【男子校高校生日記】ジャミロクアイを今一度聞いてみようじゃないか。

 

私は中学生のころからジャミロクアイの融合的な音楽の良さは知っていたのだが、今更になってその興味は深みを増していったような気がする。

 

今更というのはジャミロクアイ(jamiroquai)は1990年代のアシッドジャズブームを引き起こした第一人者であるからだ。

 

人によっては1970~1980年代のブラックミュージックに興味がありすぎて二番煎じには興味がないということもあろう。

 

私も最近はスティービーワンダーやアースウィンドアンドファイアー、少しマニアックだがデクスターワンゼルとかを聴いたりするうちにジャミロクアイに対する眼差したるものが次第に薄くなってることに気づく。

 

ただ、それは音楽史における進化論の否定に過ぎなかったのだ。

 

私が3ヶ月に一回程度訪れる渋谷のレコファンに足を運んでみればいたるところにブラックミュージックのCDがあるが、ジャミロクアイのCDの前に立つと実家に帰った(実家暮らしの男子高校生だが)ような安心感がある。

 

左はボーカルのジェイソンケイ。中央はベースのスチュアートゼンダー。

右はキーボードのトビースミス。

 

実家と言って思い出したが、ボーカルのジェイソンケイの母親はジャズシンガーで、父親はポルトガル人である。独特な家庭といえよう。

 

そしてジェイソンケイには双子の兄もいた。しかし、病気で若くして亡くなった。ちなみにジャミロクアイのシンボルのバッファローマンの頭部の二つの角は若くして亡くなった双子の兄を思ってのことらしい。

 

 

そして独特な家庭環境(特に親父が離婚したようなことをいう)によって、彼は家出をするのである。

 

それからはほぼ浮浪者のようなものだったらしく、犯罪行為もしていたらしい。しかし、このころから音楽づくりは始めていたらしく、既に自前の曲があった。

 

そんなある日、ケイ(ジェイソンケイ)はあるパーティーでのちのジャミロクアイのキーボード担当になるトビースミスと出合う。

 

ケイはそのパーティーで自作の曲を披露した。しかし、それを聴いたトビースミスはケイの既に結成したグループにいるキーボーディストのことが気に入らなかったらしい。

 

それを察したのかケイは元いたキーボーディストを「クビにした」とトビースミスに申し出て、トビースミスはそこのメンバーとなることになった。

 

ケイはそれからしばらくスミスと時間を共にした。

 

 

 

Too Young to Die というジャミロクアイ初期の曲はケイとスミスが即興で作ったと言われる名曲。

 

まだまだ話したいことは山ほどあるが、今回はここくらいにしておこう。

 

・ジャミロクワイが求めたものは・・・?

 

音楽の本質をどう捉えるかは人次第で、アースウィンドアンドファイア―のボーカルのモーリスホワイトは「先人が作り上げたメロディーを取り込むこと」と最近のインタビューで答えている。

 

アースと言えば人類という枠の中で物事を見る、巨視化することにより人類の一体感が増す、といったような感じのことをよく言うがそれは必ずしも音楽の本質は言えない(多少は含まれるかもしれないが)。モーリスホワイトも知ってのことである。

 

さて、一方のジャミロクアイの音楽の本質といこう。

 

ケイはロッキングオンという雑誌で・・・馬鹿で無知蒙昧な連中は絶滅させる!

                                    俺が言いたいことはそういうことだ!

 

といっている。

 

個人的に「愚か者を絶滅とは過言ではないか」と思ったが、後でその愚か者が国の上層部の輩だということを知り、なるほどとは思った。

 

環境破壊の根本にあるのは人間。その被害者となるのは私たちよりよっぽど自然を知り、それと共生している原住民である。

 

これは欲求不満な者による、無垢な者に対する仕打ちであると言いたいのだろう。ケイが毎度書く歌詞にはそういうことへの非難の声を表しているように見える。

 

しかし、これらはあくまでもケイの主張。ジャミロクアイの音楽の本質とは言えない。

 

ジャミロクアイの音楽の本質と言えばやはり、手作り音源ということにあるような気がする。

 

1990年代はユーロビートの人気もあったりしたが、いざライブとなった時にアコースティック演奏が電子音が放つ世界についていけないということがあった。

 

せっかくライブに来たのだから、それ相応の演奏を望むのも無理はない。

 

そのいわばニーズに応えたのがジャミロクアイと言えよう。

 

ジャミロクアイのほとんどが上記に反する格好になっている。

 

私もその当時の人間であったならば「何と新鮮な」と思ったに違いない。

 

The score (エマーソンアンドレイク)や迷信(スティービーワンダー)は電子音史の初頭に頭角を現したグループの代表曲かもしれない(分かりやすい例を挙げたのでこれ以外にもこころあたりはあるが)。

 

しかし、それらがいくら調和できていようが飽きる時代は来る。

 

持論だが音楽史には電子音音楽やオーケストラ音楽(デクスターワンゼル、バートバカラック、ジョージベンソン、フランクシナトラなど)人気が交互に、しかも定期的にやってくると思っている。

 

今はまさしく電子音、と言いたいところだが「ジャズはおしゃれ」という若者の声からサチモスというジャミロクアイをリスペクトするバンドが現れたりしたりする時勢であったりもする。

 

・まとめ

 

未熟な若者がこう提言するのは生意気もいいところなのだが私は今、ベッドに腰を掛けレコードの音楽を流している。

 

今回の提言たるものは素晴らしく有意義な時間を共有したかったにすぎない。現にそんな時間の流れを今、この身をもって体験し、体感している。

 

ジャミロクアイは自身の境遇を活かしに活かした音楽を発展させた。

 

その元を辿る、すなわち先人の音楽に耳を傾けるのもまた、ジャミロクアイを知ることになると思う。ジャミロクアイは誰々のコード進行を真似してるな、とか言ったようなものでも音楽の本質を知れてる行為そのものだと思う。

 

このように、今一度ジャミロクアイを聴くことは本質を再認識するうえで重要不可欠かもしれない(ジャミロクアイに限った話ではないが)。

 

1990年代に軸を置いてみると先程のように、オーディエンスが欲しがる音楽の種類が周期を通じて変わることがわかるような気がする。

 

今や電子音が不可欠になった時代だが、それに流されない――モダンジャズ――とかでもいいだろう。

 

とにかくそのような異端性のある音楽を今に求める。