1975年に生まれてから、ずっと山口県に生まれ育ってきた。

1993年に香川高等学校を、卒業してそのまま東京に上京することになる。

東京に行くことは幼いころからの夢だった。

本当に幼いころからの夢だった。

山口県にいる事が、嫌と言うわけではなくて、山口はとても良い所で、どこに行っても

近くに山はあるし、どこにいても海が見える。

そして、その、海の色はいつも美しいbuleでした。

だから、私は海が見えるところに行くと、落ち着くし、気分が良い。

父親が小さな造船会社の社長で子供の頃から家族で、仕事のついでに、海に行っていた。

多分、山口県の美しい海を見て育ったから、海が好きなんだと思う。🌊

父が船の修理をしている時に、私はたいてい、釣り竿に餌をつけて、魚釣りをする。

海で浜から釣るので、あまり大きな魚は釣れないけど、食べて良いのか悪いのか…私には見分けがつかないので

母に「お母さ~ん、これ食べれるん?」と、聞いていた。

お昼になったら、来る道にあるスーパーで、購入したものか、母が作ったお弁当などを食べていた。

で、仕事が終わると、家に着くまでにある道のりにある温泉に寄って入る。

田舎なので天然な温泉がたくさんあり、休日の仕事帰りには良く家族で寄っていた。

兄はもう、あまりそこに一緒に行くことは無いけれど、私は家族でそうゆう時間が持てるのがとても楽しくて

好きだった。

自然が多くて美しい山に囲まれた山口県が、とても好きだった。

 

でも、幼いころからやっぱり、なんだかここではない。

山口にいる事に違和感を感じていて、とにかく何をやっても目立ってしまう。

歩いているだけで、すぐに見つけられてしまう・・・。

なので、人が多い東京に行けば、もしかしたら私と同じ様に高身長の人がたくさんいて、

私は紛れる事ができるのではないかと、思っていた。なので、海外に行くことも

考えていた。どうにかして目立ってやろう!とは全然思ってなくて、どうしたら

紛れていられるかを考えていた。

 

香川高校を卒業するのが、1993年で、そのまま東京に出てきた。

高校の時、就職活動はしていなかったのだけれど、なぜか、とんとん拍子で

東京にある企業に決まってしまった。正直東京行きが決まると、不安もあったけれど、当時

兄も東京に来ていたので、両親も安心していたと、記憶している。

本当は隣の短大か、県内の企業に就職したかった。

上京したいと思う気持ちと、山口に留まりたい気持ちが半々でしたが、もう内定していたので

山口から出る事を決めた。

 

1993年4月から錦糸町にある、石川島播磨重工業で事務職をすることになる。

そこでは、出張の旅費を清算して仮払いしたり、ファイルの整頓をしたり、雑用をしたり

設計者が仕事をしやすいように、周囲の環境を整えたり、流しの清掃をしたり、お茶を出したり

書類関係を整えたり、パソコンの使い方はここで0から学んだ。

 

IHIに入社したのは、バレーボールのお陰で、4年間バレーボールをするという決まりの元?仕事は15時までで

それから先輩たちと一緒にバスに乗り、豊洲にある体育館に向かった。

16時から20時くらいまで練習する。試合前は、遅くて22時くらいまで練習した。

IHIでは新しい男性専用の独身寮でした。その為きちんと、食堂がありそこで食事をいただいていた。

寮の所在地は千葉県の船橋法典で、ここも超田舎でした。目の前に船橋競馬場があり

風の向きによっては・・・、「ん…臭い…」💦馬糞の匂いが漂っていた。

 

その頃遊ぶのは、有楽町や、銀座でした。だいたい、友達とカラオケに行きお酒を飲みタバコを吸い

飽きたら帰る。

他には、渋谷へも良く行った。渋谷ではクラブに行って、他国の人達ともワイワイ?遊んだ。

 

それから、20歳の時に生命保険のおばさんからの紹介で主人と出会う。

俗にいうコンパである。私にとって、初めての恋愛で、結婚だった。ロストバージンは今の主人

だった。