食糧が尽きた時、生存者達は一つの結論に達した・・・2
生存者のひとりナンド・パラードの著書で2006年に出版された『アンデスの奇跡:72日間を生き延びて山脈から生還』ではこう綴られている。
「 高山では、身体に必要なエネルギーは膨大だった。…新たな食料を発見するという望みはなく、我々は本気で飢えていた。我々は新たな食料を探し求めて機内を捜索した。…何度も胴体の中を探し回り、モーゼルで山を登った。我々は、荷物の断片である革片を、それに使われている化学物質が身体に与える益よりも害が大きいことを知りながら食べようとした。我々は藁を見つけようとして多くの座席やクッションを切り裂いたが、藁は使われていないことがわかった。…我々は何度も同じ結論に達した。我々が着ていた衣服は食べられないし、アルミニウム、プラスチック、氷、岩石以外に何もここにはなかった。 」
乗客は全員カトリック教徒だったが、ピアス・ポール・リードが、問題となっている行為は聖餐(せいさん)と同一視されると主張した。それは唯一の生存の方法であった。他の人々は、そのことを祝福したが救出後にその行為が発覚したときには態度を翻している。
10月23日(月)
生存者たちは、機体の中で発見したラジオを通して、捜索隊が自分たちを発見出来ないまま捜索を中止したことを知った。
雪崩の後に、数人の少年たちは生存の唯一の手段が山頂に登って救援を求めることであると執拗に訴えた。機体はクリコを通過したという副パイロットの主張により、一行はチリの農村部が西へわずか数マイルの地点にあると仮定した。少年達の中で最も強健で健康状態の良かったヌマ・トゥルカッティ、ダニエル・マスポンス、グスターボ・セルビーノの3名が提案に基づき出発し、雪上に残っている機体が滑り落ちた跡を登った。
10月24日(火)
3人は、機体の尾部を発見しようとして山を登った。途中で翼の断片と機外に放り出された行方不明者5名(乗客3名、乗員2名)の遺体を発見した(死亡18名、生存27名)。尾部は発見出来なかった。厳寒の高山を夜通し歩くのは困難が多いと考え、遠征を思いとどまり、山頂に一泊して機体に戻った。
10月29日(日)
生存者たちが機体の中で眠りにつこうとしていたとき、雪崩がすさまじい勢いで機体の中に流れ込み、機体の中で横たわっていた全員を埋め尽くした。比較的浅く埋まった人は、雪で埋まった人を救おうとしたが、19人の生存者を残して8人が死亡した(死亡26名、生存19名)。3日間、機体は数フィートの雪の下に埋まり、生存者たちは非常に狭く閉じ込められた中で生き延びた。
10月30日(月)
猛吹雪で機外に雪が蓄積されていく中、狭い機内に閉じ込められたままヌマ・トゥルカッティの誕生日を祝った。
10月31日(火)
ヌマ・トゥルカッティと同様に、カルロス・パエスの誕生日を祝った。
1972年11月
11月1日(水)
嵐は去り、空は晴れた。生存者たちは機内の材料で雪を掻き出す道具を作り、それを使って機内から雪を取り除き、遺体を掘り出した。また、この日はアルフレド・"パンチョ"・デルガドの誕生日でもあった。ロベルト・"ボビー"・フランソイスとコチェ・インシアルテは山を100メートルほど登ったが途中で引き返した。数日後、ヌマ・トゥルカッティとホセ・ペドロ・アルゴルタは機体の翼に登った。
11月5日(日)
ナンド・パラードとロベルト・カネッサの他に誰が最終的な救助を求める遠征に同行するかを決めるために、精神的・肉体的なテストをすることとなった。このために、カルロス・パエス、ロイ・アル、アントニオ・"ティンティン"・ビシンティンの3人が山の下側に2日間遠征した。3人は、機体の後部ドアと、アルミニウム容器2個、コーヒーの残り3分の1を発見した。日没までに機体へ戻るのは不可能だった。パエスとアルレーは遠征の苦しみに耐えられず、ビシンティンが同行することになった。
11月15日(水)
アルトゥーロ・ノゲイラが足の負傷の炎症が元で死亡した(死亡27名、生存18名)。遠征隊は、機体を出て西に向かうつもりだったが、気象条件が悪化し、3時間後に引き返した。
11月17日(金)
数回の遠征挑戦のあとに、ナンド・パラード、ロベルト・カネッサとアントニオ・"ティンティン"・ビシンティンを含む最終グループが結成された。ロベルト・カネッサの主張で、3人はまず、尾部を発見するために山脈の東へ向かおうとした。
11月18日(土)
