女性からの誘いは断れない・・・。
オィ!オィ!オィ!
べっぴんさんが来たよ!
わざわざ今日も来てやったよ!
ヤルよ!今日もガンガンヤルよ!
寝かせないからニャ~♪

「えぇ~。また来たの・・・」
「今日はちょっと・・・」

(;`O´)ワレぇ~!!
乙女に恥かかすのかぁ~?
断るニャ!乙女の誘いを断るニャ
オマエを誘うのは、あたしだけや
|( ̄3 ̄)| アンタの戯言などぉ
聞こえニャですぅ。

『なんでぇ・・・Σ(-∀-;)』
『たまにはボクを誘ってニャ…』

黙らっしゃい!
私には選ぶ権利があるニャ~

『御姉様・・・ひどいッスぅ!』

〈誰も私を誘わないのですねぇ〉
〈...(;´0`)=旦''〉'

〈( ̄へ ̄;)無視かよ!〉
オラァ~♪オラァ~♪
ダーリン出てこいやぁ~♪

ガンガン!やるでぇ~♪
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On Her Majesty's Secret Service
【ジョージ・レーゼンビー】
George Lazenbyオーストラリア出身の俳優。2代目ボンド役が有名であり、歴代ボンドのなかでも唯一、ヨーロッパ圏以外の出身の俳優でもある。


