日が昇り、自宅に入りました。
ありとあらゆるものが散乱していました。
キッチンなどは食器が割れていて破片が飛び散っていました。食器棚や冷蔵庫、ピアノなどは20センチほどずれていたでしょうか。後から戻すとき大変だったのでこんなに動かすことのできる自然の力とは恐ろしいと改めて思いました。
ライフラインは使えませんでした。とりあえず避難所の様子を見てこようと小学校に行きましたが、古いため体育館や校舎で過ごすことはできず車中泊のみでの利用しかできないとのことだったので諦めました。犬も飼ってましたしね。
水は止まりましたが電気が昼過ぎに戻りとても助かりました。テレビをつけたときの熊本の惨状は目を覆いたくなるものでした。
益城町の家の倒壊の様子、阿蘇大橋の崩落、熊本城の損壊…
特に熊本城の状況は熊本県民にとって一番ダメージが大きかったと思います。
私自身、いつも熊本城に心寄せていたわけではありませんが、街中から見える熊本城はやはり熊本の大きなシンボルです。
これからどうなるのか…全くわかりませんでした。そして余震との戦いも始まったのです。
10分~30分おきに起こる余震。昼も夜も関係なく襲って来ました。特に夜が多かった気がして毎晩夜が来るのが怖かったです。余震が来るたび起きるので寝不足でした。
昼間は私と犬と2人で乗り切るしかありませんでした。本当は避難所に行くなりして手伝いや誰か人と一緒に過ごしたかった。
ですが、本震直後から多くの犯罪情報が流れ、レイプ犯や空き巣などの情報が出回っていて家を守らなければ…と残っていました。のちに大半がデマだったことがわかりましたが、どの情報が本当でどれが嘘なのか、現地の人には判断する余裕などありません。

うちはガスではないので電気が戻ったことが幸いだったのですが、水が出ないのは辛かったです。
お米はある、けど水が…
洗い物もできませんし、ましてやお風呂も入れません。さすがに3日目を過ぎる頃にはお風呂に入りたいという気持ちが強かったです。友人に聞いた話だとお風呂屋さんは大混雑で裸で2時間ほど脱衣所で待たなければいけないくらいだそうでした。そのためパウダーシートなどで凌いでいました。
本震から4日目くらいにやっと水が出始めました。色は濁ってました。トイレ流せるのがとても嬉しかったです。さすがにお風呂ためれるほどは出なかったのでキッチンでお湯を沸かして母親と洗面台で髪だけ洗いました。
近くのスーパーも外での開店などが進み、人数や個数制限はあったものの母親と並んで水や食料を調達することができました。
従業員の方も被災者です。赤ちゃんをおぶってレジに立ってた姿に感謝の気持ちでいっぱいでした。
日が経つにつれ、支援が進み
各県の自衛隊や水道やゴミ処理の車両が通るたび涙が出ました。旭川から来ている自衛隊車両も見ました。沖縄や大坂から来ているのパトカーも見ました。私が見たのはほんの一部で全国から助けに来てくれてる…本当にありがたかったです。

大学が始まるまで3週間ほどあり、この間、自分の将来を見つめる期間でもありました。
医療系の学生でありながら何もできないそんな自分が歯がゆかった。社会人になってすぐにこんな災害に見舞われて病院で働きながらも力をうまく発揮できなかった先輩方や友達を知っています。
私もあと数年後、薬剤師になります。
この経験を生かした第一線で働けるようなそんな薬剤師になりたいです。

今回の地震で学んだことは
備蓄をすること
物を減らすこと
頭より上に落ちてきて困るものを置かないこと
あと、明日があると思って今日を過ごさないこと
特に自分の気持ちはちゃんと伝えるなり行動に移すなりした方がいいですね。後悔しないように。

南海トラフが~とか話もありますが
備えるに越したことありません。
今回は熊本に被害が集中したから周りの助けがすぐに来ましたが南海トラフになったら全国でこれ以上の被害が出るわけです。誰も助けに来てくれないかもしれません。自分の身は自分で守るしかないのです。
言い方良くないですが、日本に住んでる以上災害は順番です。回ってきて欲しくない順番ですけどね。だから過去から教訓を得て将来の被害を最小限にしなければならなりません。
身をもって体験したから言えることです。
誰しもが自分の身に起こらないとわからないことかもしれませんが。

