The Hunter
《逸話》
映画チラシと写真集
マックイーンの出演した作品の映画チラシはとても人気が高く、中には1枚で数十万円単位の値がつく物もあり、コレクターの間ではクリント・イーストウッドとともに現在も人気を誇る。 具体的な例として『傷だらけの栄光』、『マックイーンの絶対の危機』、『戦雲』、『荒野の七人』、『ガールハント』、『戦う翼』、『大脱走』、『マンハッタン物語』、『ハイウエイ』、『シンシナティ・キッド』などの初版チラシが挙げられる。
写真集に『スティーヴ・マックィーン』(1975年)、『マックィーン ザ ヒーロー(ともに芳賀書店 1981年)、『スティーヴ・マックィーンスタイル』(近代映画社 2004年)がある。また、彼が所有していた膨大な数のスポーツカーやオートバイの写真集『マックイーンズ マシン』(2008年)も出版されている。
《交友》
隣人にはザ・フーのドラマー、キース・ムーンがいた。ロック史上に残る「変人」を隣人に持ったマックイーンは、一時期ノイローゼに陥ってしまった。『砲艦サンパブロ』でのロケ中、メイクアップアーティストのビル・ターナーとカオリ・ナラ・ターナーの仲人をすすんで取り持つなど、人情家の一面もあった。近年、女性歌手のシェリル・クロウが『Steve Mcqueen』という作品を発表している。ホンダF1の初代ドライバーロニー・バックナムとは親友だったほか、ブルース・リーとは武道での師弟関係そして親友でもあり、リーの下積み時代を支えた一人である。またチャック・ノリスが教える空手の道場に息子のチャドともに生徒として通っており、ノリスに俳優への道を強く勧め、彼の主演作を劇場でともに鑑賞し演技についてアドバイスしている。ノリスはマックイーンからの教えを忠実に守り、スーパースターへと成長した。
《フィルモグラフィ》
年 タイトル 役名 備考
1953 Girl on the Run Extra クレジット無し
1955 Goodyear Playhouse テレビシリーズ (1 episode: "The Chivington Raid")
1956 The United States Steel Hour Bushy テレビシリーズ (1 episode: "Bring Me a Dream")
1956 傷だらけの栄光
Somebody Up There Likes Me Fidel クレジット無し
1957 Studio One in Hollywood Joseph Gordon テレビシリーズ (2 episodes)
1957 The West Point Story Rick テレビシリーズ (1 episode: "Ambush")
1957 The 20th Century Fox Hour Kinsella テレビシリーズ (1 episode: "Deep Water")
1957 The Big Story Chuck Milton テレビシリーズ (1 episode: "Malcolm Glover of the San Francisco Examiner")
1958 Climax! Anthony Reeves/Henry Reeves テレビシリーズ (1 episode: "Four Hours in White")
1958 拳銃街道
Tales of Wells Fargo Bill Longley テレビシリーズ (1 episode: "Bill Longley")
1958 トラックダウン
Trackdown ジョッシュ・ランダル/Mal Cody/Wes Cody テレビシリーズ (2 episodes)
1958 ニューヨークの顔役
Never Love a Stranger Martin Cabell
1958 マックイーンの絶対の危機
The Blob スティーブ・アンドリューズ 人喰いアメーバの恐怖(TV放映時題名)
1958-61 拳銃無宿
Wanted: Dead or Alive ジョッシュ・ランダル テレビシリーズ (94 episodes)

1959 セントルイス銀行強盗
The Great St. Louis Bank Robbery ジョージ・ファウラー
1959 戦雲
Never So Few ビル・リンガー
1959 ヒッチコック劇場
Alfred Hitchcock Presents Bill Everett テレビシリーズ (1 episode: "Human Interest Story")
1960 ヒッチコック劇場
Alfred Hitchcock Presents Gambler テレビシリーズ (1 episode: "指")
1960 荒野の七人
The Magnificent Seven ヴィン・タナー

The Honeymoon Machine ファーガソン「ファージー」ハワード大尉
1962 突撃隊
Hell Is for Heroes ジョン・リース二等兵
1962 戦う翼
The War Lover バズ・リクソン大尉
1963 大脱走
The Great Escape バージル・ヒルツ大尉「独房王(The Cooler King)」

1963 雨の中の兵隊
Soldier in the Rain ユースティス・クレー軍曹
1963 マンハッタン物語
Love with the Proper Stranger ロッキー・パパサーノ
1965 ハイウェイ
Baby the Rain Must Fall ヘンリー・トーマス
1965 シンシナティ・キッド
The Cincinnati Kid エリック「ザ・キッド」ストーナー
1966 ネバダ・スミス
Nevada Smith マックス・サンド(別名:ネバダ・スミス)