本名:George Robert Lazenby
生年月日:1939年9月5日
出生地:ニューサウスウェールズ州クイーン・ベイヤン
国籍:オーストラリア
ジャンル:俳優
活動期間:1969年 -
活動内容:1969年:映画デビュー
主な作品
『女王陛下の007』
レーゼンビーは1939年、オーストラリアのニューサウスウェールズ州クイーン・ベイヤンに生まれた。高校を卒業後、キャンベラにあるモリス・モーター社で車のセールスマンをした。スポーツではスキーが得意で、スキーのインストラクターをしながら、いくつかの競技に出場した。またオーストラリア軍に所属し、軍曹の階級を得てマーシャル・アーツのインストラクターをした。除隊後、1964年にロンドンに移り住み、中古車のセールスマンを続けていたが、間もなくファッションモデルに転進、雑誌PB等の売れっ子モデルとなる。
俳優でなかったため、この当時の映像作品への出演はなかったが、チョコレートバーのテレビCMで脚光を浴びる。のちに『女王陛下の007』で監督をするピーター・ハントによれば『あのCMのおかげで誰もがレーゼンビーの顔を知っていた』という。
《二代目007》
ショーン・コネリーが映画007シリーズの主演降板を表明し、また、後に三代目を襲名するロジャー・ムーアとの出演契約の断念を受け、イオン・プロダクションは数百人からなる二代目007候補を検討した。結果、レーゼンビーがスクリーンテストに合格した。アクションの上手さをピーター・ハント監督に買われたことが要因だった。1969年にシリーズ第6作『女王陛下の007』でジェームズ・ボンド役に抜擢される。2人のプロデューサーのうち、アルバート・R・ブロッコリよりもハリー・サルツマンが強くレーゼンビーを推した。
二代目ボンドとしては存在感が薄かったが、原作ファンによる作品の再評価や、一本しか出演していないレア感から、年を重ねるごとに存在感を増している。
リーの急死により、1978年に追加撮影され完成された『死亡遊戯』は脚本も大幅に変えられたことから、オリジナルのキャストも一新され、レーゼンビーの出演も叶わなかった。
だがそれ以前に、『死亡遊戯』出演が流れた代わりとして、レーゼンビーはゴールデン・ハーベストとの間に3本の映画の出演契約を取りつけた。マーシャル・アーツの特技を活かし、ゴールデン・ハーベスト製作の香港映画『暗黒街のドラゴン 電撃ストーナー』(1974年、ファン・フェン監督)でアンジェラ・マオ(『燃えよドラゴン』)と共演、この作品の原題は007の当時の中国題名『鐵金剛』作品を思わせる『鐵金剛大破紫陽觀』である。続いて香港・オーストラリア合作映画『スカイ・ハイ』(1975年、ブライアン・トレンチャード・スミス、ジミー・ウォング共同監督)で悪役を演じてジミー・ウォングとも共演。両作品とも興行的には成功しており、彼のアクションが存分に生かされた。同時にGH社のブルース・リー死去後の国際マーケットへのアピールに一役買っている。また、ブルース・リーの幻の共演者として、リーのドキュメンタリー番組には頻繁に登場し、その回数は共演者をはるかに凌駕し、リーの長年の友人ジェームズ・コバーン(ともに共演経験無し)にも匹敵する。また、レーゼンビーはマカロニ・ウェスタンの巨匠、セルジオ・レオーネの『夕陽のギャングたち』の出演オファーを受けるが、これを拒否(本作は厳密にいえばマカロニ・ウェスタンではない)。代わりにコバーンが出演したという縁がある。
それ以降はアメリカ・サンタモニカに移り住み、レーサーをした。俳優としてしばしば、ボンドのパロディを演じている。1983年の『0011ナポレオン・ソロ2』では、『JB』の役名でタキシードを着てアストンマーティン・DB5に乗るイギリスのスパイを楽しげに演じた。この年はショーン・コネリー主演『ネバーセイ・ネバーアゲイン』とロジャー・ムーア主演『007 オクトパシー』が製作、公開され、世間を賑わせたが、同時に当時の歴代ボンド全員が揃い踏みの形になった(もっとも、レーゼンビーはボンドと思しき役であり、製作側は映画界で話題の「コネリーvsムーア」に当て込んでいた)。同作のプロデューサーは後に自身が製作したTVシリーズ『忍者ジョン&マックス』と『新・ヒッチコック劇場』にもレーゼンビーを起用、前者はブリティッシュエージェント、マロリー役でアストンマーティンDB5に乗り、ワルサーPPKを携え、白のタキシード姿で出演。後者では伝説的スパイ、ジェームズ役で主演する。このエピソードは『Diamonds aren't forever (直訳:ダイヤモンドは永遠ではない)』という題名だった。
近年は、DVD『女王陛下の007/アルティメットエディション:特典映像インタビュー』で姿を見せ、老け込んだ感はあるが、その存在をファンにアピールしている。英米で催される映画ファン向けのイベントにおいて、シリーズの元出演者のサイン会が企画される際にも、ボンドを演じた俳優としては唯一、頻繁にその顔を見せる。