長々と書きましたが私の記録です。
今回省いてますが、本震直後に安否確認や励ましのLINEやTwitterのリプをくれた多くの友人に感謝しています。PTSDにならなかったのは精神面で支えてくれた彼ら、彼女らのおかげです。

これ書いてる間にも余震まだありますがほとんど体感しなくなってますので熊本に遊びに来てくださいね~( •̀∀︎•́ )✧︎
なんか、旅行代金最大7割引?になるらしいので。これから熊本の農産物も増えていくと思うのでよかったら買ってください!(笑)

熊本県民一丸となってがんばるばい!
熊本地震から1ヶ月半以上経ち、大学も始まりやっと普段の生活に戻りました。
10分、30分おきに起こっていた余震も今ではほとんど(体感できる震度は)ありません。
世間とは、人とは、時が経つにつれてやはり忘れていくもので
最近では熊本地震についてのニュースは減ってきました。
GWを過ぎたあとボランティアを確保するのも大変なようです。

私自身も細かなこと忘れかけています。
それが自衛なのかなんなのか。。。
この先一生忘れてはいけないこの地震のことを書き留めたいと思いました。

4.14 最大震度7  のちに前震と言われた1回目
私は自宅ではなくバイト先の塾にいました。この地域の震度は5強。あと30分もすれば家に帰れる~と思いながら4階建ての建物の1階で作業をしていました。
始めは地震が来たな?くらいの揺れでした。ガタガタと、そしたら建物全体が大きく揺れ始め、他の人達と机を握り収まるのを待ちました。
最初は呆然としていました。こんな大きな地震は今までに経験したことはありませんでした。
職員の先生たちもこんな経験はなく、一時立ち尽くしていました。その後先生たちの指示のもと、生徒と共に近くの公園に避難をしました。
幸いなことに、建物に被害はなく生徒全員無事でした。
公園に移動した後も震度3以上の地震が何回もあり、近くのマンションから火の手が上がったようで消防車や救急車のサイレン、緊急地震速報が鳴りっぱなしでした。
生徒たちをまとめながら大きな余震が来るたび
みんなで怖がっていました。
1時間後くらいから自転車で帰宅できる子たちを帰すため荷物を取りに建物に戻った時にも余震が来るのでとても怖かったです。
自宅に帰ったのは23時ごろ。LINEですぐに連絡していたもののやはり親も心配していました。

4.15
JRが止まっていた事もあり、大学は1日休講でした。幸いなことに自宅に被害はありませんでした。ライフライン全部使えましたしね。
両親は仕事に行くことになり自宅に1人残された私は家族の代わりに食料品の確保のため近くのスーパーを回ることにしました。
やはり皆さん考えることは同じで水は1本もないし、備蓄になるような食材もありませんでした。
というか、開いてるスーパーの方が珍しかったです。それでもどうにか少しは食料品を買い込み、また丁度バイトの給料日だったので全額下ろしました。この時の判断は間違ってなかったと後に思いました。
夕方、両親が帰宅し、昨日の疲れや次の日が土曜日だという安心もありそれぞれがすぐ寝てしまいました。

4.16 最大震度7  本震と言われた2回目
部屋で寝ていた時、あの最悪な本震が来ました。
ガタガタガタガタ!部屋全体が大きく揺れ
1回目の時と比ではない長さで長く揺れました。
まるで何かのアトラクションのようでした。
何が起きたか把握はできませんでしたが、とりあえず部屋から出なければと、すぐにケータイとメガネを持って動きました。ただ、寝ていたのが二階建てとまではいかない高さのベッドで、ハシゴがこの揺れで外れていて、また部屋が真っ暗なのでなかなか下りられませんでした。
その後隣の部屋で寝ていた父親の元へ駆けつけました。早く部屋でないと!と言う私に、父はメガネが見つからないようで私もケータイの灯りを頼りに一緒に探しましたがなかなか見つかりません。その間もずっと大きく揺れているし、父は見つからないことに苛立っていて本当に怖くて半泣きで探してました。結局見つからずそのまま部屋から出ることになり、階段のところに行くと本棚から本が落ち散乱していました。何かの入れ物であっただろうガラスも割れていました。ケータイのライトで照らしながら1階で寝ていた母と合流し外に出ました。後からわかったことなのですが、父の寝ている真横には昔のPCが落ちてきててこれに直撃していたら危なかっただろうなということと、階段前の本棚の前に今は使っていないウォーキングマシーンがあってそれのおかげで本棚が通路に倒れずに済み、階段を下りれたことに本当に天の助けだなと思いました。
外に出ると周りは停電していてご近所の方々も外に出ていました。
ここでやっとネットで確認して事態の把握ができました。その中でも襲ってくる大きな地震。
1回目とは全く違う。これは本当にやばい…
救急車や消防のサイレンが鳴り響き、マンションの火災報知機もわんわん鳴っていました。
部屋に戻れないのでTwitterやラジオで情報を知るしかありませんでした。