1966 砲艦サンパブロ
The Sand Pebbles ジェイク・ホールマン Nominated - Academy Award for Best Actor in a Leading Role
1967 Think Twentieth 自身 短編ドキュメンタリー
1968 華麗なる賭け
The Thomas Crown Affair トーマス・クラウン

1968 ブリット
Bullitt フランク・ブリット警部補


1969 華麗なる週末
The Reivers ブーン・ホガンベック
1971 栄光のル・マン
Le Mans マイケル・ディレイニー
1971 栄光のライダー
On Any Sunday 自身 ドキュメンタリー
1972 ジュニア・ボナー/華麗なる挑戦
Junior Bonner ジュニア「JR」ボナー
1972 ゲッタウェイ
The Getaway ドク・マッコイ



1973 Bruce Lee: The Man and the Legend 自身 ドキュメンタリー; クレジット無し
1973 The Magnificent Rebel 自身 短編ドキュメンタリー
1973 パピヨン
Papillon アンリ「パピヨン」シャリエール

1974 タワーリング・インフェルノ
The Towering Inferno マイケル・オハラハン隊長
1976 Dixie Dynamite Dirt-bike Rider クレジット無し
1978 民衆の敵
An Enemy of the People トーマス・ストックマン医師 兼製作総指揮

1980 トム・ホーン
Tom Horn トム・ホーン 兼製作総指揮

1980 ハンター
The Hunter ラルフ「パパ」ソーソン (遺作)

受賞歴
アカデミー賞
ノミネート
1967年 アカデミー主演男優賞:『砲艦サンパブロ』
ゴールデングローブ賞
受賞
1967年 ヘンリエッタ賞
1970年 ヘンリエッタ賞
ノミネート
1964年 主演男優賞 (ドラマ部門):『マンハッタン物語』
1967年 主演男優賞 (ドラマ部門):『砲艦サンパブロ』
1970年 主演男優賞 (ミュージカル・コメディ部門):『華麗なる週末』
1974年 主演男優賞 (ドラマ部門):『パピヨン』
モスクワ国際映画祭
受賞
1963年 主演男優賞:『大脱走』
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Tom Horn

