まだ青く硬いままでは食べられない。
かと言って、
熟れすぎて腐っても食べられない。
暑すぎれば生きていけないし、
かと言って、
寒すぎても生きてはいけない。
金持ちすぎれば奢るし、
かと言って、
貧乏過ぎれば僻む。
愛されすぎれば鬱陶しいし、
かと言って、
愛されすぎなければ自分の想いに縛られる。
この世界では、
大好きなものがあれば、
大嫌いなものが現れる。
愛している人がいれば、
愛していない人が現れる。
特別な人がいる限り、
特別ではない人が現れる。
特別な人など、この世にはいないのに。
失いたくないものがある限り、
失っていくだろう。
失わないものなど、この世にはないのに。
スキ、キライ
イイ、ワルイの概念がある限り、
私達は永遠にこの3次元をマスターする事は出来ない。
愛する人から、素晴らしい愛の言葉をもらうこと、
憎んでいる人から、こっぴどい仕打ちをされること、
どちらも本当は変わらぬギフトだ。
魂同士が強く惹かれる人の内面の美しさを観るとき、
自分の内側の優しい気持ちや、その人を愛しく思う自分を観る。
それは今の自分を幸せな気分にしてくれるし、
いつまでもその人と心をつなげていたい。
でもそうすることで、その時間は特別な時間になってしまい、
他の時間はそれに劣る時間だと、意識は勝手に決め付ける。
勝手に優劣をつけはじめる。
とっても苦手な人がいて、その人がメールをくれるたびにイライラして、もうつながりたくないんだけど・・・と思う。
何でこの人と、無理してかかわらなきゃいけないの?
そんな時間がもったいない・・・と思う。
でもそうすることで、その人の魂との約束を、贈ってくれている素晴らしいギフトをいつも逃している。
その人から学べる、成長できる機会をことごとく逃している。
すべての人がスキでもなく、キライでもなくなったとき、
イイ人も、ワルイ人もいなくなったとき、
すべての人の瞳の中に初めて本当の愛を観るだろう。
そこには、私が求めてやまない、創造主が在るだろう。
すべての物事がスキでもなく、キライでもなくなったとき、
イイ事も、ワルイ事もなくなったとき、
すべての物事が優劣のない愛であることを観るだろう。
その物事はすべて、私が求めてやまない、創造主の愛だと悟るだろう。
そしてその中道を行く時に、
私は私を生きることが出来、
私は私ではなくなるだろう。
そこには普遍。