もう、熊本は終わりだ…
自分はここで死ぬんだ…

本当にそう思いました。暗闇の中襲ってくる大きな地震、なぜ、こんな目に‼︎
絶望しかありませんでした。

本震が起こって1時間ほど経った頃だったでしょうか。少し状況が落ち着いてきたような感じだったので家の近くに住んでいる親友の所に行くことにしました。このまま自宅近くで過ごすべきなのか、それとも避難所に行くべきなのか??
親友の周りも同じ状況で車を広めの駐車場に停めその中にいました。
一通り話したあと、何回目かの緊急地震速報がケータイに届き、その地震をやり過ごしたあと自宅に戻りました。その時交わしたお互いの言葉の重みは一生忘れないでしょう。

「生きてまた会おうね」

この言葉、この先一生使いたくありませんし、使う機会など二度と訪れて欲しくないものです。
しかし、この状況ではまさにその通りでした。いつもの遊んだあとに話す「またね」ではないのですから。

外で過ごすにはまだ少し寒い時期なので頃合いを見計らって部屋に入り着るものを取りにいきました。トイレにも行きましたが水は流れませんでした。日が昇れば状況は変わる、そう思い、夜が明けるまであと何時間だろう、ケータイの充電をできるだけ残しておかなければ…
そんなことを考えながら過ごしました。


元々はハーブや漢方が好きで選んだ薬学

それはいつしか
被曝し薬を服用する長崎の祖父のため
歳を重ね複数の薬を服用する熊本の祖父母のためにもなった

熊本の祖父が倒れた
事の発端は胆石
処置が早ければここまで酷くならなかっただろう

つい先日の正月に会った時
2週間後にこんな事になると
誰が思っただろうか

誰のせいでもないのだ
発見する術の全ての中を
巧妙にくぐり抜けてしまったのだから

毎日一緒にいた祖母も
遊びに行くたび祖父母の
薬や検査結果を見ていた私も
子どもである母や叔父も
痛みに耐えている祖父でさえも

思い返せば、あぁ
あの時言っていた不調は前触れだったのだ
あの時気付いていれば…
そんなこと今さら思うのだ

今さら悔やんでも仕方のないことは
皆わかっている

日曜日
病室に入り横たわる
変わり果てた祖父を見て怖かった
誰だ、この人は?

生気というものを本当に感じさせない
「人」という物質に見えた
これは祖父ではない
そう思った

正月の時話していたのだ
私が薬学部卒業して就職して結婚して
子どもを産むまでは
元気でいてもらわないと、と
そしてその間には私よりも12、14歳下の
従弟達が高校に入り、そして成人してお酒を共に飲めるようになるだろうと
そんなたわいのない幸せな約束をしていたのだ

なのに!

嫌な予感はしていたのだ
去年から急に弱々しくなった祖父母を見て。

祖父は、こんなことも言っていたのだ
私の彼氏とお酒を飲みたい、と
その時は笑って濁していたのだが
いつもの調子のいい言い方でない
祖父の物言いに違和感を感じていた

祖父は血小板数が健常者の6分の1にまで下がっているらしい
主治医の説明を聞いた祖母の話からすると
敗血症とDICだそうだ
敗血症もDICも薬学部で学んだ
どんなものかも知っている

プリント上で学んだ恐ろしいことが
現実で起こっている

帰り際に握った祖父の手は
痩せ細り
力は弱々しく
そして少し冷たかった