3人の遠征隊は北西に向かって進み、機体の尾部を発見した。スーツケースが数個あり、中身は煙草と残飯と衣服とボール箱だった。また残飯および、漫画雑誌、衣服、煙草を発見した。アントニオがポールに巻き付けられた断熱材を発見した。これは、後に彼らの脱出の鍵となった。尾部の内部でよく保存された状態のバッテリーを発見した。3人はそこで夜を過ごした。
機体では、ラファエル・エチャバーレンが死亡した(死亡28名、生存17名)。
11月19日(日)
バッテリーが非常に重かったので、バッテリーを機体まで運ぶ代わりに機体から無線機を尾部まで持って来ることに決めた。3人は機体に戻り、スーツケースの山から発見したものを仲間に示した。
11月23日(木)
ロベルト・"ボビー"・フランソイスの誕生日で、生存者たちは、彼に煙草1箱を誕生日プレゼントとして与えた。ロベルト・カネッサとナンド・パラードは機体から無線機を取りはずした。
11月24日(金)
アントニオ・"ティンティン"・ビシンティンおよび、ロベルト・カネッサ、ナンド・パラード、ロイ・アルレーが、長く苦しい距離の中、1時間半かけて無線機を尾部まで運んだ。到着すると、雪解けによって前回より多くのスーツケースが露出していた。ロイ・アルレーは無線機の修理に取りかかった。
11月25日(土)
少年達が遠征から帰還した後、尾部に同行したロイ・アルレーは気が進まないながら修理を手助けしたが、より若いひとりと電気工学の専門家が11月25日から11月29日の間に修理を続けた。
11月26日(日)
持ってきた食料が尽きたので、パラードとビシンティンが機体へ戻った。アルレーとカネッサは、無線機の修理を続けるために尾部に残った。
11月28日(火)
パラードとビシンティンがより多くの食料を尾部に運んで来た。生存者たちはトランジスタラジオによってウルグアイ空軍のC-47が彼らの捜索を再開したことを知った。
11月29日(水)
無線機が修理出来ないことが判明したので、彼らは機体に引き返した。そのときはわからなかったが、無線機はバッテリーで駆動していたのではなく、機体のエンジンが発生させる電力で動作していた。
西に向かうことが唯一の生存の方法と彼らは考えていたが、厳寒の夜を数日間乗り切らなければならなかった。寝袋を作ることが提案された。
1972年12月
生存者のひとりナンド・パラードは、34年後の2006年の著書『アンデスの奇蹟-南米アンデスの高山に墜落した旅客機 生還者みずからが語る72日間の真実』(en)』でこのときの寝袋について綴っている。
「 2度目の挑戦では、日没後の外気への露出から身を守らなけらばならなかった。我々が死にそうなほどに夜はまだ寒く、一年のこの時期、昼間でも、広く露出したスロープでは避難出来ないことは分かっていた。凍死することなく長い夜を乗り切る方法が必要だった。我々は、尾部で断熱材が巻き付いたポールを発見して解決した。(中略)遠征について皆で議論し、一緒にパッチを縫うことで、大きく暖かいキルトを作れると分かった。我々はキルトを半分に折り重ね、継ぎ目を縫い合わせて、3人が遠征に耐えられるだけの断熱性のある寝袋を作った。3人の体温が断熱布によって保持されるなら、最も寒い夜を乗り切ることが可能かも知れなかった。
カルリトス・パエスが作業をやってみると言った。彼は、少年だったときに母から裁縫を教わっていた。母の化粧箱から裁縫用の針と糸を見付けて作業に取りかかった。(中略)彼は他の生存者たちにも裁縫を教え、交代で作業を行った。(中略)我々の中で、コチェおよび、グスターボ、フィトが最も仕立て作業が速いことが分かった。
」
12月9日(土)
ナンド・パラードの誕生日で、尾部で見付かった葉巻を他の生存者たちが誕生日プレゼントとして与えた。
Uruguayan Air Force Flight 571 ・・・1
【ウルグアイ空軍機571便遭難事故】
Uruguayan Air Force Flight 571
1972年10月13日にウルグアイ空軍の571便機がアンデス山脈に墜落した航空事故である。
《出来事の概要》
日付:1972年10月13日
概要:航空管制の誤誘導
現場:アルゼンチン / チリ国境付近・アンデス山脈
乗客数:40
乗員数:5
負傷者数:(死者除く)0
死者数:29
生存者数:16
機種:フェアチャイルドFH-227D
機体名:571
運用者:ウルグアイ空軍
機体記号:T-571
出発地:ウルグアイ
目的地:アルトゥーロ・メリノ・ベニテス国際空港
