数週間前、父が亡くなった。
死亡診断書に記載された死因は食道がん。
突然ではなかった。
大学生の頃、夜大学構内を歩いていると、電話がかかってきた。
その相手は母だったか、父本人だったか、今となっては覚えていない。
しかしはっきりと覚えているのは、がんを患ったこと。
早期発見だから治るだろうとのこと。
そして電話越しにでも分かる、何か感情を抑えた声色。
今となってみれば、不安にさせまいと、ネガティブになるまいとする強がりだったと思う。
私は極度の恥ずかしがり屋で、自己中心的な人間だった。
いつの頃からか家族の前で感情を露わにすることが出来なくなっていた。
そのショッキングな電話でもやはり人は変わらず、うん。うん。と相槌をうつだけだった。
電話口の父か母は、どんな気持ちだっただろう。
我が子ながら冷たい娘だと、がっかりしたのではないだろうか。
早期発見だったこともあり、確かにがんはみるみる小さくなっていった。
お医者さんからは、ある程度治癒したと告げられたと聞いた。
親と死がうまく結びついていなかった私は、安心もせず当然のことのように聞き流した。
数年経ち、再発したとまた電話で教えられた。
私は大学を卒業し、社会人になっていた。
食道がんはのどを蝕んでいくらしい。確かに声が掠れていた。
声の掠れは、食道がん再発の合図でもあったらしかった。
地元より遠い、地元では都会の病院に父が入院することになった。
一度だけお見舞いに行った。それだけでも照れ臭かったのは覚えている。
ほどなく退院、それからは通院で治療を続けていった。
治療中、良くなったとも悪くなったとも話がなかったため、
父の病が自分の中での比重が軽くなり、日常へと戻った。
一度目に恐怖を覚えたのは2年前の5月だったか。
父親が、退院日当日の朝に病院で倒れたと電話があった。
一命はとりとめたものの、意識が朦朧としているらしい。
急遽仕事は休みを頂き、父がいる病院、片道約1時間30分の地元へ戻った。
到着すると父が赤子のようになっていた。
原因はよく理解できなかったが、使用した薬の影響で
体内のアンモニア濃度がかなり上がったことによる、意識障害との話だったかと思う。
言葉は話せず、意識は朧気。
食道が狭まりアイスクリームすら食べることが難しくなっていた時期だったので、
痰が溜まれば窒息死する可能性があるため喉から痰を吸引。
自力歩行はできないため、おむつを履かせられていた。
しっかり者だった父はぼんやりする意識の中、おそらく無意識に自力でトイレに行こうと
立ち上がるものの、転倒や点滴が抜ける恐れがあるため皆で必死に止めた。
自分でなんでもやりたがる、長距離散歩が日課の父。
当然父の本意ではない状況に、胸が苦しくなった。
1日、また1日と少しずつ意識がはっきりしていく父に安心した。
その時の担当医に対し父は、不信感をもっているようだった。
今回のことだけでなく、今までも心無い言葉を何度か言われていたようだった。
父の尊厳を汚されたようで、怒りよりも悲しみが沸いた。
二度目は2年前の秋。
担当医を変えセカンドオピニオンを行った父は、転院先でステントを試していた。
あらかじめリスクは説明されていた。
治療で食道はボロボロ。水すら通らなくなっている程にせばまった食道。
その時は栄養摂取のために、自立した生活を送りながら胃ろうをしていた。
ビールの次に好きだった食事。
食事ができるようになるならと、リスクを承知して食道にステントを入れた。
ステントを入れてから、のどに激痛が走り続けていたらしい。
体に違和感があり朝洗面所にいくと、吐血したようだった。
急遽病院へ。ステントが悪さをしているとのことで、ステントを外すことにした。
ステントを外す際、思いっきりはじけ飛んでしまった。
はじけ飛んだ勢いで、食道に大きな穴が開いた。
大量出血したらしい。その時待合室で待っていた母が、失血死するかもしれないと呼ばれたようだった。
母は慌てて兄と私に連絡を入れた。
しかし私は、仕事中携帯を見ないこと、なにより繁忙期真っただ中だったこともあり、
その連絡に気が付いたのは、仕事が落ち着いた19時頃だった。
そのころにはすべて収まり、最終手段で使用したクリップで、穴はふさがったとのことだった。
私はすべてが終わった後に聞いたので、安心というよりは、物語を聞いている風だった。
ICUにいるものの助かったとのことで、1年で一番の繁忙期であった仕事に穴を
開けまいと、翌日半休をもらいたいと上司同僚に申し出た。
家族と仕事、比べようもない。休みなさいと背中を押してくれた先輩には、
今となっても頭が上がらない。
翌日、またしても片道1時間30分ほどかけて父が入院している病院へ行った。
父はけろっとしており、そんなことになっているなんて知らんかったと笑っていた。
しかしステントという、動物の本能でもある飲食への希望を生涯絶たれた父の絶望は、
どれほどのものだっただろう。
想像したくない程、つらかったのではないだろうか。
そこからは右肩下がりだった。
目に見えて弱っていく父を見て、私は結婚を決意した。
結婚するなら、その時交際していた人が良かった。
お互い優柔不断、決断ができない者同士だったが、
どうせするなら早いほうが後悔しないと、朝寝起きの状態でプロポーズした。
しかし父の病状を踏み台にして、自分の楽しみや幸せなことをしたという
うしろめたさに、父へ申し訳ない気持ちが浮かんだ。
父が苦しいときに、私は楽しんでいる。
でも結婚するなら、結婚式を挙げるなら父がまだ元気なうちがいい。
そう思い、結婚式まで駆けた。
結婚のあいさつは、いつも私が来たら嬉しそうにする両親がしんと静まり返っていて、怖かった。
はじめは父が無口で怖かったが、話して悪い人ではないと判断したのか、空気が少しずつ緩んでいった。
安堵した。
相手の家は遠方のためなかなか挨拶に伺えず、両家顔合わせまで会うことはなかったため、
気まずさと申し訳なさがあった。
そして色々と打ち合わせを重ね、結婚式を迎えた。
あまり周囲を見る時間はとれなかったが、向こうの両親は終始楽しそうだった。
自分たちの友だちも楽しそうだった。私の両親は、わからなかった。
結婚式でも恥ずかしがりで自己中な自分は隠しきれず、
家族の近くにいったときは少しむすっとぎこちない雰囲気を出してしまい、
そのうしろめたさが私にはあったからそう見えたのかもしれない。
後日友人から、父親がすごく楽しそうだったと聞いてほっとした。
結婚式から数か月後、向こうの実家が遠方にあり、
そこにいつかいってみたいと父が言っていたのを思い出し、誘って了承を得た。
しかし、旅行には行けなかった。
旅行の数日前、父の体調が急激に悪化した。
旅行へは母と私だけが行くことにしたが、母はどこか上の空だった。
枕が変わったからか、父が心配だったからか、母は一睡もせず朝を迎えた。