれた女』で受賞したエミー賞を、バーグマンの代わりに受け取ったのは娘のピアだった。

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自分の気持ちに正直だった、その結果が不倫という愛のカタチ・・・。




【イングリッド・バーグマン】-3-

ヒッチコック映画への出演。
バーグマンは『白い恐怖』(1945年)、『汚名』(1946年)、『山羊座のもとに』(1949年)と、3本のアルフレッド・ヒッチコックの監督映画作品に出演している。これらの映画のうち史劇の『山羊座のもとに』だけがカラー作品だが、『白い恐怖』や『汚名』ほどには評価の高い作品とはいえない。また、バーグマンは1940年代に俳優、演出家マイケル・チェーホフのもとで演技を学んでいた。チェーホフはバーグマンが主演した『白い恐怖』にブルロフ役で出演しており、これがチェーホフ唯一のアカデミー賞のノミネートとなっている。


『ジャンヌ・ダーク』(1948年)
バーグマンは1948年に公開された『ジャンヌ・ダーク』でもアカデミー主演女優賞にノミネートされた。この作品はマクスウェル・アンダーソンの戯曲『ロレーヌのジャンヌ』を原作としたもので、ウォルター・ウェンジャー製作、ヴィクター・フレミング監督、RKO配給の独立系映画作品である。バーグマンがこの映画で主役を射止めたのは、以前に戯曲版の『ロレーヌのジャンヌ』をブロードウェイの舞台で演じていたことも理由の一つとしてあげることができる。しかしながら『ジャンヌ・ダーク』は興行的成功を収めたとはいえない。この作品の公開中に、バーグマンとイタリア人映画監督ロベルト・ロッセリーニとの不倫スキャンダルが明るみになってしまったことにもその一因があった。さらに映画関係者からの評価もよくなく、複数のアカデミー賞にノミネートされ、撮影賞と衣装デザイン賞を受賞したが、最優秀作品賞を受賞することはできなかった。公開時にはオリジナルのストーリーから45分がカットされていたが、1998年にもとの長さに復元され、2004年にはこの完全版がDVDでリリースされている。
ハリウッドでのバーグマンは映画だけでなく舞台にも出演していた。『リリオム』、『アンナ・クリスティ』(Anna Christie)、そして『ロレーヌのジャンヌ』である。『ロレーヌのジャンヌ』のプロモーションのためにワシントンD.C.で開催されたプレス・カンファレンスの場で、バーグマンは自身が出演していた劇場で直接目にした、人種差別事件を非難したことがある。この出来事は大きな注目を集め、嫌がらせの手紙がバーグマンに届いたこともあった。またバーグマンは第二次世界大戦中にアラスカのアメリカ陸軍を慰問したことがある。さらにバーグマンは軍の慰問でヨーロッパにも渡り、戦争が引き起こす荒廃を目の当たりにした。有名なカメラマンロバート・キャパと知り合ったのもこの時期のことで、二人は一時期不倫関係にあったともいわれている。

私生活では・・・。
バーグマンは1937年に21歳で歯科医ペッテル・アロン・リンドストロームと結婚し、翌1938年9月20日には娘のピアが生まれた。『別離』の完成後にいったんスウェーデンに戻っていたバーグマンだったが、1940年に再びアメリカへ渡り、ブロードウェイで舞台女優を続けてハリウッドでの映画出演に備えていた。1941年には夫リンドストロームと娘ピアがアメリカを訪れ、ニューヨークのロチェスターに滞在している。このアメリカ滞在中にリンドストロームはロチェスター大学で薬学と外科学を学んだ。バーグマンはニューヨークに小さな家を借りて夫と娘を住まわせ、撮影の合間を見つけてはニューヨークを訪れ、数日間から数ヶ月間にわたって家族との時間を持っていた。
『ライフ』誌の記事では「リンドストロームは自身こそが家長であり、バーグマンも喜んでそのことを認めていると考えていた」とし、リンドストロームが「ハリウッドで飾りたてられた人工的な美女と関連性を持って見られることを毛嫌いしていた」ために、バーグマンは女優としての生活と私生活とをはっきりと分けていると断言していたと書かれている。リンドストロームは後にニューヨークからサンフランシスコへと居を移し、当地の私立病院でインターンシップを終えている。そしてバーグマンも映画出演の合間にサンフランシスコを訪れて、家族と共に過ごす生活を続けた。
バーグマンは1950年にイタリア映画『ストロンボリ/神の土地』に主演し、この作品の撮影中に不倫関係となった監督ロベルト・ロッセリーニとのスキャンダルが原因でハリウッドを離れヨーロッパへと戻った。そして『ストロンボリ/神の土地』が公開されたのと同じ月の1950年2月2日に、バーグマンとロッセリーニの間には息子ロベルティーノが生まれている。ロベルティーノが生まれてから一週間後にバーグマンはリンドストロームと離婚し、メキシコでロッセリーニと再婚した。1952年6月18日には双子の娘イゾッタ・イングリッドとイザベラが生まれた。しかしながら1957年にバーグマンとロッセリーニは離婚した。翌1958年にバーグマンは富裕なスウェーデン貿易商一家出身の演劇プロモータのラルス・シュミットと結婚したが、この結婚も1975年に破局している。