生涯における来日回数は2回。初来日は1966年『砲艦サンパブロ』のプレミア時。当時の妻のニールも帯同している。ただし次の会場が香港であったため、日本での滞在時間はわずか20時間であった。2回目は1978年の肖像権訴訟時(後述)である。
《遺産》
マックイーンの人気は不変である。他の死去した有名人のように商業的に飽和することを避けるため、彼のイメージを使用するライセンスは制限されている。2007年の時点で、マックイーンの財産は死去した有名人が稼ぎ出す財産のトップ10に入っていた。
2007年4月、マックイーンはナショナル・カウボーイ・アンド・ウェスタン・ヘリテージ・ミュージアムの式典で、偉大な西部劇俳優の殿堂入りした。
1999年11月、マックイーンはオートバイ栄誉の殿堂入りした。彼は『栄光のライダー』の製作資金を調達し、一連のオフロードライダーを支援し、オートバイに対する一般のイメージ強化に貢献しているとされた。
未完成のストーリーボードとノートを元にし、マックイーンが死の前に撮影したフィルムが、マックGの製作会社であるワンダーランド・サウンド・アンド・ヴィジョンによって生産される予定であった。『ユカタン』は「壮大な冒険の強盗」映画と言われ、2013年のリリース予定であったが、2016年2月現在発売されていない。ロバート・ダウニー・Jrと妻のスーザン・ダウニーの製作会社、チーム・ダウニーは『ユカタン』を映画として公開することに対する関心を表した。
インディアナ州ビーチグローブの公立図書館はマックイーンの80回目の記念日を祝うために2010年3月16日に正式にスティーブ・マックイーン生誕地コレクションを公開した。
2005年、『TVガイド』誌は「史上最もセクシーなスター50名」のリストでマックイーンを26位にランクした。
2012年、マックイーンはアスベスト病認識機構(Asbestos Disease Awareness Organization, ADAO)からウォーレン・ジヴォン・トリビュート・アウォードを受賞した。
2015年のドキュメンタリー『スティーヴ・マックイーン その男とル・マン』は、1971年の『栄光のル・マン』でのマックイーンと、その製作についての探求を明らかにしている。同作では息子のチャド・マックイーンと元妻のニール・アダムスがインタビューに答えている。
《アーカイブ》
アカデミー・フィルムアーカイブはスティーブ・マックイーン-ニール・アダムスコレクションを収納している。同コレクションには個人のプリントやホームムービーが収められている。
《コマーシャル》
1973年、ホンダ『エルシノアCR250』のCMに出演している。この出演については、ホンダのスタッフがテストしているところにたまたまマックイーンが遊びに来て、このバイクを気に入ったことから実現したという。
1998年、ポール・ストリートがフォード・プーマのコマーシャルを製作した。場面は現代のサンフランシスコで、『ブリット』のテーマ音楽が使用された。マックイーンのアーカイブ・フィルムがデジタル処理で挿入され、彼がプーマを運転しているように編集された。プーマのナンバープレートは『ブリット』でファストバック・マスタングが付けていた物と同じ物で、彼はガレージでマスタングの隣にプーマを止め、立ち止まって意味ありげに角に置いてあるオートバイを見ると、それは『大脱走』で使用された物とよく似たオートバイであった。
2005年、フォードは再び2005年型マスタングのコマーシャルにマックイーンを使用した。コマーシャルではトウモロコシ畑に農家の男性が曲がりくねったレースコースを造り、スタートラインに新型マスタングを停車させる。畑の中からスティーブ・マックイーンがやってきて、男性はマックイーンにキーを投げ渡す。マックイーンは新型マスタングでコースに走り出す。マックイーンの映像は体の部分(ダン・ホルステン)とデジタル処理で作成された。フォードは俳優の財産をライセンスするエージェントのグリーンライトからマックイーンの映像を使用する権利を得た。支払った金額は明らかにされていない。新型マスタングは劇中と同じモスグリーンにペイントしチューニングを施した『ブリット』仕様も発売された。
《肖像権訴訟》
1971年の『栄光のル・マン』の日本での宣伝に際して、タイアップ企業となった松下電器産業(現・パナソニック)とヤクルト本社が映画のスチルやフィルムを製品(松下はラジオ、ヤクルトは乳酸飲料「ジョア」)の広告と組み合わせた宣伝を自分の承諾なしにおこなったとして、この両社および配給会社の東和、広告制作者の電通を相手取り、肖像権侵害の損害賠償として100万ドル(公開当時のレートで3億6千万円)を求める裁判を、1973年に日本の東京地方裁判所に提訴した。
マックイーンが裁判を起こしたのは単に肖像を結果として無断使用されたからというだけの理由ではなかった。彼が1978年に日本の裁判所に出廷して証言したところによると、乳酸製品(証言では「ヨーグルト」と表現)は自分が好まないもので、本来なら絶対に引き受けることがない仕事であること、松下電器のラジオについては自分は商品の説明を受けておらず、それに対する責任を引き受けることができないからだと述べている。
この裁判は1980年11月10日に判決が下された。判決ではタイアップ広告の手法は広く映画の宣伝において一般に認められているもので、マックイーンの代理店と東和の間の契約条項の範囲内であるとした。このため、東和側が承諾の必要性を検討する注意義務はなく、過失を問うことはできないと認定し、マックイーン側敗訴の判決を下した。
《メモラビリア》
マックイーンが1968年の『華麗なる賭け』で着用した青いサングラス(ペルソール714)は2006年にロサンゼルスのボーナムズ・アンド・バターフィールズオークションで70,200ドルで落札された。同オークションでは彼のオートバイコレクションの1台、1937年型クロッカーが世界記録となる276,500ドルで落札されている。2007年8月16日にはマックイーンが所有していたメタリックブラウンの1963年型フェラーリ・250GTベルリネッタ・ルッソが231万ドルで落札された。2006年に売却された3台のオートバイを除いて、マックイーンのオートバイコレクション130台は彼の死から4年後に売却された。『栄光のル・マン』のオープニングシークエンスに登場した1970年型ポルシェ・911Sは、2011年8月にオークションで135万5000ドルで売却された。ロレックス・エクスプローラーII(1655)(時計コレクターの間でロレックス・スティーブ・マックイーンとして知られる)、ロレックス・サブマリナー(5512)(マックイーンがプライベートで着用している場面がしばしば撮影された)は、2009年6月11日にオークションで234,000ドルで落札された。これは世界記録であった。マックイーンは左利きであったため、腕時計は右手首に付けていた。
マックイーンはタグ・ホイヤーのアンバサダーを務めた。1970年の『栄光のル・マン』で彼は青のモナコ1133Bを着用した。それは腕時計コレクターの間でカルトなステータスを持つに至った。彼が着用したタグ・ホイヤーは2009年6月11日のオークションにおいて87,600ドルで落札された。タグ・ホイヤーは現在もモナコのプロモーションにマックイーンのイメージを使用している。
2009年からトライアンフ・モーターサイクルはマックイーンの財産管理団体からの認可を受けて、マックイーンをフィーチャーしたトライアンフ・ブランドの一連の衣類を販売した。それは特に彼が参加した1964年のISDTに関するものであった。
イギリスの衣類ブランド、バブアーはスティーブ・マックイーンコレクションを発売した。それはかつてマックイーンがバブアーのオートバイジャケットを所有していた事実に基づく。
イギリスのポップ・バンド、プリファブ・スプラウトは1985年6月にセカンドアルバム『スティーヴ・マックイーン』をリリースした。アメリカ合衆国ではマックイーンの財産管理団体との法的争いのため、『Two Wheels Good』に変更された。
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An Enemy of the People
《私生活》
1972年にアラスカで撮影された"マグショット"。マックイーンは、飲酒運転で逮捕された際、その写真撮影でピースサインを行い、公権力を挑発した。