乗員乗客45名のうち29名が死亡したが、16名は72日間に及ぶ山中でのサバイバル生活の末に生還した。この出来事は奇跡的として多方面からの注目を浴びるが、同時に生存者が遭難中にとった行動をめぐり物議を醸すことともなった。
《事件の流れ》
1972年10月12日(木)
ステラ・マリス学園 (Stella Maris College) のキリスト教徒からなるラグビー選手団とその家族や知人を合わせた一行40名が、チリのサンティアゴでの試合に向かった。一行と乗員5名の計45名はウルグアイ空軍の双発ターボプロップ機フェアチャイルドFH-227Dでモンテビデオにあるカラスコ国際空港を出発したが、アンデス山脈での天候不良のため、アルゼンチンのメンドーサで一泊することとなった。
10月13日(金)
飛行機の上昇可能高度上限が9,000 m (30,000 ft)である上に悪天候であったために、メンドーサから直接アンデス山脈を越えてサンティアゴまで飛行することは出来なかった。そこで、メンドーサからアンデス山脈にそって南下し、山脈の切れ目であるプランソンを西に通過してクリコ (en) のすぐ南の地点で山脈を抜け、そこから山脈のチリ側を北上してサンティアゴに向かうこととなった。
天候が回復したため、飛行機は午後にメンドーサを出発してすぐに山脈の切れ目を通過していた。ここでパイロットはサンティアゴの航空管制官に対して現在地点がクリコであると通知したが、これは後に致命的な過ちだったと判明した。コースが雲に覆われていたので、パイロットは標準的な通過時間を計算することで西から北に方向を変えるタイミングを図った。しかし、実際には、強い向かい風で機体が減速していたために、山脈の切れ目を抜けるには通常よりも長く時間がかかるはずだった。そのため、山脈の西側に十分に達していないうちに北上を開始した。
山々を深く覆う雲の中に突入して間もなく、当時は無名だった峰と1度目の衝突をした (CFIT)。この峰は後にセレール峰 Cerro SelerまたはGlaciar de las L・grimas、Glacier of Tearsと名付けられた。衝突地点はソスネアド峰 (Cerro Sosneado) とティンギリリカ火山 (en) の間の人里はなれた山地であり、チリとアルゼンチンの国境にまたがる高度4,200メートルの地点だった。吹き飛んだ右翼で垂直尾翼が切り取られ、胴体後部に穴が空いた。別の峰との再度の衝突で左翼も無くなり、機体はただの空を飛ぶ胴体だけとなった。機体は、飛んできたプロペラによって切り裂かれたのちに、地面に衝突し、険しい崖を滑落して最終的に雪に埋まって停止した。また機体の尾部は多くの荷物を積んだまま胴体とは分離して別の場所へ滑落した。乗客3名と乗員2名が機外に放り出され、9名が即死し、負傷が元で初日中に3名が死亡した(死亡12名、行方不明5名、生存28名)。
残った28名は凍てつくように寒い高山でどうやって生存するかという難問に直面した。防寒着や雪を踏み分ける防寒靴などの装備がなかった。雪眼炎を防ぐサングラスもなく、最後の生存者のひとりである24歳のアドルフォ・"フィト"・ストラウチは、操縦室のサンバイザーを加工してサングラスを作り、目を守った。多くの人が墜落直後に席から放り出されたことによって足を骨折していたが、医療品もなく、生存した医大生2名が航空機の支柱で添え木を作った。
ウルグアイ、チリ、アルゼンチンの3ヶ国から成る捜索隊が捜索を開始したが、フェアチャイルド機の外装は白かったので、積雪に混じり合い、空からの発見は非常に困難だった。捜索は開始から8日後の10月21日に中止された。墜落から11日後に、生存者のロイ・アルレーは、機内にあったトランジスタラジオで捜索が中止されたというニュースを聞いた。ピアス・ポール・リードは著書『生存者(原題: Alive: The Story of the Andes Survivors)』(生存者のインタビュー文書を題材にしている)でこれに触れている。
「 ニュースを聞くと、ロイの周りに居た生存者たちは、パラード以外全員すすり泣き、祈り始めた。パラードは冷静に西にそびえる山を見上げた。グスターボ・ココ・ニコリッチは、機体から出て、彼らの顔を見て、彼らが何を聞いていたかを悟った。そして、スーツケースとラガーシャツで薄暗い胴体の入り口へ登り、振り返ると「ほら、少年!」と叫んだ。「朗報だ! ラジオを聞いた。捜索が中止された。」機体の中は沈黙していた。皆は見込みのない状況に涙した。パエスは怒って「一体それのどこが朗報だ?」と叫んだ。「その意味するところは」とニコリッチは言った。「我々が自分たちでここを脱出するということだ。」この1人の少年のおかげで、完全な絶望に陥ることは防がれた。」