日本ではあまり知られていないが、欧州と英語圏では一定の出演作とそれに応じた知名度があり、ボンド役の契約を結びながら、イオン・プロの都合でキャンセルされたジョン・ギャビンや、ジェームズ・ブローリンよりも有名である。
現在は俳優業のかたわら、実業家としての活動をしている。不動産投資などをしてハワイ、カリフォルニアやオーストラリアの牧場、香港の建物を多数所有している。
ロジャー・ムーアとは頻繁に連絡を取り合う中であった。
《主な出演作》
1969
女王陛下の007/On Her Majesty's Secret Service ジェームズ・ボンド役
死んでいるのは誰?/Chi l'ha vista morire?
1974
暗黒街のドラゴン 電撃ストーナー/The Stoner
1975
スカイ・ハイ/The Man from Hong Kong
密室の人妻襲撃事件/Is There Anybody There? テレビ映画
1977
ケンタッキー・フライド・ムービー/The Kentucky Fried Movie
1978
ハイジャック'78/米三大都市核攻撃全滅計画/Evening in Byzantium テレビ映画
1981
ラスト・ハーレム/美女学園に隠された愛欲の罠/L'ultimo harem Prince Almalarik
1983
0011ナポレオン・ソロ2/Return of the Man from U.N.C.L.E. J.B. テレビ映画
1986
ネバー・トゥー・ヤング/Never Too Young to Die
1988
ヘル・ハンター/Hell Hunters
1992
ビホルダー/狂気の暴走/Eyes of the Beholder
1993
エマニュエル 愛欲のチベット/Le secret d'Emmanuelle テレビ映画
ゲティスバーグの戦い/南北戦争運命の三日間/Gettysburg
1996
トゥモロー・ネバー・デッド/007は殺しの暗号/Fox Hunt Chauncey
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Black September -2-
【ミュンヘンオリンピック事件】
M・nchner Olympia-Attentat
1972年9月5日、旧西ドイツのミュンヘンでパレスチナ武装組織「黒い九月」により行われた人質事件。実行グループの名前から「黒い九月事件」とも呼ばれる。
ミュンヘンオリンピック開催中に発生し、イスラエルのアスリート11名が殺害された事件として知られる。
-2-
人質救出作戦の被害拡大を招いたとされる失敗の主な要因としては。
人質救出作戦に従事した警察官のほとんどは地元警察の一般警察官であり、現場指揮官や実行者には、テロ対策などの高度な専門訓練を受けた経験がほとんど無かった。
情報不足の上、マスコミの実況中継で警察の動きは犯行グループ側に筒抜けだった。
基地には簡易な作業灯しかなく、強力な照明装置や暗視装置等が無かったにもかかわらず深夜の狙撃を断行した。
当時は携帯型無線が大型で、運用には大規模設備と専門要員が必要であったため部署や現場間での連絡が困難であった。
狙撃手の銃はスコープの付いていない通常型の警察用アサルトライフル(H&K G3)であったため、精度の高い射撃が行えず、作戦上必要である高度な狙撃ができる状況ではなかった。
犯人は5人しか居ないという間違った情報から作戦を立てたために5人の狙撃手しか用意しておらず、その「狙撃手」にしても射撃の成績が良いという理由で集められた一般警察官であり、狙撃の専門的な訓練を受けていなかった。
ヘリコプターが所定の位置とは異なる場所に着陸したため、着陸段階から狙撃が不可能になっていたにもかかわらず、計画をそのまま続行させた。
犯人を油断させるために用意したルフトハンザ機には、警察側が待ち伏せを準備していたが、待ち伏せ配置に就かされた警察官に与えられた装備は拳銃と少数の機関短銃であり、自動小銃や手榴弾を装備しているテロリストグループに対しては不十分であった。これを理由に直前で抗命されたので、急遽、多数決による意思決定を行い反対多数であったため、警察官達は職務を放棄してしまい機内には誰もいなかった。これは前述のようにテロリストを警戒させ、作戦の破綻を決定的にした。
これらの多くは、州権主義・平和主義的な色彩の強いボン基本法上の制約によって、平時における西ドイツ連邦軍のドイツ国内での(準)軍事行動が認められていなかったことに起因する。
その後1973年12月28日、イスラエル選手団居住棟が、マックス・プランク研究所に寄付され、集会所などとして利用されることになった。
1977年1月、PLOのメンバーで、黒い九月の創始者の1人、アブ・ダウドがパリで逮捕された。
西ドイツ当局はこの事件について、公式に調査・検証を行うことなどはしていない。
西ドイツ政府はこの事件の結果を受け、対テロ特殊部隊の国境警備隊第9グループを創設した。また、狙撃に失敗した教訓を取り入れて、銃器メーカー各社にセミオートの狙撃用ライフルの設計を依頼、これに応じH&K社はPSG-1を開発した。ワルサー社もWA2000を開発したが、採用には至っていない。この事件をきっかけとして、先進国は遠距離からの狙撃が行える50口径クラスの大口径ライフルの開発を行った。