ニューヨークでステラ・アドラーの学校に通う間、マックイーンはジア・スカラと交際していた。1956年11月2日に彼は女優のニール・アダムスと結婚した。アダムスとの間には娘のテリー・レスリー(1959年6月5日 - 1998年3月19日)、息子のチャド(1960年12月28日生)がいた。マックイーンとアダムスは1972年に離婚した。自叙伝「My Husband, My Friend」でアダムスは結婚生活が破綻をきたしていた間の1971年に彼女は流産したと述べている。
1973年8月31日、マックイーンは女優のアリ・マッグロー(『ゲッタウェイ』で共演)と結婚した。しかし、この結婚生活は1978年の離婚で終わった。マッグローはマックイーンとの間にできた子供を流産している。
1980年1月16日、その死の1年足らず前にマックイーンはモデルのバーバラ・ミンティと結婚した。マックイーンの4人の孫のうちの1人は、俳優のスティーブン・R・マックイーン(『ヴァンパイア・ダイアリーズ』のジェレミー・ギルバート役で最も有名)である。
1971年から1972年、アダムスと離婚しマッグローに出会う前の間に、マックイーンは『ジュニア・ボナー』で共演したバーバラ・リーと関係を持っていた。彼女は妊娠し、中絶している。
女優でモデルのローレン・ハットンは、1960年代初期にマックイーンと関係を持ったと語っている。
マミー・ヴァン・ドーレンはマックイーンと関係を持ち、彼と幻覚剤をためしたと主張した。
マックイーンは毎日2時間の運動が日課であった。それはウエイトリフティングと5マイルのランニングが含まれた。
マックイーンは各種の薬物を使用していたことで知られていた。ウィリアム・クラクストンは彼がほぼ毎日マリファナを吸っていたと語っている。
伝記作者のマーク・エリオットは、彼が1970年代初期に相当量のコカインを使っていたと主張している。そして、彼はヘビースモーカーでもあった。マックイーンはしばしば過度に飲酒し、1972年にはアラスカのアンカレッジで飲酒運転のため逮捕されている。
チャールズ・マンソンの信者が1969年8月9日にシャロン・テートの自宅でテートとジェイ・セブリングを含む5名を殺害した。テートとセブリングはマックイーンの友人であり、マックイーンも犯人の潜在的標的であったと報じられた。最初の妻によると、マックイーンはいつでも人前で拳銃を携帯し始めるようになり、セブリングの葬儀でも携帯していた。殺人の2か月後、警察は殺人の対象者リストを発見し、その中にはマックイーンの名があった。その結果、マックイーンの会社はマンソンの脚本を拒絶した。2011年にセブリングが事件当日にテートの家で行われたパーティーにマックイーンを招待していたことが明らかにされた。マックイーンによると、彼はパーティーに参加しようとしてガールフレンドを誘った。しかし、彼女はパーティーの代わりに自宅で親密に過ごすことを提案した。それによって彼は命を救われることになった。ちなみにこのパーティには、パラマウントの重役ロバート・エヴァンズも誘われていた。
マックイーンは映画の出演に同意した際、スタジオに大量の無料アイテム(例えば電気カミソリ、ジーンズやその他のアイテム)を要求するという変わった評判を持っていた。マックイーンはこれらのアイテムを、自身が10代に過ごしたボーイズ・リパブリックの矯正施設に寄付していたことが後に明らかになった。マックイーンはしばしば施設を訪れ、生徒達と時を過ごし、ビリヤードをしたり自身の経験を話したりしていた。
マックイーンと『大脱走』で共演したジェームズ・ガーナーはお互いにレースに対して関心を持っていたことから親友となった。ガーナーはマックイーン宅の下手に住んでおり、マックイーンは回想している。「私はジムが自宅できちんとしているところを見ることができた。花は手入れされ、庭には紙くずも無く・・・芝はいつも刈られていた。それで、私は彼をいらつかせるため、彼の通り道にビールの空き缶を投げ捨て始めた。彼は家を出ると、道をきちんときれいにしなければならず、全ての空き缶を持って家に帰った。犯人が私だと分かるまで、彼は長い時間がかかった。」