生存者たちは板チョコレート数枚と、その他のスナック菓子、ワイン数本という少量の食料を持っていた。墜落後の数日間、彼らはこの食料が尽きないように少量を分配した。
救援を求めるために、コックピット無線機を使用しようとしたが、無線機の出力が全くないことが判明した。その後死亡する航空機関士は、墜落後に脱落した機体の尾部にバッテリーが積み込まれていたために電源がなくなり通信ができないと説明した。
10月15日(日)
アドルフォ・"フィト"・ストラウチは、空になったワインボトルに雪を詰め、金属片で突いて雪を溶かして水を溜める工夫をした。フェルナンド・"ナンド"・パラードは意識を回復し、危篤状態にあった妹スサーナを看病した。正午以降、3機の航空機が通過するのを目撃した。少し遅い時間に飛来した1機は機体の残骸の至近距離を通過し、翼を振った。生存者たちは、発見されたと信じた。午後に、ラグビーチームのキャプテンのマルセロ・ペレスは、支給された食物の一部が誰かに食べられていることを発見した。
10月16日(月)
ロベルト・カネッサは、酷い傷を負ったラファエル・エチャバーレンのためにハンモックを組み立てた。アドルフォ・"フィト"・ストラウチは、足にシートのクッションを取り付けることで雪上を歩けることを発見した。
10月17日(火)
カルロス・パエス、ヌマ・トゥルカッティ、ロベルト・カネッサ、アドルフォ・"フィト"・ストラウチは、脱落した尾部を探そうとして墜落地点から出て尾根の反対側に向かったが、結局何も見つけることが出来ずに体力を消耗して引き返した。
10月21日(土)
スサーナ・パラードが彼女の兄であるナンドの腕の中で死去した(死亡13名、行方不明5名、生存27名)。
10月22日(日)
配給管理された食糧が尽き、自然植生植物も動物も雪で覆われている山には存在しなかった。機体内で議論が行われ、ロベルト・カネッサは仲間の遺体を人肉食して生存を続けることを主張した。何人もの生存者が食べることを拒否したが、ロベルト・カネッサが主導権を握った。この決定は人肉食する相手のほとんどが彼らの親友・級友であったので軽い決定ではなかった。
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Grenzschutzgruppe 9
【GSG-9】
(独語読み:ゲー・エス・ゲー・ノイン、英語読み:ジー・エス・ジー・ナイン)
ドイツの連邦警察(BPOL)に所属する特殊部隊で、世界の警察系特殊部隊の代表的な存在である。

部隊名
現在の正式な部隊名は連邦警察GSG-9(ドイツ語: GSG 9 der Bundespolizei)であり、GSG 9 BPOLと略される。かつては第9国境警備群(Grenzschutzgruppe 9)が正式な部隊名で、GSG-9はその略称の1つだった。国境警備群(GSG)とは、連邦警察の前身である連邦国境警備隊(BGS)で使用されていた部隊編成単位である。2005年7月1日に国境警備隊が連邦警察局に改組された際、現在の部隊名に変更された。
歴史
1972年、ミュンヘンオリンピックで、パレスチナ解放勢力「黒い九月」による選手村襲撃事件(ミュンヘンオリンピック事件)が発生した。当時、西ドイツの州警察および連邦国境警備隊には対テロ作戦部隊がなかったことから、西ドイツ当局の対応は極めて混乱したものとなり、結局人質全員が死亡するという最悪の結末を迎えた。
西ドイツ政府はこの事件への対処に失敗したことを教訓として、特殊部隊の創設を計画した。ドイツ連邦共和国基本法には、対テロ作戦における連邦軍の国内出動については規定がなく、議論が分かれるところであった。このことから、連邦政府の警備警察組織である連邦国境警備隊が設置母体となり、その9個目の国境警備群として、1973年4月17日に設置されたのが本部隊である。
「政府の対テロ部隊」という位置づけから、ナチスの武装親衛隊やゲシュタポを連想しての反発もあったものの、創設者であるウルリッヒ・ヴェーゲナー警視は強力に計画を推進した。部隊創設の際にはイギリス陸軍の特殊部隊SASから指導を受けた。
