私が子どもの頃、世間もまだそんなに豊かではなくて、下の子は上の子のお下がりを着たり、穴が空いたり擦り切れた洋服を繕って着せられていた時代でありました。

のんびりした時代でした。

子どもが増加し、習い事産業が増え、私も近所の幼稚園でヤマハのピアノ教室が始まるというので、

グループレッスンに参加することになりました。


今の私からは想像できないと、誰も信じてくれませんが、私は人さまの前で何かをするというのがはなはだ嫌いで、引っ込み思案な子どもだったのです。


数か月がたち、その日に習った曲を、先生のピアノで誰かが一人ご披露する・・・・という決まりを先生が作りました。

あの頃、グループレッスンはけっこうな人数がいたように記憶しています。

毎週毎週、一人ずつ、先生のピアノでおさらいをご披露し、次はいよいよ私が最後のメンバーで、もう逃げられない・・・・という週に・・・・私はどうしても嫌だと、ピアノ教室を辞めました。

そんな子どもでした。


その根本的な性格は、未だに抜けてはおらず、聴衆の面前で何かをすることは苦手なままです。

ですから、カラオケやお話しなども、自分から好んで行おうとはまったくもって思いません・・・


震災前は、ただひたすら世帯主として仕事三昧の生活をして日々過ごしてきました。

365日中、363日は働いていたと思います。

そしてあの震災にあいました。↓


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この日は、翌日に行う卒業を祝う会の打ち合わせを行う予定でおりました。

ユウヤとケントが責任者で、3時半に教室で待ち合わせて、私も含めて話し合いをする計画になっていました。

お祝い会に、どの先輩にどの後輩が花束を渡すか・・・

開会のことば、閉会のことば、先生からの一言・・・・


教室を閉鎖しなければならなくなって片付けをしていたとき、手伝いにきてくれていた保護者の方が、そのメモを見つけて、私の代わりに泣いてくれました。




・・・・・ユウヤは来ませんでした。

3時に弟たちを小学校に迎えに行き、そのまま教室に来れば3時半には少し早いくらいの時間で済むはずでしたが、自宅に戻ったために津波に呑み込まれて亡くなりました。

ユウヤの安否を心痛し、捜しまくったケントはその後、しばらくの間やる気を失くして落ち込みました。


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2年前の3月11日、あの日は中学校の卒業式が挙行されました。

みんなの笑顔が懐かしいです。

この時、すでにⅠ期試験で合格内定をいただいていた生徒と、肩を抱いて「おめでとう」

と会話したその2時間後に、津波で被害にあい、亡くなったことを避難所で読んだ新聞で知りました。




311の夜、私は津波警報が出て、避難を呼びかける消防団の声に背中を押されて、市立病院に逃げ込んでいました。

2年前の今の時間、「テレビがあって情報が得られ、津波が再度襲ってきても逃げられる高いところ」

は、自宅の近くでは市立病院しか思い浮かばなかったのです。



父の実家が流され、親戚が行方不明で、それこそ血眼になって捜し回る父の背中に向かって、

私はこう叫びました!


「生きていればいつか会えるから!

生きている人間が大事!

生き延びることが大事!」


薄情かもしれませんが、それほど混乱し、恐怖との綱渡りで、生死をかけた紙一重の選択をしなければならない緊迫状態だったのです。



市立病院内はごった返していました。

津波にあい、ドロドロの患者さんが次々に運ばれて来ます。

身内の安否確認の問い合わせに訪ねて来る人は、あとを絶ちませんでした。


↓昨年の311の夜、私は市立病院の及川副院長と亀田総合病院や霧島総合病院から支援に来てくれていた理学療法士、作業療法士、言語聴覚士の皆さんと懇親会をしていたのですね。

こうしてつながってみますと、私が2年前の今夜、市立病院に逃げ込んだのは、何かの力で導かれたのか・・・と思ってしまいます。


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震災後、若いお母さんと子どもたちの話をきいてあげよう・・・相談にのってあげよう・・・

私はすぐに傾聴ボランティアが必要になるのではないかと、東京へ通い、ピアカウンセラーの民間資格を取りました。


私は「泣かせのバンバ」と呼ばれていました。

面談のバンバだったのです。

人のお話しを聴いてあげるのが、私の得意分野。

心のヒダヒダを聴いて欲しい方はたくさんいました。

9割の方が泣いて行かれるので、ついた名前が「泣かせのバンバ」です。

長年教室を運営してきて、私が培ってきた経験を活かすのは、いままさにこの時!と思いました。



震災後の5月のまだ混乱が残るある日、原町高校の同級生と、県に助成金の申請に行くことになりました。

合同庁舎の駐車場で待ち合わせして、いざ!庁舎内へ参らん!とするときに

「私たち、子育て終わったお母さんたちだから、ベテランママの会と名乗ろうか・・・!?」

と、適当に思いつきで決めたネーミングです。


あれから二年近くが経過しようとしています。


元公務員で、地味に控えめに暮らすことを良しとする両親は、

私がこうして活動することも、

テレビや新聞に取り上げられることも、芳しく思っていません。

夜中にしか帰らない娘と、たまに顔を合わせると、この期に及んでも、

止めなさい。

仕事だけしていなさい。

メディアに出るのも恥ずかしい。

目立つことしないで。

もういい加減にしなさい。

と言い続けています。


・・・・と、私は疲れた折に、ちと立ち止まって考えてしまうのです。

家族が反対する中、私はどうしてここまで自分の体を酷使したり、自己資産を使い果たしてまで他人のお世話をし続けるのか・・・・?と・・・・



弁護士5人に自己破産を勧められた私は、躊躇している間に戻って来た、コウタ一人のために

塾を再開して、貯金は見事に使い果たしました。

自分で言うのもなんですが、それはもうあっぱれなほどの使いっぷりで

会計を任せている秘書のカトウが「まさか先生、他にも通帳ありますよね?」と言いますので

「ないよ!これだけ!」とあっさり答えましたら

本人よりも、秘書の方が愕然として緊迫感を持って仕事に勤しんでくれています。



先日、娘に尋ねました。

「ママ、このままボランティア続けると、本当に自己破産しかねない。もう会社のお金にまで手をつけているから・・・ボランティアどうしようかな・・・?」


私より10倍アクティブで、潔い娘は、こう言いました。

「気の済むまでやったらいいよ」


まだ彼氏もいない娘ではありますが、一応世間では年頃の適齢期であります。

親がこんなでは、嫁入り支度も整えてあげられないではないか・・・と、母としては申し訳ない気持ちにもなるわけです。

しかし我が娘・・・・

「ママは好きなことしてていい」

と言います。

「ママは、困った人ほっておけないでしょう??」


ああ~そうなんです。

子どもの頃からそうでした・・・・

持っていたおせんべいを、お友達にあげてしまって、自分はお腹すいたなーと思っても

友達が嬉しそうなら、ま、いいか・・・と思えるアホな奴でした。

かなりドンくさくて、マラソン大会でも、ビリになる子と一緒に走って、結局友達が最後にダッシュして、自分がビリになってしまうような子どもでした。


多分、私のボランティアというのは、きっと趣味・・・いや、本能の部分で、ただ好きなんだと思います。


ボランティアをしていて、たくさんの友人ができました。

今年の311は、東大大学院生の野村さんがリアル彼女を連れて教室を訪ねてくれました。↓

こんな出会いも、人さまのお世話をしていてこその醍醐味です。



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娘から、もう止めたら?と言われるまで、人さまのお世話を続けていこうかな・・・とゆるく考えている311震災記念日の夜です。


合掌

今日は亨平先生の49日でもありました・・・