これを機に選手村の警備が強化され、関係者以外の出入りができなくなった。
《イスラエルによる報復作戦》
この事件に対し、イスラエル政府は報復として空軍にPLOの基地10カ所の空爆を命じた(イスラエルによるシリア・レバノン空爆(1972年))。これにより、65名から200名が死亡した。
《神の怒り作戦》
イスラエルは空爆に続いて、さらなる報復および同様のテロの再発を防ぐことを名目に、黒い九月メンバーの暗殺を計画。ゴルダ・メイア首相と上級閣僚で構成される秘密委員会を設置した。委員会はイスラエル諜報特務庁(モサド)に対して、ミュンヘンオリンピック事件に関与した者の情報収集を行なわせ、これに基づき委員会は暗殺の対象を決定、モサドの「カエサレア」と呼ばれる特殊部隊に暗殺を指示していたとされる。
この秘密作戦には「神の怒り作戦」もしくは「バヨネット作戦」というコードネームがつけられているとされる。
作戦の開始
最初に暗殺されたのはアラファト議長のいとこで翻訳家のワエル・ズワイテルであった。黒い九月のメンバーでもあった彼は、1972年10月16日、ローマの自宅アパート内で射殺されている。その後もモサド工作員はターゲットを銃、あるいはリモコン式の爆弾で次々と暗殺した。
1972年12月8日、黒い九月のブレーン的存在であったマフムド・ハムシャリ博士がパリのアパート内に仕掛けられた爆弾で負傷。彼はこの時の怪我がもとで1か月後に亡くなった。
1973年1月24日にはPLOとソ連KGBのリエゾンであったフセイン・アバト・アッ・シルがキプロスの首都ニコシアのホテルで爆殺された。
《黒い九月の反撃》
黒い九月も反撃を開始し、モサドの工作員、協力者などを殺害している。
1972年11月13日、モサドの情報提供者であるパリ在住のシリア人ジャーナリストが射殺され、翌年1月26日にはモサド工作員のバルク・コーエンがマドリードの目抜き通りで射殺された。
《ベイルート特攻作戦》
イスラエル軍とモサドは1973年4月9日、ベイルートにあるPLOと黒い九月の幹部らが宿泊していたアパートを奇襲した(イスラエルによるレバノン襲撃(1973年))。
PLOの公式スポークスマンであるカマル・ナサラ、黒い九月の幹部ユーセフ・ナジャール及びカマル・アドワンの3名を殺害。この時、暗殺部隊はイスラエルから船でベイルートに移動し、敵の目を欺くために半数は女装していたが、警備兵に気付かれて銃撃戦になり、強行突入の末に幹部を射殺したとされる。当時のベイルートはPLOの本拠地であり、敵中における軍事作戦であった。部隊を指揮していたのは後のイスラエル首相となるエフード・バラクで、彼も女装して幹部らのアパート襲撃に加わった。
その後も暗殺は続けられ、1973年6月28日には黒い九月の欧州責任者モハメド・ブーディアがパリで車に仕掛けられた爆弾により死亡している。
暗殺計画の露呈
モサドによる暗殺計画は、人違いにより無関係な一般市民を射殺したことから明るみに出ることになる。ノルウェーのリレハンメルで1973年7月21日、モサドはミュンヘンオリンピック事件の黒幕とされるアリ・ハッサン・サラメらしき男性がバス停にいるところを射殺したが、この男性は全く無関係のモロッコ人であった。この事件でモサド工作員5名はノルウェー捜査機関に逮捕され、車や名簿などが押収された。この時逮捕された工作員が、ヨーロッパ各国におけるモサドの暗殺計画を自白したため、ヨーロッパ各国はイスラエルの行動に懸念を示すことになるが、モサドによるサラメの暗殺計画は続行された。
《サラメの暗殺》
その後、モサドはベイルートにサラメがいることを突き止めると、イギリス国籍を持つ女性工作員のエリカ・チャンバースをベイルートへ派遣する。
チャンバースは難民を支援する慈善活動家を名乗ってベイルートで活動し、サラメの行動確認を行った。
1979年1月22日、暗殺部隊とチャンバースは彼の車が通る場所に車爆弾を仕掛け、通過した際に彼を車ごと爆破して殺害した。チャンバースは暗殺後すぐに出国して姿を消し、サラメの殺害により作戦は終結したとされる。
これらの作戦についてイスラエルとモサドは正式な発表を行なっていないが、20名以上のパレスチナ武装組織の人間が暗殺されたといわれる。
2005年に公開されたスティーヴン・スピルバーグ監督の映画『ミュンヘン』はこの「神の怒り作戦」に関わったアヴナー(仮名)という工作員の実話に基づくものとされている。しかし、イスラエル政府やモサドの元高官などはこの事を否定している。
神の怒り作戦により多くのパレスチナ人が暗殺されたが、一方で暗殺をかろうじて免れた人物も存在する。
黒い九月の創設者であるアブ・ダウードは2010年7月に腎不全で死去するまで暗殺を免れた。
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