光の子らしく歩きたい

光の子らしく歩きたい

有限な人生の時間。いつからでも遅くない。真に豊かに生きたい。
信仰のこと、趣味のこと、心の中で考えていることの覚書。

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落ち込んでも、鬱っぽくなっても、イライラしても、全てのネガティブが私の周りにも内側にも垂れ籠める時、…

…それは、聖書にも出てくるサタン…悪魔が人間の心を神から引き離し、自分の側へ引き込もうとする、絶好の狙い目です。

人間のネガティブな一面は、サタンが取り入る絶好のチャンス、まさに思うつぼなんです。

さて、長年私はそのサタンの思うつぼで、自分の中だけでずーっとネガティブ感情を今の物も昔の物も、ぐるぐるぐるぐると思い出し苦しみ怒り、人から見ると何もわかりませんが、自分一人になると自分で自分の心を傷つけてばかりいました。

主な怒りは今まで会ってきた人達に傷つけられた記憶、向こうはもう記憶すら無いだろうに、自分は未だに言葉を思い出し傷付き、トラウマで何十年経ってもその行動がやれない、等の怒り…

もう全ての相手が目の前にいないので、全ては自分の中だけの問題なのだが、これをぐるぐる繰り返しているとこれだけで心身をひどく消耗する…

私は自力でこのネガティブな渦から出られなかった。
私はもう砂漠で一滴の水も無いような状態で、力尽きながら神様に助けを求めた。
子供の頃から教会へ行っていたが、あまり本気にしていなかった。
この時、気が遠くなりながら、もう神に必死に呼びかけるしかない、助けて助けてと心の中でつぶやくしか出来なかった。
目をつぶっていた。気が遠くなりそうな心からのSOS…しばらくして、宇宙のような中に緑色の光が見えた…
なんだか理由もなく、突然、途方もない安心感に包まれた。と同時に、物凄く恐ろしい気持ちでいっぱいになった。

神が本当に存在されていた!自分はすぐさまひれ伏して、地面にめり込んでしまわなければ、と思うほどの自分の今までの、神を神とも思わぬ言動、神に対しても反抗してきたあらゆる罪を思い、恐ろしくて聖書を持つ手も震えた…

神が本当に存在されている!、神を感じた!という事が、圧倒的なその存在に嬉しさと恐怖…
私は神様あなたに心も体も委ねます!、命を取られても構いません!、と。

その後、だんだんと、今まで開いた事も少なかった聖書を、開いて読むたびに、もうどの箇所も私に向かってイキイキと、神が語りかけてくださり、単なる昔の話と思えた聖書の内容も、今の自分にことごとく必要なメッセージで、本当にとても神様の愛を感じる事が出来るようになり、神様の救いのご計画がわかるようになり、本当に神様の愛の光の中へ私自身が出る事が出来た!!、と思うのです!

そして、いったんこの神の愛の光の明るさを体験した者は、以前のネガティブな自分の姿は影のように見えます。
それはサタンが人間を誘惑して、ネガティブな混乱と神への失望を誘導していたのであり、私の本来の姿ではありませんでした。

いったん神の愛の光の明るさを体験した者は、このやましい所が全く無い本当の明るさ、神が与える希望を、忘れる事はありません!
ここから、私は、神様が与えてくださった命本来の喜び、感謝を味わって生きる、新しい人生を歩き始めたのです。
私は音楽のコードが未だによくわからないあせる
小さい頃ピアノを習っていたので、譜面があるものなら何とか弾けるのだけど。

うちの教会は、今まで賛美歌だけ歌ってきた。
これからは、礼拝の時以外、祝会や伝道イベントなどで、歌いやすいワーシップソングも取り上げてみることにした。(私の提案です)

人からお借りした楽譜集「プレイズワールド」の中の一曲。「主は今生きておられる」
ピアノで右手でメロディー、左手で伴奏をつけてみようと思ったのだがあせる
コードが一から分からない笑い泣き

調べながら和音を付けようとするが…
急には覚えられずショボーン
そのコードとテンション?を、どのようにして伴奏風に付けて良いか解らずキョロキョロ

周りに詳しい人が居ないか、今度聞いてみよう!と思った。
だから今日は適当に、確かこんな伴奏だった~音譜ウインクと、3パターンぐらいの和音で弾いてみたら、なかなか雰囲気出ていた爆笑

コードはたくさん書いてあるから、本当はもっと複雑な伴奏の音になるはず音譜
いい機会だからコードを覚えて、フィルインも入れたり、素敵な賛美演奏ができるようになりたい照れ
私の行っている教会はほとんどが高齢の信徒だ。70~80代。
私が小さい頃からずっと礼拝出席されている、ほとんど同じ顔ぶれである。

その信仰生活が長い先輩たちと話すと、最近私は人につまずいてしまうショボーン
なぜかというと、彼らは神や信仰生活、教会生活に対して、
しんどい❗️聖書がよくわからない❗️復活が信じられない❗️天国に納得していない❗️
キリスト教の神は厳しい❗️きつい❗️
喜びは無いようです…

礼拝の時だけクリスチャンで、毎日の生活は信仰とは無縁。それがうちの教会の、普通えーん
でもみんな何十年も通ってるクリスチャン。
どんな弟子訓練をして来たんだよ❗️ムキー、と思うのですが、これが私も含めて何もされてこなかったのです。
礼拝説教を聞いてるだけだから、宣教どころでなく、全く受け身になっている信徒たち。

ネガティブで救いの喜びを感じられてないのは、罪の悔い改めが強調され、その先の理解が止まっているように思われるガーン

その先の罪の赦しや、永遠の命、愛や祝福、希望を実感しているのか、甚だ疑問だ。
毎日の生活で祝福を実感していたなら、全身や言動から、穏やかでも喜びが溢れ、表れるものだろう。

長い長い信仰生活を送ってきた彼らなのに、話すとネガティブなことばかり。
昔の人達なので、それを「謙遜」とはき違えている、とも言える。

信仰の喜びを感じてないから、礼拝が終わったら、皆さん疲れてすぐ帰りたいと言う。
礼拝で元気になり、教会の交わりで信仰に喜び合ったり、励まし合うような会話は聞こえてこない。
高齢の方どうし、体調を気遣う会話はしているが…それはノンクリの人でも普通にすること。

私は唯一の若手として、率先して信仰の話や説教で出た話題を会話してみるのだが…
それが楽しく感じられる私と、負担に思って拒否反応をする信徒や、信仰を責められていると感じる信徒もいたりでガーン

人にがっかりしたり、あまりの神不信な発言に腹が立ったりプンプン、なのですが。
怒り悲しみながら、祈って祈って祈って❗️神様どうしたら良いのですか?、と聞いていたら。
まだ暗いトンネルのような信仰の中にいる人達、弱い苦しい信徒たちに対して、配慮をしなさいおねがい、と示されました。

耳で聞こえたのでもなく、自分の中にも全くその発想はなかったのですが、いつも思いがけない、自分の考えとは正反対の言動が、私の口や行動から出されて驚きますキラキラ
信徒どうしだからこそ、信仰の度合いに応じて、細かい配慮が必要なんだな、と示され学ぶことが出来ました。