マックイーンの3番目の妻、バーバラ・ミンティは自著「Steve McQueen: The Last Mile」で、マックイーンが晩年に福音主義に改宗したことについて述べている。彼が改宗したのは飛行インストラクターのサミー・メイソン、その息子ピートと、バーバラの影響を受けたためであった。マックイーンは地元のヴェンチュラ宣教師教会に出席し、彼の死の直前には福音伝道師のビリー・グラハムが訪ねてきた。
《病気と死》
マックイーンは1978年に持続性の咳に悩まされるようになった。彼は禁煙し、抗生物質による治療を受けたが改善できなかった。息切れはより顕著に増加し、『ハンター』撮影後の1979年12月22日に精密検査で胸膜中皮腫(既知の治療法がないアスベスト露出と関連した癌)が発見された。数ヶ月後、マックイーンは医学インタビューで、彼の状態はアスベスト暴露が原因だとした。マックイーンはアスベストが映画スタジオの防音材に使われたり、レーシングドライバーのスーツやヘルメットに含まれていると信じていた。しかし彼は、海兵隊で兵員輸送船のパイプからアスベストを除去する際に大量に曝露されたことが病気の直接的な結果であったのでは無いかと考えた。
1980年2月までには広範囲にわたる転移が発見された。彼は病状を秘密にしようとしたが、「ナショナル・エンクワイヤラー」誌は1980年3月11日にマックイーンが「末期癌」に罹っていることを明らかにした。7月にマックイーンは、アメリカの医師達が彼を延命させる方法は何も無いと話した後、非標準的な治療法を受けるためにメキシコのロサリトビーチに向かった。マックイーンはウィリアム・ドナルド・ケリーの治療を求めたため、メキシコへの旅行は論争となった。ケリーはコーヒー浣腸、シャンプーによる頻繁な洗浄、牛や羊の生きた細胞を含んだ液体の毎日の注入、マッサージ、レートリルを用いたゲルソン療法のバリエーションを進めており、主流の医師からは典型的な偽医療だと非難されていた。マックイーンは3ヶ月間のメキシコ滞在で、ケリーに対して1ヶ月に少なくとも40,000ドル(現在の119,000ドル)の現金を支払った。ケリーが持っていた唯一の医療ライセンスは(1976年に取り消されるまで)歯列矯正のみであった。マックイーンが患者であったことが明らかとなり、ケリーの治療法は従来の新聞やタブロイド紙においてセンセーションを引き起こした。
マックイーンは10月上旬に帰国した。癌の転移にもかかわらず、ケリーはマックイーンが完全に治癒し通常生活に戻ると公的に発表した。マックイーンの病状はすぐに悪化し、「巨大な」腫瘍が腹部に生じていた。
1980年10月下旬、マックイーンはメキシコのチワワ州シウダー・フアレスに向かった。肝臓に腫瘍(およそ5ポンドの重さ)が発見され、アメリカの医師からは心臓が手術に耐えられないと警告を受けたにも関わらず、摘出手術を受けるためであった。マックイーンは「サム・シェパード」の偽名でフアレスの小さなクリニックに入院した。クリニックの医者とスタッフは彼の正体を知らなかった。
フアレスのクリニックで腹部と首の多数の転移性腫瘍を除去する手術を受けた12時間後、マックイーンは1980年11月7日午前3時45分に心停止のため死去したという。50歳であった。
「エルパソ・タイムズ」によると、彼は睡眠中に死去したという。
ヴェンチュラ宣教師教会のレナード・デウィットはマックイーンの追悼式を統轄した。
マックイーンは火葬に付され、遺灰は太平洋に散骨された。
“LOP RABBITS as pets”(意訳『ペットとしてのロップ・ウサギ』)によると、マックイーンは死期間近の晩年を動物介在療法で用いられるロップイヤー・ウサギの一種であるフレンチ・ロップ(耳が垂れた大型のカイウサギ)とともに過ごしたという。
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