ロッセリーニとのイタリア時代(1949年-1957年)
バーグマンはアメリカ滞在中に目にした、イタリア人映画監督ロベルト・ロッセリーニの2本の映画に深い感銘を受けた。1949年にバーグマンは、自分がいかにロッセリーニの映画を賞賛しているか、いかにロッセリーニ監督作品への出演を望んでいるという内容の手紙をロッセリーニに送った。この縁でバーグマンが主演したロッセリーニ監督作品が、1950年の『ストロンボリ/神の土地』である。撮影中にバーグマンはロッセリーニに好意を抱くようになった。二人は不倫関係となり、バーグマンはロッセリーニの子供、レナート・ロベルト・ラナルド・ジュスト・ジュゼッペ・ロッセリーニを身篭った。
バーグマンとロッセリーニの不倫はアメリカでも大きなスキャンダルとなり、アメリカ上院議会でも二人の関係が非難されるほどだった。エド・サリヴァンは自身のTV番組エド・サリヴァン・ショウに、聴衆からの出演希望でバーグマンが一位だったにも関わらず、バーグマンを番組に呼ぼうとはしなかった。 しかしながら、エド・サリヴァン・ショウと同じくらいに人気のあったテレビ番組の司会者スティーヴ・アレン(Steve Allen)はバーグマンを自身の番組に出演させた。後にアレンは「私生活をもって芸術活動を断罪するかのような危険な賭けだった」と語っている。伝記作家ドナルド・スポートは、バーグマンが演じた役やキャラクターのイメージを壊さないために「高く自身を律していた」と指摘している。『聖メリーの鐘』では修道女を、『ジャンヌ・ダーク』では聖女を演じたバーグマンは後に「人々は私にジャンヌ・ダルクを重ね合わせ、聖女のような人物だと思っていました。そうではないのです。私はただの女、普通の人間なのです」と語っている。
ロッセリーニとのスキャンダルに追われるように、夫リンドストロームと娘ピアを残して、バーグマンはアメリカからイタリアへと戻った。そしてリンドストロームとは離婚が成立し、娘の養育権を巡る争いへと発展していった。バーグマンとロッセリーニは1950年5月24日に結婚した。二人の間には結婚前に生まれたロベルティーノと、1952年に双子の姉妹イゾッタ・イングリッドとイザベラが生まれた。長じてイザベラは女優、モデルに、イゾッタ・イングリッドはイタリア文学者となった。
1949年から1955年にかけて、ロッセリーニはバーグマンを主役とした映画を5本撮影した。『ストロンボリ/神の土地』、『ヨーロッパ一九五一年』、『イタリア旅行』、『火刑台上のジャンヌ・ダルク』、『不安』である。1953年にはオムニバスのドキュメンタリー映画『われら女性』の、ロッセリーニが監督した第三話に映画女優の本人役で出演した。ロッセリーニの伝記作家ピーテル・ボンダネッラは、バーグマンとロッセリーニの結婚生活での言葉を巡る意思疎通のトラブルが、ロッセリーニ作品の中核テーマである「倫理的価値観とは無関係な、孤独、品位、高い精神性」をもたらしたのではないかとしている。

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