その後、1977年にパレスチナゲリラによる「ルフトハンザ航空181便ハイジャック事件」が発生。この事件において、GSG-9 はソマリアのモガディシュに着陸した航空機に強行突入を行い、わずか5分で犯人を制圧、人質全員を無事救出した。この事件は人質全員を無事救出したことから「モガディシュの奇蹟」とも呼ばれている。事件での活躍により、GSG-9は世界中にその存在を知られることとなった。
GSG-9は航空機に突入する際、当時、まだ一般的ではなかった特殊閃光弾を使用しており、結果的にその実用性を証明した。また、突入の際に使用されたMP5短機関銃も、この事件以降、世界各国の軍事系、警察系特殊部隊で採用された。
なお、過去には海外派遣もあったが、これは特例措置で行われたものであり、現在は国内での活動が中心となっている。ただし、海外のドイツ大使館には警護任務のため、GSG-9の隊員が常駐しており、2004年にはイラクにおいて、車で移動中のGSG-9隊員2名が武装勢力に襲撃され、死亡している。
2009年海賊事件が多発する東アフリカ・ソマリア沖でドイツ船籍が海賊に乗っ取られた事件でも、独政府は拘束されていたドイツ船員らを救うためにGSG-9第2中隊を派遣したが、作戦実行の2日前に中止された。海賊の見張りが6人から35人に増え急襲への備えが行われていたことや、共同して作戦立案や演習を行った米国側から「危険な作戦だ」との助言を受けたことが理由とされる。
パリ同時多発テロ事件を受けてドイツも対テロ部隊の強化に動き、2015年12月にGSG-9を補完する新組織「BFE+」(証拠収集と逮捕チーム)を設立。2016年中に250人規模へ拡充することを計画している。
組織の概要
GSG-9は終身雇用制である。年を重ねて運動能力が基準以下になると、実戦での経験をいかした訓練の考案や、後輩達の指導、育成を担当して、部隊の進化へ貢献する。
部隊では、拳銃(USPタクティカルやグロック17など)、短機関銃(H&K MP5など)、自動小銃(H&K G36など)、狙撃銃(H&K PSG-1やDSR-1など)などの装備を保有しており、GSG-9が採用した装備は世界各国の特殊部隊が参考にするといわれている。
国家警察部隊として政治的背景のある事件やテロ事件への対処を主要な任務としており、これらの事件に該当しない凶悪犯罪などは州警察の特別出動コマンド(SEK)が担当する。また、テロ事件への対処以外にも州警察の支援や、重要施設(首相官邸など)の警備を担当している。
入隊条件(志願制)
連邦警察局員で在籍年数が2年半以上、勤務成績が優秀である者
国籍:ドイツ連邦共和国又はEU加盟国の市民権
入隊年齢制限:18-24歳
最低身長:男性165cm、女性163cm
約6ヶ月間行われる選抜テスト(訓練)を落伍せず通過した者。
最終訓練カリキュラム
突入訓練
航空機、船舶、列車、大使館などの実物大の模型を使用し、実践シナリオに沿った演習を行なう
CQB(近接戦闘)術
基本的な格闘術、テロリストの武器を奪って反撃する訓練、テロリストがよく使用する外国製銃器の特徴や使い方の学習
射撃訓練
片手射撃、作動不良排除、迅速なマガジン交換、遮蔽物を利用した射撃、視界不良時の射撃、人質のいる状況下での精密射撃、移動中からの乗り物からの射撃、ロープ降下中の射撃など
特殊技能習得
HALO(高高度降下低高度開傘)、HAHO(高高度降下高高度開傘)、ヘリ降下、EOD(爆発物解体処理)、通信技術、応急処置、潜水、車両高速運転技術、警察科学、法律など
構成
三個中隊からなる。
第一中隊(1./GSG 9)
隊員数約100名。
対都市テロ(拠点制圧・人質救出)に優れている。
第二中隊(2./GSG 9)
隊員数約100名。
対海上テロに優れている。
第三中隊(3./GSG 9)
隊員数約50名。
空挺作戦、火器や爆発物の取り扱い、交渉、医療などに優れている。
登場作品
『GSG-9 対テロ特殊部隊』
2007年3月から2008年5月までドイツの衛星ペイテレビ局Sat.1で放送されていた、同部隊を主軸にしたドラマ。
『パイナップルARMY』
漫画作品。「ブレークスルー:突入」でハイジャック事件に出動する。
『レインボーシックス』シリーズ
部隊を構成する隊員にはGSG-9出身者が含まれる。
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